ヴィニー・カリウタ
ヴィンセント・ピーター・カリウタ(Vincent Peter Colaiuta、1956年2月5日生 - )は、イタリア系アメリカ人のドラマーで、多くのジャンルでスタジオ・ミュージシャンとして活動している。1970年代後半からフランク・ザッパ、ジョニ・ミッチェル、スティングなどとレコーディングやツアーを行う傍ら、多数のレコーディングやコンサートで出演をしている。 1996年にモダンドラマー誌のホールオブフェイム[1]、2014年にクラシックドラマー誌のホールオブフェイム[2]に殿堂入りした。グラミー賞は1回受賞し、2回ノミネートされている[3]。 来歴ペンシルベニア州ブラウンズビル出身。子供の頃からドラムセットで遊び、14歳の時に両親からフルセットを贈られ、本格的にドラマーを目指す道を歩み始めた。 1974年から1年間、ボストンのバークリー音楽院で学ぶ。この時代、当時ビッグバンドに所属していたドラマーのスティーヴ・スミスと出会っている。両者はゲイリー・チェイフィーの講義を懸命に受けたり、シンバルの叩法について夜遅くまで語り合うなど、熱心な学生だった。 バークリ―で学んだ後にアル・クーパーと活動してから、1978年に住まいをロサンゼルスに移し[4]、ラウンジのバンドなどで演奏しながら糧を得つつ経験を積んだ。同年、22歳の時にフランク・ザッパのオーディションを受け[注釈 1]、難易度では悪名高い課題曲「The Black Page」[注釈 2]を見事に演奏して合格した[4]。そしてザッパのツアーのメイン・ドラマーとして1978年8月から10月までの国内ツアーと1979年2月から4月までのヨーロッパ・ツアーに参加し、スタジオ活動に専念する為に一旦ツアー活動から離れた後、1980年10月から12月までの国内とカナダのツアーに参加した[5][4]。この間のザッパのレコーディングでの有力メンバーにもなり、『ジョーのガレージ』[6](1979年)、『ティンゼル・タウン・リベリオン』[5](1981年)、『黙ってギターを弾いてくれ』(1981年)の3作のアルバムでドラムを叩いた。そのどれもが驚くべき内容だと多くのドラマーに認められ、特に『ジョーのガレージ』でのそれは1993年の『Modern Drummer』誌においてドラム演奏ベスト25に選出される程のものだった。ザッパも後年出版した自伝に、彼のプレイを自分のバンドの歴代ドラマーで最高のものと綴っている[注釈 3][7]。 ![]() ザッパの元を独立してからは、ジノ・ヴァネリ、ジョニ・ミッチェル、バーブラ・ストライサンド、サンディ&ジュニアやチャカ・カーンなどから果てはメガデスまで、多彩なミュージシャンとの仕事をこなす。一方で、ジャズ界でも八面六臂の活躍を見せ、チック・コリア、ジミー・ハスリップ、クインシー・ジョーンズ、バディ・リッチのビッグバンドやビューエル・ナイトリンガーらとも共演している。2005年には、ポール・アンカのヒット・アルバム『ロック・スウィング』にも参加している。 1990年、彼はスティングの募集に応じ、アルバム『ソウル・ケージ』発表後のライブ・ツアーに参加する。スティングのバンド加入はその後7年間に及び、レコーディングにはそれ以上の期間加わった。1996年にはスティングに同行して「English Jam」で演奏し、その模様はジョン・マクラフリンのアルバム『ザ・プロミス』に収められている。2003年、スティングのアルバム『セイクレッド・ラヴ』のセッションに参加した縁で同アルバムのプロモーション・ライブに出演したが、ワールド・ツアーへの誘いは断っている。 1994年、初ソロ・アルバム『VINNIE COLAIUTA』を発表[8]。しかしセッション・ミュージシャンの要請が相変わらず多く、また映画音楽の制作やテレビ、ラジオなどの音楽担当を数え切れず任されていることもあって、それ以後はなかなか発表されなかった。 これまで『Modern Drummer』誌の読者投票で選出されるドラマー・オブ・ザ・イヤーに通算18度選ばれ、うち10回は「Best Overall」カテゴリーでの受賞を含んでいる。1996年には、現代ドラム奏者の殿堂入りし、今を生きる最も重要なドラマーと評された。 直近では、フェイス・ヒルのレコーディングやツアーへの参加、ジェフ・ベックの公演でバックを務める傍ら、数多いミュージシャンのセッションなど、相変わらず多忙なスケジュールをこなしている。 ディスコグラフィリーダー・アルバム
ジン・チ(ヴィニー・カリウタ、ロベン・フォード、ジミー・ハスリップなどが参加したバンド)
連名アルバム
参加アルバム
その他
脚注注釈
出典
引用文献
外部リンク |
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