渡辺美里
渡辺 美里(わたなべ みさと、1966年7月12日[1] - )は、日本の歌手・作詞家・シンガーソングライターである。 本名同じ。京都府相楽郡精華町生まれ[2]、東京都育ち。身長は158cm(公称)。所属事務所はHeartland(1983年 - 1995年) → アンティノスマネージメント(1995年 - 2004年3月) → ブルーワンミュージック(2004年5月 - 2006年3月) → ニューカム(2006年4月 - 2007年5月14日) → ララマハロ(2007年5月15日 - 、自身の個人事務所)。 人物小学生時代、隣近所に外国人が住んでいて、仲良くなった。当時から歌うことが大好きだった彼女は、その男性に【霧のサンフランシスコ】を日本語で歌ってあげた。すると、彼は故郷を思い出したようで、泣き出した。 「自分自身のナマの声で、何かを伝えることができるんだ!」 といった思いを、当時の渡辺美里は抱(いだ)いたという。 東京都立松原高等学校卒業。血液型はO型。高校時代はラグビー部のマネージャー。高校の先輩に清水信之、EPO、佐橋佳幸らがいる。 高校在学中に、ミス・セブンティーンコンテスト に出場し、決勝まで残るがグランプリ(優勝)には届かなかった[3]。 しかし、審査員の中で「ビジュアルもかなり良いし、元気(快活)なキャラクターが素晴らしい! しかも歌も上手(うま)かったから・・臨時で《歌ウマ部門》みたいなのを作り、受賞させよう!」 といった話が持ち上がった。結果、突如新設された歌唱部門での受賞となる。 1985年、EPIC・ソニー(現エピックレコードジャパン)からデビュー[2]。渡辺が初期に所属していた芸能事務所Heartlandの先輩でもある白井貴子の成功を受け“第二の白井貴子”としての側面もあり、デビュー直後の1985年6月15日に国立競技場にて行われた大規模コンサート「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」にも白井のバックコーラスとして参加[2]。1986年のシングル「My Revolution」のヒットにより一躍人気ソロシンガーとしての地位を築く。デビュー翌年から西武ライオンズ球場、大阪スタヂアム、ナゴヤ球場などで大規模なコンサートを行い、スタジアムでの物怖じしないパフォーマンスが当時のリスナーに支持を得た。また、ラジオパーソナリティーとしても知られており、TBSラジオ「スーパーギャング」など多数のレギュラー番組を担当。一時期は週に4本ものレギュラーラジオ番組を持ち、アイドルとは違った形のガールズポップの先駆者的シンガーとして活躍。また、1980年代後半から1990年代前半頃は佐野元春、大江千里、岡村靖幸、TM NETWORK、大沢誉志幸、小比類巻かほる等と共にエピックの稼ぎ頭的なアーティストとしても知られていた。 オリコンによれば、シングルランキング1位獲得は2作品にとどまっている一方(2位は8作品)、アルバムランキングは9作品が1位を獲得しており、このことからしばしばアルバム・アーティストなどと形容されることがある。また、アルバム連続1位獲得年数ランキングでは、松田聖子、中森明菜、B'zらと並び、歴代5位(タイ記録)の8年連続1位獲得という記録を持つ。 渡辺の楽曲の提供やプロデュースを担当している主なミュージシャンやプロデューサーに小室哲哉、岡村靖幸、木根尚登、伊秩弘将、石井妥師、大江千里、後藤次利、小林武史や渡辺と同じ高校の先輩である清水や佐橋等が居り、彼らは渡辺への楽曲提供やプロデュースで人気に火が付いた。 デビュー以来レーベル移籍は一度も行われておらず、一貫してエピックに所属している。因みにデビュー以来エピックに於ける同一のレーベル且つ長年に亘り所属している歌手は他に鈴木雅之等が居る[注釈 1]。互いに長らく共演する事は極稀であったが、2011年に行われた自身のイベント『美里祭り2011』において鈴木と初共演を果たし、鈴木の代表曲「ロンリー・チャップリン」を熱唱している[4]。 後述の西武ライオンズ球場でのライブが縁でプロ野球は埼玉西武ライオンズのファンである。 1987年以降、渡辺自身が作詞又は作詞作曲双方を手掛ける作品が殆どとなり、作詞の際は「MISATO」名義で(主に1987年以降)、作曲は本名名義で行う事が多い。又、同年以降は背表紙でも「MISATO」名義で表示される事が多い。 来歴デビュー前からデビュー10周年まで
デビュー10周年以降からデビュー20周年まで
デビュー20周年以降
西武スタジアムライブ & MISATO TRAIN西武スタジアムライブ1986年度から始まった西武ライオンズ球場で開催される夏のコンサートが、2005年まで毎年恒例となった。これが始まるきっかけとなったのは、ある日の『渡辺美里のスーパーギャング』(TBSラジオ)放送前のはがきの仕分け中にマネジャーから「やってみる?」ときかれた時に、球場のことが良くわからないようなままではがきを読みながら“何となく”といった感じで返事をしたことだったという[6]。これまでに、のべ70万人を動員し、全盛期には4万枚のチケットが即日完売するほどの盛況であったが、2005年8月6日の「V20」(20回目の意)を最後に、20年続いた西武ライブは幕を閉じた。ラストとなるV20には約39,000人の観客を動員し、佐橋佳幸や大江千里らが最後の応援にかけつけるなど感動のフィナーレとなった。タイトルは「kick off(1986年)」にはじまり「NO SIDE(2005年)」で終わるという、ラグビーの試合開始と終了を意味しており、これは本人が高校時代にラグビー部のマネージャーを務めていたことに由来する。なお、西武スタジアムライブは1986年から2005年まで連続20回とされているが、実際には1989年に2日間2公演行われているので、正しくは連続21回公演となる。 西武スタジアムライブ歴代タイトル
MISATO TRAIN![]() ![]() 1990年以降は最後の年の2005年まで、ライブの観客輸送を兼ねた臨時特別列車・「MISATO TRAIN」が、5000系レッドアロー号(1990年度-1994年度)、10000系ニューレッドアロー号(1995年度-2005年度)で運転された。2018年、8月4日に西武ライオンズ40周年記念の一環としてメットライフドームでの国歌独唱により、13年ぶりに特別に復活し運転された。毎年、異なる特製ヘッドマークがつけられているのが好評で西武球場前駅や西武池袋線沿線では、一年に一度しか運転されないこの列車を撮影する渡辺美里のファンや鉄道ファンも見られた(ただし、2001年・2002年・2003年は特製ヘッドマークが無く「臨時」表示として運転された)。1990年から1994年までと2005年に関しては、この特急車両だけではなく、コンサート開催日当日に西武球場前行きとして走る西武池袋線の一部の急行・準急の車両(運用車輌は、同社通勤用ロングシート車・3ドア車の101・101N系、301系、3000系、4ドア車の2000N系と6000系)にも、ヘッドマークが取り付けられていた。2018年8月4日、西武ライオンズ40周年のイベントの一環として、1日限り、ヘッドマーク付きで復活運転。 歴代「MISATO TRAIN」ヘッドマークタイトル
美里祭り美里祭り歴代タイトル
ディスコグラフィーシングル
デュエット・シングル
配信限定
アルバムオリジナル・アルバム
オリジナル・アルバム ボックス・セット
セルフカバー・アルバム
ベスト・アルバム
ベスト・アルバム(Not For Sale)
非公式 ベスト・アルバム
ライブ・アルバム
カバー・アルバム
デュエット・カバー・アルバム
映像作品
タイアップ
参加作品(ボーカル・コーラス)
出演ラジオレギュラー・特番
ゲスト
ドキュメンタリーCMNHK紅白歌合戦出場歴
カバー
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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