三河稲垣氏
稲垣氏(いながきし)は、武家・華族だった日本の氏族。戦国時代に三河国の土豪として松平氏に仕え、江戸時代には2家が譜代大名家(廃藩時志摩国鳥羽藩3万石と近江国山上藩1万3043石)に列し、維新後2家とも華族の子爵家に列した[1]。 歴史封建時代稲垣氏は、『藩翰譜』などによると、遠祖は清和源氏支流とする小田重氏であるとして。稲垣姓を称したという。また稲垣氏を桓武平氏であるとする研究・学説も存在する[2]。 文明年間 (1469年 - 1486年)に伊勢から三河国宝飯郡牛窪に移り、稲垣藤助重賢が、同国の国人領主牧野氏に臣属したという。はじめ駿河・遠江の戦国大名今川氏に与して松平清康軍を相手に奮戦した。『藩翰譜』には重賢の戦死の事実だけが記載されるに留まる。だが、寛政重修諸家譜には、享禄元年(1528年)、吉田(豊橋市)方面から牛久保に軍勢が押し寄せたときに、稲垣重賢は防戦して宝飯郡産女塚で配下16名と共に討ち死にしたと、対松平氏戦に関する若干の記述がある。 長茂の代の永禄8年(1565年)に徳川家康に服属[3]。長茂は天正18年(1590年)に家康が関東へ移封されると下野国足利、上野国山田、勢田の三郡において3000石を与えられた[4]。慶長6年(1601年)には上野国伊勢崎藩主1万石に封じられ[4]、ついで元和2年(1616年)に長茂の長男重綱が越後国藤井藩2万石[4]、元和6年(1620年)に同国三条藩2万3000石に加増転封となり[5]、慶安4年(1651年)に三河国刈谷藩、重富の代の元禄15年(1702年)に上総国大多喜藩、ついで下野国鳥山藩に移封[5]。昭賢の代の宝永元年(1710年)までに3万石に加増され、享保10年(1725年)に志摩国鳥羽藩に転封。以降廃藩置県まで在封した[6]。 一方長茂の三男重大の系統も貞享2年(1685年)の加増で1万3043石となり大名に列し、元禄11年(1698年)に近江国山上藩に封じられた。以降廃藩置県までここに在封した[7]。 明治以降最後の鳥羽藩主長敬と最後の山上藩主太清はともに明治2年(1869年)6月の版籍奉還で知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで務めた[8]。 明治になって華族制度が始まると両稲垣家の当主はともに華族に列し[9][10]、華族令の施行により明治17年(1884年)7月8日に長敬は子爵に叙せられた[11]。 旧山上藩主家の方は女戸主だったため叙爵が遅れ、明治19年(1886年)7月16日になって稲垣太祥が子爵に叙せられている[12]。太祥は貴族院の子爵議員に6回当選した[13]。また宮内省華族局御用掛となった[13]。 長昌の代に稲垣宗家子爵家の邸宅は東京市渋谷区神山町にあった[14]。重厚の代に山上稲垣子爵家の邸宅は東京市小石川区臺町にあった[13]。 系譜
脚注注釈出典
参考文献 |
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