二条冬実
二条 冬実(にじょう ふゆざね)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての公卿。関白・二条教基の子。官位は従一位・関白、左大臣。河内国玉櫛荘(大阪府東大阪市)を本拠とし、玉櫛(たまくし)と号する[2]。父祖と同様、南朝に仕えた。 経歴南朝の補任記録が残されていないために官歴は不明の点が多いが[3]、中納言・中将から左近衛大将に転任し、弘和元年/永徳元年(1381年)12月には右大臣として見任。元中元年/至徳元年(1384年)6月までに叔父・教頼から関白職を譲られたと考えられ[4](前年冬の後亀山天皇践祚に伴うものか)、最終的に従一位・左大臣に至った。関白を辞職して後、元中9年/明徳3年(1392年)閏10月に南北朝合一を迎えたが、天皇や他の廷臣と共に入洛した形跡はない。ただ、応永3年(1396年)正月の叙位の際、「自南方出京、号玉櫛人息」である良教が太閤・二条師嗣の猶子となって、その推挙を受けていることから[5]、この時には既に在京していたようである。 以後しばらくの動向については史料を欠くが、晩年は出家して玉櫛禅門と号し、伏見宮の栄仁親王や貞成親王との親交を深め、親王主催の茶会・連歌などにたびたび参加していたことが『看聞日記』に見える。なお、同日記の応永24年(1417年)2月8日条によると、これより前に醍醐と山科との郷民の間で確執があったため、醍醐から帰る途中の冬実が巻き込まれ、山科の郷民らに一時拉致される事件が起こった。この年の秋から病気がちとなり、翌応永25年(1418年)12月23日に薨去。享年66。京都では割合に静かな後半生を過ごすことが出来たのであろう。貞成親王は冬実の人柄について「心操穏便、酒盛殊有其興人也」と評し、その死を惜しんでいる。 南朝歌壇においては、自邸で百首歌を催した他、「入道前関白家百首歌」に詠進し、准勅撰集『新葉和歌集』には「右大臣」として5首が入集する。 系譜子女については、『尊卑分脈』『系図纂要』には何ら記すところがないが、『看聞日記』などによって二男三女の存在を確認し得る。
脚注
参考文献 |
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