伏見宮貞成親王
伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさしんのう、1372年4月29日〈応安5年3月25日〉 - 1456年9月28日〈康正2年8月29日〉)は、日本の室町時代の皇族。世襲親王家の伏見宮第3代当主。後花園天皇の父。出家後の法名は道欽入道親王(どうきん にゅうどうしんのう)。太上法皇としての院号は北朝第3代崇光天皇の孫にあたることから、後崇光院(ごすこういん)または後崇光天皇(ごすこうてんのう)。 「現在の皇室」と「旧皇族11宮家」の、男系での最近共通祖先である(なお、女系を含めた場合での最近共通祖先は江戸時代の霊元天皇)。 生涯![]() ![]() 応安5年3月25日(1372年4月29日)、伏見宮家初代・伏見宮栄仁親王と三条治子(中納言三条実治の女)の間に生まれる[1]。同母兄に治仁王(のち伏見宮家2代)[2]。 幼少時から今出川家で養育される[1]。左大臣今出川公直・その甥左大臣公行が養親となり貞成は終生その養育の恩を忘れなかった。音楽や和歌に親しんだのも幼時の環境による。 若年時に門跡寺院に入り出家するはずだったが、とりやめとなっている[3]。本人は俗世に留まれるよう祈っており、慈父の恩愛によって俗体となったと書いている[3]。 応永18年(1411年)4月4日、40歳にしてようやく父の栄仁親王のもとに迎えられ、伏見御所で元服して貞成と名乗った[4]。 応永23年(1416年)1月から『看聞日記』の記述を始める[5]。11月20日に父栄仁親王が薨去[6]。その跡を継いだ兄の治仁王も翌応永24年(1417年)2月11日に中風を発病し翌日急死[7]。治仁王には女子しかおらず、死後の2月17日に生まれた子も女子だったため、貞成王が伏見宮家を継ぐこととなった[8]。しかし、突然の死で家督を継ぐことになった貞成が治仁王を毒殺したという噂が世間では流れた[9]。後小松院や4代将軍足利義持からの安堵を受けて大事には至らなかったが、伏見宮は正平一統の際に廃位されて吉野に拉致された崇光天皇の正嫡の系統であるがために、崇光天皇の弟の後光厳天皇によって再興された北朝の系統である当時の皇統からは猜疑心をもって見られることが何かと多かった。 応永25年(1418年)7月には称光天皇の寵愛を受けた新内侍が懐妊したのを天皇から貞成の子だと身に覚えのない密通の嫌疑がかけられたが、このときも義持のとりなしで貞成は起請文を提出して辛くも窮地を脱している[10][11][12]。また、伏見宮は後小松院がかつて長講堂領などを没収した際に、崇光天皇とともに廃位された東宮直仁親王が継承していた室町院領を代わりに与えられていたが、貞成が室町院領以外の直仁の遺領も室町院領であると称して直仁の子供たちから没収しようとしたため、両者の間で相論となっている(直仁の子供は全て出家して子孫がいなかったため、最終的にその断絶とともに伏見宮領に組み込まれた)[13]。 応永32年(1425年)2月、称光天皇の皇太弟・小川宮が死去[14][15]。貞成王は4月16日に親王宣下を受け、54歳にして貞成親王となった[16]。弟を喪った称光天皇は病弱の上継嗣もなかったため、貞成親王とその子・彦仁王が皇儲の候補となった。閏6月3日、貞成のもとに後小松院の意を伝える三条公雅の書状が届き、その内容は彦仁を皇位継承者とみなすものだったが、同時に貞成に出家を命じるものであった[17]。これを受け7月5日に貞成は伏見指月庵で薙髪し[18]、道欽の法名を授かった[19]。同月称光天皇は重態となり、足利義持から鹿苑院厳仲、用健周乾(貞成の弟)を介して彦仁の年齢の問い合わせがあるなどの動きはあったものの、この時は天皇は回復した[20]。 出家後の貞成は、連歌・囲碁・雙六などの遊芸に熱中した[21]。 正長元年(1428年)7月、称光天皇が再び重態に陥ると、足利義宣(翌年6代将軍となり義教と改名)らの指示により管領・畠山満家が伏見御所に彦仁を迎えに参上し、彦仁は若王子社に移った[22]。16日、後小松院は彦仁を猶子とすることを明らかにし、翌17日に彦仁は仙洞御所に迎えられた[23]。称光天皇は20日に崩御、28日に親王宣下も立太子も経ていない彦仁が践祚し(後花園天皇)、三条公光邸に移った[24]。 その後も後小松院が引き続き治天として院政を敷いたため、貞成には目立った動きがなかった。 永享3年(1431年)8月に貞成は石清水八幡宮に馬を進納し、次のような和歌三首を付した願書を奉納した[25]。我が子の即位を見届けた老齢の貞成に「残るのぞみ」とは、先例のように天皇の実父として太上天皇として遇されることであった[25]。
永享5年(1433年)に後小松院が崩御したが、後花園天皇を猶子として形式的に後光厳院流の皇統を繋ぐことに執心した後小松院は、貞成への尊号宣下と仙洞御所を貞成御所とすることを禁じる遺詔を遺していた[26]。とはいえ室町幕府将軍・足利義教は貞成を天皇の実父として厚遇しており、永享7年(1435年)には義教の申し出により京都に貞成の御所が造営され、12月に貞成は新御所に入った[27]。 嘉吉3年(1443年)9月に発生した後南朝による内裏襲撃事件である禁闕の変により、貞成の御所が後花園天皇の仮御所となったため父子が同居することとなり、久しぶりに我が子との間近での対面を果たした貞成は「乱中の大慶」として望外の喜びを書き残している[28]。この同居は長くは続かず、同年末に貞成は自らの御所から三条実量邸に移り内裏新造を待つこととなった[28]。 長男の彦仁王が皇位を継承したことにより、伏見宮家の跡継ぎは次男の貞常王となった。文安元年(1444年)2月に親王宣下を受けた貞常は翌年3月元服、さらに翌年8月、貞成から伏見庄や播磨国衙など相伝の領地が貞常に譲られた[29]。 文安4年(1447年)11月27日、貞成に太上天皇の尊号が奉られたが[30]、翌文安5年(1448年)2月22日にはこれを辞退している[31]。文安5年(1448年)は節目の年となり、3月に貞成親王の室であり後花園天皇・貞常親王の母であった庭田幸子が敷政門院の院号を授かったものの翌4月13日に死去、貞成も30年前から書き続けていた『看聞日記』の筆を置き、6月に貞常に対し伏見宮家相伝の楽器・記録の譲渡を行った[32]。これ以降も貞成は事実上の上皇(法皇)として叙位・任官を受けた人々の拝賀を受けており、『諸家拝賀記』を執筆している[33]。 康正2年(1456年)5月に病気となった貞成は伏見の宝厳院に移ったが、完成した新内裏に後花園天皇が入ったため仙洞御所に戻った後8月29日に薨去した[34]。没後、後崇光院の院号を追贈された[34]。墓所は伏見松林院陵(京都市伏見区)[34]。 人物
系譜
系図
伏見宮系図
妃・王子女持明院統の正嫡に定められた、北朝第3代崇光天皇の孫。父は栄仁親王(初代伏見宮)。母は三条実治の女の正親町三条治子。兄は伏見宮第2代当主治仁王。 現皇室との接点貞成親王は庭田幸子(敷政門院)との間に2王子を儲けた。第1王子の彦仁王は後花園天皇となり、この皇統が今日の皇室へと続いている。一方で、第2王子の貞常親王は伏見宮を継承し、この系統も後代まで続いた。さらに第20/23代伏見宮邦家親王の子孫からは、明治時代に多くの宮家が創設された(伏見宮系皇族)。第二次世界大戦における日本の敗戦を経て、1947年(昭和22年)11月に臣籍降下(いわゆる皇籍離脱)した11宮家51名(いわゆる旧皇族)の血統は、この伏見宮の系統である。平成時代に表面化した、皇族男子(皇位継承権者)の減少に伴う『皇位継承問題』に際し、その解決策の一つとして旧皇族の皇籍復帰が挙げられている。この貞成親王が、現皇室と旧皇族の両系統が共有する、男系での「最も近い共通祖先」(MRCA)である。ただし、女系を含めた場合は、江戸時代の霊元天皇がより近いMRCAとなる。これは、霊元天皇・敬法門院夫妻の皇女である福子内親王(東山天皇の同母妹)が邦永親王(伏見宮第14代当主・第2王子貞常親王の仍孫)の典侍となり貞建親王をもうけ、貞建親王の曾孫が11宮家の源流である邦家親王となった為である。また、旧皇族全員に限定しなければ、一部の者は、明治天皇皇女や昭和天皇皇女の子孫であり、より現皇室とのMRCAは近くなる。 伏見宮貞成親王が登場する作品
脚注脚注出典
参考文献
関連項目 |
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