京浜急行バス羽田営業所
ノクターン号 京浜急行バス羽田営業所(けいひんきゅうこうバスはねだえいぎょうしょ)は、東京都大田区羽田に所在する京浜急行バスの営業所である。最寄りバス停は「羽田車庫」。営業所記号はH。 1999年(平成11年)以前は、蒲田・大森・羽田空港地区の一般路線バスとリムジンバス路線の両方を担当していたが、一般路線を京急バス(後の羽田京急バス東京営業所)に移管。2000年代にはリムジンバス専門の京浜島営業所、新子安営業所と同様、空港連絡バスを専門に取り扱っていた。 2012年(平成24年)11月30日限りで、京浜島・新子安両営業所に路線を移管し、京浜急行電鉄直営時代から53年間にわたる営業所の歴史に一度は終止符を打ったが、2018年(平成30年)4月1日付で羽田京急バスが京浜急行バス本体に吸収合併されたため、組織再興となった。 沿革
都内京急バスの源流東京都大田区の国鉄東海道線よりも東の地域の乗合バスは、1920年(大正9年)2月23日に京浜乗合自動車が品川駅と六郷橋の間で運行を開始した旧国道経由六郷線に端を発する。この路線は京浜電気鉄道の鉄道線(現・京急本線)と完全に並走しており、京浜電気鉄道も事業防衛の一環としてバス事業への参入をもくろむがなかなか免許が下りなかった。 →詳細は「都営バス品川営業所 § 戦前・民営乱立時代」、および「京浜急行バス § 京浜電気鉄道のバス事業」を参照 一方、湯治場として栄えていた森ヶ崎鉱泉への足として、それまでの人力車を代替した路線バスが1924年(大正13年)7月30日に運行を開始する。当初は都南自動車商会と森ヶ崎人力自動車の2社があり、のち1928年(昭和3年)11月24日に両社は統合して梅森自動車となった。 →詳細は「京浜急行バス大森営業所 § 森ヶ崎線」を参照
1931年(昭和6年)3月9日、国鉄大森駅から線路に沿った旧大森町内へのバス路線を運行する大森乗合自動車が設立されるが、発足直後の1932年(昭和7年)2月5日に目黒蒲田電鉄(現・東急)が買収、4月25日に一応自社で開業はするものの、ほどなく翌1933年(昭和8年)6月1日には目黒蒲田電鉄の子会社目蒲乗合に合併されてしまう。 →詳細は「京浜急行バス大森営業所 § 鬼足袋線」、および「東急バス池上営業所 § 目蒲乗合と池上電鉄バス」を参照 京浜電鉄バスは1942年(昭和17年)5月1日の大東急発足で東京急行電鉄に組み込まれ、梅森自動車改め梅森蒲田自動車も同年12月1日には東京急行電鉄に事業一切を譲渡して解散。大田区東部のバスは大東急に一本化された。京浜電気鉄道から引き継いだ高輪営業所、雑色営業所は一時統合され、大鳥居営業所、そして再び雑色営業所と目まぐるしく名前を変えた。 →詳細は「東急バス § 東横・目蒲の合併 - 大東急へ」、および「京浜急行バス § 大東急時代」を参照
東京営業所時代1948年(昭和23年)6月1日、京浜急行電鉄は6年ぶりに大東急を離れ、独立会社として再スタートを切った。 →詳細は「大東急 § 成立と崩壊の経緯」、および「京浜急行電鉄 § 歴史」を参照 東京急行電鉄が旧京浜電気鉄道と旧湘南電気鉄道から引き継いだバス営業所は、この際に湘南線(現・京急本線)横浜駅以南の三浦半島地区を中心に京浜急行に引き継がれたが、品川線の生麦駅以北については川崎市内が実質的に川崎鶴見臨港バスに移管されたほかは、大田区東部(蒲田・糀谷・羽田・大森地区)すなわち旧梅森自動車の路線と京浜電鉄バス国道線と羽田線が京急に戻り、旧大森乗合自動車の路線が加わった。これらの路線を管轄するため、京浜急行電鉄は東京急行電鉄高輪営業所を引き継ぐ「品川営業所」を設けた。この時点ですでに森ヶ崎線の運転が一部再開されていた。 →詳細は「京浜急行バス § 京浜急行電鉄時代」、および「東急バス池上営業所 § 新生・東急電鉄バスへ」を参照 その後、品川営業所は東京営業所と名前を改め、1949年(昭和24年)に京浜国道線の再開を迎える。東京乗合の旧東海道経由六郷線撤退以来19年ぶりに復活する形で都営バスが参入、両社共同運行の東京駅 - 川崎駅間という長距離路線が立ち上げられた。京急では京浜国道線に必要な車両の前線基地として、大田区六郷に雑色操車場を設ける。これは実質上、戦前の雑色営業所の復活に近かった。 →詳細は「都営バス品川営業所 § 115系統」を参照 この頃、京浜急行は日本空港ビルデングの子会社として設立されたばかりの日本空港リムジン交通(現・東京空港交通)とともに民間航空が再開されたばかりの羽田空港への連絡路線を開設することになり、所要車両数が増加するため、1954年(昭和29年)に東京営業所傘下の「大鳥居支所」として当営業所の原型が立ち上げられる。 →「東京空港交通 § 沿革」、および「東京国際空港 § 返還と再出発(東京国際空港)」も参照 1958年(昭和33年)、東京急行電鉄との相互乗り入れによる羽田空港 - 田園調布線が開業し、京浜急行バスは大田区西部の東急バスエリアに進出した。またほぼ同時に、新日本観光(現・はとバス)との共同運行による定期観光バス「都内・江ノ島・鎌倉周遊Hコース」が開設された。 →詳細は「はとバス § 成長期」を参照
羽田営業所設立1959年(昭和34年)、東京営業所は雑色操車場内に移転し蒲田営業所へ名称変更した。このとき、大鳥居支所は都内2番目となる営業所に昇格し、現在まで続く羽田営業所を名乗った。 東京営業所が担当していた路線のうち、主に羽田空港と国鉄蒲田駅を発着する路線を割り振られたが、川崎鶴見臨港バスとの共管による蒲田駅から川崎市内への直通路線も多く運行された。都営バスとの共管路線だった京浜国道線は蒲田営業所に残った。また、この頃はまだ大森営業所が存在しておらず、現在は大森営業所が担当する国鉄大森駅発着路線も担当していた。 →詳細は「京浜急行バス大森営業所 § 羽田所管時代」を参照
1964年(昭和39年)3月25日、京浜急行大師線の小島新田 - 塩浜間が国鉄への用地供出により休止となる。京急では産業道路駅と塩浜の間に代行バスを運行することにし、羽田営業所がその任に当たった。代行輸送は、1970年(昭和45年)11月に同区間が正式廃止となるまで続いた。 大森営業所独立から空港路線強化へ![]() 左が京浜急行、右が弘南バスの車両 1968年(昭和43年)、高速道路を経由する本格的空港連絡路線として現在も存続する羽田空港 - 横浜駅線の運行を開始した。1970年(昭和45年)には大田区平和島に新設された大森営業所へ大森駅発着路線を移管し、羽田空港関連の路線だけが羽田営業所の所管として残った。 その後、旧蒲田営業所の後身だった雑色車庫を吸収合併して、都内一般路線の基礎が出来上がった。一方で、他社との共管路線は早々に縮小の傾向をたどり、1970年(昭和45年)末をもって京浜国道線を廃止、都営との共管を解消すると、1973年(昭和48年)には臨港バスとの共管路線をすべて廃止。さらに1976年(昭和51年)、東急バスとの共管だった羽田空港 - 田園調布駅線が京急単独となり、東急は大田区の東海道線以東から撤退した。 1979年(昭和54年)の横浜シティ・エア・ターミナル(YCAT)開業に伴い、京急初の成田空港路線となるYCAT - 成田空港線の運行を開始し、当営業所が担当となった。この時のYCATは横浜駅から離れた横浜市神奈川区大野町(現・ヨコハマポートサイド地区C-4街区)に置かれたため、京急では横浜駅東口とYCATを結ぶ直行シャトルバスも運行した。 →詳細は「横浜シティ・エア・ターミナル § 歴史」を参照
1986年(昭和61年)12月26日[1]には、弘南バスとの共同運行により、夜行高速バス「ノクターン号」を運行開始し当営業所が担当となる。これは京急初の本格的長距離高速路線への参入となった。 1988年(昭和63年)7月5日[1]には、京成電鉄・東京空港交通との共同運行で、羽田発着初の中距離空港連絡路線となる羽田空港 - 千葉線の運行を開始した。 →詳細は「京成バス新習志野高速営業所 § 短距離高速バス・空港リムジンバス」を参照
1991年(平成3年)8月11日には夜行高速バス「シルフィード号」を京都交通との共同運行で運行開始した(2019年(令和元年)5月12日をもって運行休止)。 京浜島営業所の独立1993年(平成5年)9月、羽田空港の沖合展開による新国内線ターミナル(現・第1ターミナル)が完成する。京浜急行電鉄は京急空港線を延伸して新ターミナル直下に乗り入れる工事を進めたが間に合わず、1998年(平成10年)11月18日の開業まで約5年間、バスのみで空港連絡輸送に取り組んだ。 →詳細は「天空橋駅 § 歴史」、および「京急空港線 § 羽田空港再乗り入れ」を参照 しかし、空港島内の第1ターミナルから本土側にある羽田営業所本所までは遠回りのアクセス道路を経由しなければならず、長い回送距離が必要とされた。このため1994年(平成6年)12月、空港北トンネルを通じて空港島と直結する大田区京浜島に京浜島車庫を新設。羽田空港を発着するリムジン路線が移管された。京浜島車庫は1997年(平成9年)3月、営業所に昇格する形で当営業所から独立。京急初のリムジン高速専用営業所が誕生した。 →詳細は「京浜急行バス京浜島営業所 § 沿革」、および「東京国際空港 § 沖合展開事業の進展」を参照
京急2番目のリムジン高速専用営業所1999年(平成11年)には、都内一般路線の全線が分離子会社の京急バス(後の羽田京急バス)に移管され、当営業所はリムジン・高速専用となって新たな生き残りの道を探ることになった。当初の羽田営業所は現在と同じ所在地だったが、このときに旧・観光バスセンターの車庫・営業所棟を羽田営業所とし移転する形になった。 →詳細は「羽田京急バス東京営業所 § 沿革」を参照
2007年(平成19年)3月18日、PASMOのサービス開始と同時にシステムを導入したが、当営業所で利用対象となるのは空港リムジン路線、中距離高速路線の一部に限られ、当初からバス利用特典サービス(バス特)も適用されなかった。座席指定制に加え、片道運賃が1万円を超えることもある長距離高速路線ではそもそも導入が不可能である。 新子安への移転と閉鎖2012年(平成24年)4月16日、京急は横浜・守屋町の首都高速道路横羽線子安ランプに近いJR新興駅ヤード跡の一部をJR貨物から取得、3番目のリムジン・高速バス専用営業所として新子安営業所を開設し、羽田営業所に残っていた路線の多くを移管した。 羽田営業所はその後も存続したが、同年11月30日、残った全路線が新子安・京浜島・そして羽田京急バス東京の各営業所に移管され、1959年(昭和34年)の設立から53年に及んだ歴史にいったん終止符が打たれた。なお旧羽田営業所敷地は引き続き、羽田京急バスへの運行委託車や高速・リムジンバスの共同運行会社車両の留置に使用されたほか、高速バスの予約業務を担当する京急高速バス座席センターも置かれていた。 羽田営業所の再興京浜急行電鉄(京急)ではバス部門を分離独立させるにあたり、東武鉄道(東武バス)が採ったような中間持株会社形式への移行も視野に入れていた。すなわち、京浜急行バスには路線を置かず、羽田京急バス・横浜京急バス・湘南京急バスに全路線を移管して、京浜急行バスはこれらの管理統括会社(持株会社)とする方式である。 →「東武バス § 路線撤退と移管」も参照
しかし、都内では大森と京浜島が京浜急行バスに残り、加えて羽田京急バスに採用された乗務員が推薦を受けて京浜急行バス本体に転籍する乗務員登用制度も設けられるなどしたため、完全移管にはかなりの時間を要すると見られていた。 その後、訪日外国人の急増や、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催決定により、バス需要が増加し運転手不足が深刻化した。また複数の部門子会社が存在することによる管理部門の重複などの非効率も指摘されるようになった。そのため京急では一般路線の子会社への完全分離は不可能と判断した。 2018年(平成30年)4月1日付で、羽田京急バスをはじめとする分離子会社3社は京浜急行バス本体に吸収合併して解散、それまでの羽田京急バス東京営業所が京浜急行バス羽田営業所を名乗る形で、5年5か月ぶりに組織が再興された。 →「京浜急行バス鎌倉営業所 § 分離子会社体制の終焉」も参照
運賃・乗車券類
一般路線バスの運賃は東京都区内は240円(羽田空港域内も同様)、川崎市内は220円の均一料金を適用する。前述のとおり、空51、川76・77の各系統で東京都内と川崎市内にまたがって乗車する場合は全区間で東京都内運賃が適用される。 蒲田駅東口 - 京急蒲田駅・蒲田郵便局前、蒲田警察署→蒲田駅東口、蒲田駅東口 - 京急蒲田駅入口、羽田空港敷地内は100円均一(現金・IC共)。羽田空港内と本土の渡り乗車は300円。東京都内を経由し川崎市内まで行く場合も同額となる(前述)。 全路線・全車両でPASMO、Suicaなど全国相互利用に対応した交通系ICカードが使用できる。 →「首都圏ICカード相互利用サービス § バスでの利用」、および「Suica § 交通系ICカードの相互利用」も参照
2023年8月31日まで、大森営業所の所管路線も含めた都内一般路線が利用できる都内1日乗車券(500円)を発売していた。ただし、1日乗車券での空港渡りは60円を支払う必要がある。空51、川76・77の各系統で川崎市内にまたがって乗車する場合と深夜・早朝バスの森11・蒲30、「(川崎駅 -)蒲田駅 - 羽田空港」線に乗車する場合は、乗車全区間の運賃を支払わなければならない(差額を払っても利用不可)[2][3]。 現行路線
一般路線大森 - 羽田空港線
大森駅と羽田空港・羽田車庫を産業道路経由で結ぶ路線。京浜急行電鉄東京営業所時代の1950年(昭和25年)5月15日[1]に運行を開始したとの記録を有する。 森11系統は早朝バスで、早朝に大森駅東口発便が運行される。基本的には森21系統と同じ経路で運行されるが、羽田空港第2ターミナルが終着となっており、羽田空港第1ターミナルへは乗り入れない。早朝バスのため乗車には割増運賃が適用される。 森21系統は大森駅東口から平和島駅・六間堀経由で羽田空港を結ぶ路線である。森11系統と異なり、日中時間帯も運行され、羽田空港第1・第2ターミナルを経由する。朝晩に入出庫便として羽田車庫発着の便が設定されている。 森23系統は早朝・夜間に運行される大森駅東口 - 羽田車庫への出入庫便である。森21系統とは異なり六間堀を経由せず、大鳥居交差点を左折して最短ルートで羽田車庫へ向かう。 なお京浜急行電鉄時代には、大森駅から先東急バスの大森線と似た経路で洗足池へ立ち寄り、そこから東急東横線・目蒲線(現・目黒線)の田園調布駅まで行く園11系統も存在し、1976年(昭和51年)までは東急との相互乗り入れも行われていた。同系統は1998年(平成10年)3月19日限りで廃止、大森駅 - 羽田空港の区間を森21系統と統合された(後述)。 蒲田 - 羽田空港線
JR蒲田駅から環八通りと産業道路を経由し、羽田空港・羽田車庫・天空橋駅へ至る路線である。この系統の歴史は戦前の京浜電気鉄道時代まで遡り、1930年(昭和5年)に蒲田駅と稲荷橋の間で営業を始め、翌1931年(昭和6年)には東京飛行場前まで延長されたという記録が残っている[4]。戦争により一時休止されるが、京浜急行電鉄品川営業所時代の1950年(昭和25年)に再開され、現在まで続く路線の基礎ができた。 →「京浜急行バス § 京浜電気鉄道のバス事業」も参照
羽田空港へ行く路線としては、後述する萩中経由の蒲40・41系統も存在しているが、蒲40・41系統が蒲田女子高・萩中を経由するのに対し、蒲30・31系統は南蒲田交差点から大鳥居まで環八通りを通行し、日の出通り・糀谷駅を経由、京急空港線と並行する。なお蒲31系統の一部便は六間堀・天空橋駅経由で羽田車庫発着となっている。また、大鳥居から環八通りをまっすぐ羽田車庫へ向かう蒲33系統も存在する。2022年12月16日改正で蒲31系統のうち羽田空港発着が大幅減便され、羽田空港行きは早朝のみ、蒲田駅東口行きは午後の1本のみとなり、2025年2月15日ダイヤ改正で蒲31系統の羽田空港行きは消滅する形となった。代替として蒲33系統を天空橋駅まで延伸、羽田車庫発着(早朝の蒲田駅東口行きのみ天空橋駅発(羽田車庫から回送)を含む)を蒲32系統に変更した。蒲33系統のうち天空橋駅行きは朝のみ、蒲田駅東口行きは早朝に羽田車庫発、夕方から夜にかけて天空橋駅発が運転される。天空橋駅行きは穴守橋、天空橋駅発蒲田駅東口行きは羽田車庫を通過する。 蒲30系統は2010年(平成22年)10月21日の国際線ターミナル開業に伴い新設された蒲田駅東口発の早朝バスである。経路は蒲31系統とほぼ同一であるが、大森駅東口発着の森11系統と同じく、羽田空港第1ターミナルへは向かわず、羽田空港第2ターミナルが終着となっている。 2012年2月25日には、蒲田駅発の全系統に対して、あやめ橋を経由するルートに変更、さらに2016年(平成28年)4月1日付で京急蒲田駅周辺の経路が変更され、蒲田駅方面は西口駅前広場、大鳥居方面は東口駅前広場を経由し、京急蒲田駅入口についても両方向とも停車するようになった(萩中線と六郷線は蒲田五丁目を経由し、あやめ橋と京急蒲田駅は経由しない)。 森ヶ崎線
大森営業所から移管された路線で、川76系統は2000年(平成12年)10月1日付で旧京急バスに移管された。 路線の基礎は1924年(大正13年)に都南自動車商会が立ち上げたものである。この区間では既に人力車の運行があり、人力車を運営していた平林商会は事業防衛のため乗合自動車にも参入して森ヶ崎人力自動車となり、梅森自動車、梅森蒲田自動車、そして大東急バスへとつながっていく(前述)。分離独立で京浜急行に移行して間もない1948年(昭和23年)11月1日、蒲田駅 - 森ヶ崎間の運行を再開。その後、道路の狭い北糀谷・東蒲田経由を取りやめ、国道131号を南下して穴守線(現・空港線)大鳥居駅に出るルートに変更される。 川76系統は羽田特別出張所まで川空線と同一で、そこから産業道路を北上して大鳥居、北糀谷を経て森ヶ崎に至る路線。京浜急行電鉄蒲田営業所時代の1960年(昭和35年)に運行を開始[5] したもので、大田区本羽田・南六郷地区と川崎駅を結ぶ路線としては川76系統の方が古い。六郷営業所を経て1973年(昭和48年)に森ヶ崎線と統合されて大森営業所へ移り、2000年(平成12年)10月1日付で羽田京急バスへ移管となった。その後は2004年(平成16年)の空51系統一般路線化でそちらにシフトしていき、現在は朝夕のみ少数便が運行されている。 萩中線
蒲40・蒲41系統は、JR蒲田駅から第一京浜・七辻通り・萩中を経由して羽田空港へ至る路線である。空港アクセス路線としても利用されるが、京急空港線の南側にある大田区南蒲田、東六郷、萩中、本羽田地区と蒲田駅を結ぶ地域輸送、またJCHO東京蒲田医療センター(旧・社会保険蒲田総合病院)へのアクセスを確保する病院輸送、さらには蒲田女子高校、都立つばさ総合高校(旧・都立羽田高校、羽田工業高校)への通学輸送、東京計器本社、永谷園技術開発センター(旧六郷工場)への通勤輸送といった、生活路線の意味合いも強い。なお、日ノ出通り・大鳥居・六間堀経由便とは異なり、蒲田警察署(蒲田駅行のみ停車)と蒲田郵便局前を経由し、京急蒲田駅は通らない。 京浜急行電鉄羽田営業所時代の1962年(昭和37年)6月1日[1]に開設され、蒲田駅発のみ京急蒲田駅を経由していた。しかし京急蒲田駅周辺の高架化工事進捗に伴う2012年(平成24年)2月25日実施のダイヤ改正で蒲田駅発も蒲田郵便局前を経由する経路変更が実施され、萩中を経由する全系統は京急蒲田駅を完全に通らなくなった。 蒲40系統(初代)は1990年代前半まで、京浜急行羽田営業所時代に蒲田駅から川崎大師駅を結ぶ路線(川崎大師への初詣バスとして正月三が日のみ運行)の系統番号であったため、現在の蒲40系統は2代目となる。 蒲40系統は、HANEDA INNOVATION CITY開業に伴う2020年7月3日のダイヤ改正で、羽田空港第3ターミナル発着から天空橋駅発着に短縮された[6]。 蒲43系統は、2010年10月21日のダイヤ改正で、大部分が蒲40系統にシフトされた上で大幅に減便され、現在は平日ダイヤで朝と夜に、土休日ダイヤで夜のみの運行に縮小された。その結果、蒲43系統は荏原製作所本社、ヤマト運輸羽田クロノゲートへの通勤に使えなくなった。その代替で羽田京急バス→京浜急行バスは、ヤマト運輸羽田クロノゲート - 蒲田駅への専用連絡バスを運行開始した。また、ヤマト運輸羽田クロノゲートの北側にかつて存在した大谷重工業羽田工場(現・合同製鐵)への通勤も考慮されていなかった。 蒲42系統は、平日朝の羽田整備場行と夕方の蒲田駅行1往復のみである。 2024年9月1日から平日のみ蒲40系統の一部を振り替える形で新たに蒲46系統を新設。平日の朝ラッシュから日中時間帯のみ運行[7]。 六郷線
蒲田駅から蒲田本町を経由し、六郷神社・六郷橋・大師橋下・羽田車庫方面へ向かう路線群。南六郷二丁目団地や大田区蒲田本町、仲六郷の地域輸送、関西ペイント東京事業所やイワセ・エスタ東京本社などへの通勤輸送の他、都立つばさ総合高校への通学輸送、Olympic本羽田店、ホームセンターコーナン本羽田萩中店、オーケーストアサガン店・仲六郷店・南六郷店などへの買い物客輸送など多彩な役割を持つ。かつては、コーナン本羽田萩中店の場所にあった新家工業東京工場への通勤輸送も重要な地位を占めていた。 蒲73系統は蒲田駅と羽田車庫を蒲田本町経由で運行する入出庫便。蒲74系統は蒲田駅と六郷橋・六郷神社を結ぶ路線、蒲75系統は蒲田駅と大師橋下を結ぶ路線となっている。いずれも蒲73系統と同経路で運行。中型車で運行される。 蒲64系統は、京浜急行電鉄時代の1964年(昭和39年)から1973年(昭和48年)まで存在した六郷営業所への出入庫路線だったが、雑色地区での迂回運転を行うために免許だけ存続させているもの。雑色商店街さくらまつり(毎年3月)、サマーフェスティバル、大田区花火の祭典(毎年8月)、六郷神社大祭などで活用される。花火の祭典終了後に運行される六郷橋→京急蒲田駅→蒲田駅東口行の臨時急行便も存在する。 →「東急バス高津営業所 § 川崎線」も参照
川空線
空51系統は、川崎駅から六郷橋・六間堀を経由し羽田空港へと向かう路線。1987年(昭和62年)4月18日に、リムジン扱いで新設された路線である[1]。リムジン路線の時代は途中停留所はすべて通過だったが、2004年(平成16年)9月16日付で一般路線扱いに切り替えの上、羽田京急バス自社での運行となった。川崎市内を走行する京急バス一般路線としては最も本数が多く、かつ終日運行される唯一の系統である。運行は平日、土休日ともに完全な30分間隔。 出入庫便として羽田車庫発着の川77系統が朝、夜間帯に運行されるほか、始発のみ大師橋下発川崎駅行きの便が設定されている。ちなみに川77系統は大森営業所時代は大師橋下での折り返しだったが、京急バスへの移管時に羽田車庫まで延長された。 また、2024年9月より、川崎鶴見臨港バスの空84系統が羽田空港第3ターミナルまで乗り入れるようになるのと同時に、京急バスも同じ系統で運行を開始。運行は平日、土休日ともに昼間の時間帯のみで、臨港バス、京急バスがあわせて30分おきに交互に運行している。川崎市への京急バス一般路線バス乗り入れは、「川81」系統→「空81」系統(廃止)と先述の「空51」系統に次いで、これが3例目となる[2]。 なお、これらの路線は、空港渡り運賃・東京都区内均一運賃・川崎市内均一運賃の運賃体系があるため、乗降停留所よっては乗務員に降車地を申告しなければならない。一方、同じ都県境を跨る東急バスの反01系統(五反田駅 - 川崎駅ラゾーナ広場)とは異なり、東京・川崎渡り加算運賃は適用しない。 →「路線バス § 乗車・降車方法」、および「ワンマン運転 § 乗客の乗降方法」も参照
空港内循環線
空71循環線は、第1・第2ターミナル周辺の敷地内にある施設を循環していく完全な通勤路線。第3ターミナルは経由しない。当初は羽田車庫から羽田駅(現・天空橋駅)を通り(旧)羽田空港ターミナルを循環する路線で、京急空港線の羽田駅から(旧)ターミナルへのアクセスのため1993年(平成5年)4月に新設された。その後も羽田空港国内線の第1ターミナルへの移転や東京モノレールの羽田空港駅(現・羽田空港第1ターミナル駅)延伸、第2旅客ターミナルの開業などを経て現在の形となった。現在は入出庫便として羽田車庫発着となっている。 空72循環線は、新整備場地区の利便性向上のため新設されたもので、運行本数は毎時1本。過去には夜間に羽田車庫行きが新整備場地区を経由するのみだったが、日中も路線バスが運行されるようになった。 空港シャトルバス![]()
2010年(平成22年)10月21日運行開始。蒲田駅と羽田空港を短時間で結ぶ路線で、蒲33系統と空71系統の羽田車庫発着便を組み合わせ、それらを直行化したもの。蒲95という系統番号は「空港」に由来する。 蒲田駅の乗り場はグランデュオ蒲田東館内の蒲田駅東口交番前に置かれ、蒲31、41系統などと独立した格好となった。大田区役所入口交差点を経由し、ほぼ全区間に渡り環八通りを走る。蒲田駅 - 羽田空港内までで停車する停留所は大鳥居のみである。運行間隔は朝と夕方の一部時間帯を除き、毎時2本の完全な30分間隔である。2025年2月16日にダイヤ改正を実施し、蒲31系統の羽田空港行きが運行終了するのに伴い増便を実施。蒲田駅発は朝方が約15分~20分間隔で、9時以降は毎時10分・40分発の30分間隔(※夕方に55分発が2本加わる)、羽田空港第2ターミナル発は毎時25分・55分発のほぼ終日約30分間隔(※夕方に第2ターミナル10分発が加わる時間がある)に改正される。 この路線には専用車として、ハイバックシートを備えた京急リムジン塗装のノンステップバスが充てられているが、まれに一般車が代走する場合もある。 深夜早朝アクセスバスは、国土交通省の要請を受けて2014年(平成26年)10月から運行を開始したもので、蒲95系統を一旦蒲田駅に立ち寄った上で、川崎駅まで延長したものである。羽田空港発が午前1時台と2時台の2本、川崎駅発は午前3時台に1本設定されている。 →「東京国際空港 § 路線バス」も参照
かつては国際線ターミナル始発で蒲95系統と同じルートで蒲田駅に向かい、武蔵新田駅や都立大学駅方面へ行く深夜バスも設定されていたが、短期間で廃止されている(後述)。 羽田空港ターミナル間無料連絡バス
無料連絡バスは、京浜急行バスが日本空港ビルデングより受託運行する路線である。原則的に「東京空港ビルデング」「東京国際空港ターミナル株式会社」および「京浜急行バス」と表記のある専用塗装の車両を使用し、一般塗装車による代走時は専用ステッカーを掲示する。 多客時には、第1・2ターミナルでは国内線ターミナルを循環する小循環と第3ターミナルを発着する大循環で乗り場を分離し、第3ターミナルでは係員による整列乗車の誘導を行う。スーツケースなど大きな荷物を持った乗客が利用することから、専用車はどの車両も座席が少なく、ホイールベース間の低床部分は座席が跳ね上げられ、荷物置き場や立席にしている。 2008年1月31日からは、東京都と国土交通省の支援によりハイブリッドバスの運行が開始され、専用塗装の三菱ふそう・エアロスターエコハイブリッドと日野・ブルーリボンシティハイブリッドが使用されている。また2008年2月15日から2月29日までは、日野・ブルーリボンシティのIPT(非接触充電式)ハイブリッドバスの試験走行が行われた。それ以前は非ハイブリッドの三菱ふそう・エアロスターといすゞ・エルガが専用車となっていたが、これらはハイブリッド車導入により一般路線に転用された。 2014年7月には、ブルーリボンシティハイブリッドが6台導入され、不調が続くエアロスターエコハイブリッドを置き換えた。この結果、無料連絡バス専用車はブルーリボンシティハイブリッドで統一された。2016年2月からは新型ブルーリボンハイブリッドが導入された。 2016年4月以降は、女性ドライバーが専属で乗務している(例外で男性ドライバーも乗務することがある)。 2020年に専用車両のカラーリングが変更され、国内線ターミナル循環は黄色に赤帯、第3ターミナル循環は黄色に緑帯となった。各専用車には停車するターミナルが大書されている。 2021年12月18日より大循環の走行ルートが変更となり、第3ターミナル→第1ターミナル→第2ターミナル→第1ターミナル→第3ターミナルの順に走行となる。それに伴い、小循環が廃止となる。
高速・空港リムジン路線空港リムジンバス以下、羽田空港への空港バス発着地を示す。東京駅線以外は羽田京急バス時代には京浜急行バスから運行委託されていた。PASMO・Suicaなどの交通系ICカードが利用できる。 →詳細は「横浜 - 羽田空港線 § 経路」を参照
2012年閉鎖時の所管路線
羽田空港発着便
中距離高速バス
定期観光バス
長距離高速路線
このうちパイレーツ号は羽田営業所閉鎖に伴う新子安移管、2015年11月30日の京浜急行バス撤退・瀬戸内運輸単独運行化を経て、2016年4月15日より東京側の発着点を渋谷マークシティ・二子玉川駅に変更、東急トランセが参入の上で再び共同運行となった。 休廃止・撤退路線高速路線![]()
空港リムジン路線
移管路線→1970年6月に京浜急行大森営業所に移管された大森地区の路線については「京浜急行バス大森営業所 § 現行路線」を参照
一般路線川空線
1987年(昭和62年)4月18日の新設時はリムジン路線で、途中の停留所はすべて通過していた。2004年(平成16年)9月16日付けで一般路線化の上、羽田京急バスへ移管(前述)。 平和島競艇場線・森29: 大森駅東口 - 大森海岸駅 - 平和島ボートレース場 ・平和39: 平和島駅 - 平和島ボートレース場 BOAT RACE平和島本場開催、およびSG全国場外発売時に運行される無料シャトルバス。本場開催日でもレースが行われている昼間のみの運行となる。本場開催日の夜間と、平和島劇場での場外発売のみの日は、ビッグファン平和島シャトル線を復路無料で利用できる。羽田京急バスの営業開始以前は羽田営業所も担当しており、2018年(平成30年)10月1日以降は羽田が主担当となるが、現在は大森営業所単独で担当。 東糀谷六丁目線
蒲35系統は蒲田駅東口から糀谷駅・大鳥居を経由し東糀谷六丁目へ向かう路線。京急空港線の駅から離れる大田区東糀谷(旧・糀谷町4・5丁目)とJR・京急本線を結ぶ地域輸送、ANA訓練センターへの通勤輸送に特化している。基本的に大型車だが、便によっては中型車を使用する。 東京営業所時代の1957年(昭和32年)に蒲田駅と羽田中学校の間で新設されたのが始まりで、1970年(昭和45年)の都営東糀谷六丁目アパート完成で利用者が増える。当時は六郷営業所所管だったが1973年(昭和48年)に大森営業所へ移管されて森ヶ崎線との共通運用が組まれた。2000年(平成12年)10月1日付けで京急バスに移管、森ヶ崎線と分離された。 2024年3月1日ダイヤ改正により大森営業所へ移管された[14]。 大森東五丁目線
蒲67系統は、蒲田駅から大森警察を経由して大森東五丁目へ向かう。京浜急行電鉄東京営業所時代の1957年(昭和32年)に蒲田駅と大森8丁目の間で開設された路線で、のちに大森営業所の担当となるが、2000年(平成12年)10月1日付けで蒲35、川76・77系統とともに京急バスに移管された。元は大森営業所の森27系統と同様に東京ガス大森工場への通勤輸送を目的としていた。1987年(昭和62年)の工場閉鎖後は生活路線として存続する[15]。 蒲67系統の入出庫便として、系統名は設定されていないものの、羽田車庫 - 大森東五丁目の路線も存在する。 基本的に中型車での運行だが、稀に中型ロング車の日野・レインボーHRで運行されることがあった。 2023年3月1日のダイヤ改正で大森営業所に移管された。 ポートサイド線1989年(平成元年)の横浜博覧会輸送に合わせ、横浜市営バス本牧営業所が開設した路線を旧YCATまで延長するにあたり、京急が新規参入して共同運行になった。1986年(昭和61年)に納車されたノンステップバス試験車両が専属運用に就いていた。その後、京浜島営業所を経て2007年(平成19年)、横浜営業所(運行は横浜京急バス杉田営業所)に移管。 空港リムジン路線
廃止路線
一般路線蒲田 - 羽田空港線
1993年(平成5年)9月の国内線第1ターミナル完成に合わせ蒲31の急行相当として設定されたもので、現在の蒲95の前身にあたる。大鳥居交差点から先も環八通りを走り、天空橋駅を経由して途中の停車停留所も少なくし(途中は京急蒲田・日の出通り・糀谷駅・大鳥居・穴守稲荷・天空橋駅のみに停車)速達性確保を狙ったが、1998年(平成10年)に空港線の国内線ターミナル延長が完成すると競合となり、京急バス移管後の2002年(平成14年)9月限りで一度は廃止になった。 その後、2010年(平成22年)10月21日の新国際線ターミナル完成時に、蒲95として復活した。ただし復活した際は天空橋駅停留所に停車しなかったが、その後、天空橋駅周辺の環状八号線短路ルート完成に伴い、営業所への出入庫を含めて経由するようになった。 田園調布線
1958年(昭和33年)7月11日[1]、大森 - 羽田空港線を延長し、東急バス池上営業所の大森線と相互乗り入れする形で運行を開始。京急側沿線から、東急バス沿線の新井宿にあった大田区役所へのアクセスを確保するという役割があった。1976年(昭和51年)に共管を解消して京急の単独運行となった。 その後1993年(平成5年)、羽田空港新国内線ターミナル(現・第1ターミナル)完成時にも国内線まで運行せず、国際線ビルまでの運行のまま残る。1980年代までは日中40分間隔で運行したが徐々に減便され、末期には1日4便にまで減少していた。1998年5月に大田区役所の蒲田への移転が決定すると存続意義を失うことから、区役所移転を前に、羽田空港旧国際線ターミナル閉鎖と同時の1998年(平成10年)3月19日限りで廃止となった。 →詳細は「東急バス池上営業所 § 空港線」、および「東急バス下馬営業所 § 渋谷線」を参照 →「東急バス淡島営業所 § 渋谷線」も参照
萩中線
2代目・蒲40系統は羽田空港国際線ターミナル発着便で、当系統との関連はない。 いすゞ線
JFE線と並ぶ蒲田駅発着の神奈川県内直通路線で、1962年(昭和37年)に新設。1973年(昭和48年)の臨港バス蒲田撤退時にも廃止を免れた。ルートとしては大師橋まで蒲45と同じで、そこから左折して臨港バスの日出町線のルートに沿って、いすゞ自動車川崎工場まで運行された。 京急バスへ移管後、同工場の閉鎖により2004年(平成16年)12月28日限りで廃止となった。 →「いすゞ自動車 § 閉鎖された生産拠点」、および「川崎鶴見臨港バス神明町営業所 § 川02系統(日出町線)」も参照
鋼管線→JFE線
大田区内から日本鋼管京浜製鉄所(現・JFEスチール東日本製鉄所京浜地区)への通勤輸送を目的として戦後に開設されたもので、戦前に神奈川県内部分を走っていた同じ京急グループの海岸電気軌道(後の鶴見臨港鉄道軌道線)との直接の関係はない。 →「京浜急行電鉄 § 未成線」、および「海岸電気軌道 § 歴史」も参照 京浜急行電鉄品川営業所時代の1949年(昭和24年)にはすでに大森駅と桜本の間に路線があったとされる。現在の形の基礎となるのは東京営業所時代の1957年(昭和32年)に運行を始めたものである。翌1958年(昭和33年)には川崎鶴見臨港バス浜川崎営業所の川25系統と組み合わさって、蒲田駅 - 大師橋 - 池上新田 - 日本鋼管 - 成就院前 - 川崎駅という長大路線になった。 昭和30年代の全盛期には池上新田で川崎市電渡田線、トロリーバス水江線への接続運転を行い、昭和40年代前半には末端区間が休止された京急大師線の代替という役割もあった。そして、1970年(昭和45年)の大師線末端部正式廃止と同時に日本鋼管と川崎駅の間を廃止し、京急の単独運行に戻された。 →「塩浜駅 (神奈川県) § 休止後の代替バス」、および「川崎市電 § 塩浜 - 池上新田間の休止後」も参照
鋼管線はその後、日本鋼管と川崎製鉄との合併に伴いJFE線と改められるが、末期には平日朝夕に2往復が運行される事実上の免許維持路線と化した。そして、乗務員不足に伴う不採算路線整理のため、2020年(令和2年)1月15日限りで廃止となった[16]。 JFE前での折り返しは共管時代の名残で臨港バス浜川崎営業所車庫内を利用していた。JFE前での降車は臨港バス浜川崎営業所および川崎市バス転回場よりも大師橋寄りの降車専用停留所、乗車は臨港バス停留所ではなく川崎市バス川40系統のものを使っていた。 →「川崎市バス塩浜営業所 § 渡田線」も参照
生見尾線
鋼管線よりも古い1949年(昭和24年)に開設。旧京浜電鉄が大正中期に路面電車として計画し国から却下された生見尾線の予定ルートを半分以上辿る路線だった。当初は大師線の終点だった桜本駅までの運転で、日本鋼管まで延長されたのは臨港バス浜川崎営業所が川崎区鋼管通の現在地に立地した1954年(昭和29年)のことだった。 ルートは羽田特別出張所まで大森 - 羽田空港線と同じで、そこから先は現在のJFE線と同一である。 なお、1964年(昭和39年)3月25日限りで休止された京急大師線小島新田 - 塩浜間の代替輸送として、産業道路駅や蒲田駅から塩浜、浜川崎方面への代替バスを臨港バスや川崎市バスと共に運行したという資料も残っている[17]。この系統は、池上新田で川崎市営トロリーバス水江線と川崎市電渡田線に接続できたが、1967年(昭和42年)5月にトロリーバス、次いで1969年(昭和44年)3月限りで市電も廃止され、京急は役目を終えたと判断、1970年(昭和45年)11月20日の正式廃止をもって運行を取りやめた。 →詳細は「海岸電気軌道 § 塩浜操車場と市電撤去」を参照
京浜国道線
旧東京乗合自動車から京浜電気鉄道に渡った同名の路線の流れをくみ、1949年(昭和24年)に都営バスとの共同運行で再開。1965年(昭和40年)8月26日付で川崎駅乗り入れを廃止し、羽田空港と東京駅を結ぶリムジン路線に生まれ変わるが、首都高速道路1号羽田線の激しい渋滞で定時性が確保できなかったことに加え、専用車両を使わなければならないリムジン路線の存在が東京都交通局第1次再建計画で非効率と指摘され、1970年(昭和45年)11月30日限りで都営が撤退、廃止となった。 →詳細は「都営バス品川営業所 § 115系統」を参照
東京駅と羽田空港を結ぶリムジン路線は1993年(平成5年)、東京空港交通との共同運行に変更の上、空01系統として再開し現在に至る。 大師線
1958年(昭和33年)5月13日に川崎鶴見臨港バス浜川崎営業所との共管路線としてスタートし、大師橋を渡った後右折して大師道(現・国道409号)を経由、川崎鶴見臨港バスの久根崎線と同じルートで国鉄川崎駅まで運行していた。1962年(昭和37年)の塩浜営業所開設時に臨港側の担当が変更されるが、産業道路駅から先が京急大師線と並行だったため利用が伸びず、1973年(昭和48年)3月、臨港バスの東京都内撤退に合わせて川崎大師駅までに短縮し京急単独の路線となる。1993年の羽田新国内線ターミナル完成後も1日に数本運行されたが、旧国際線ビルの閉鎖と同時に行われた不採算路線整理のため、1998年(平成10年)3月19日限りで廃止。 その後、川崎駅と羽田空港を結ぶ京急バスの一般路線は2004年の川空線一般化で復活するが、大師橋と宮前の間は京急大師線との並行を避け、六郷線、森ヶ崎線と同じ東京都側の道路を通ることになった。 なお、羽田空港から川崎市内に乗り入れる路線としては、運行開始が最も早かった[18]。 浮島町線
川崎鶴見臨港バスの浮島町線、川崎市バスの県営埋立線とともに木更津行きの日本カーフェリーに接続する路線として運行された。臨港バスとの共管で需要はあったものの臨港の蒲田撤退に合わせ、1973年(昭和48年)3月15日限りで廃止された。 →「川崎鶴見臨港バス塩浜営業所 § 川03系統(浮島町線)」、および「川崎市バス塩浜営業所 § 県営埋立線」も参照
なお市営便は2004年1月31日限りで廃止になり、系統再編や移管を繰り返した後、2015年(平成27年)9月30日限りでみなとみらい地区での一般路線運行をやめている。 →詳細は「京浜急行バス杉田営業所 § ポートサイド線」、および「横浜市営バス滝頭営業所 § みなとみらい地区の路線変遷」を参照 →「ノンステップバス § 本格的実現まで」、および「あかいくつ § 現行路線」も参照
大井競馬場線大井町駅及び大森駅から大井競馬場を結ぶ路線で、競馬開催時のみ運行(森20系統は本場開催日のみ運行)。1999年(平成11年)の羽田京急バスへの移行に伴い撤退し、大森営業所単独となった。井20系統は以前西口発着だったが、2003年(平成15年)4月に東口に変更されている。 2020年2月27日から新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックに伴い無観客競馬となったことにより運休となり、さらに乗務員不足を理由に京浜急行バスが撤退を決めたため、書類上は2020年3月31日限りで廃止となった。再開の際は大井町駅線のみ東急バス単独となる予定。 →詳細は「京浜急行バス大森営業所 § 大井競馬場線」、および「東急バス池上営業所 § 競馬線」を参照
川崎競馬場線川崎競馬場での競馬開催日のみ運行。施行者の神奈川県川崎競馬組合と施設所有者のよみうりランドから補助を受けており、運賃は無料だった。 2020年2月27日以降場外発売が休止、また3月2日からは無観客での競馬開催のため運休となり、さらに乗務員不足を理由に京浜急行バスが撤退を決めたため、書類上は2020年3月31日限りで廃止となった。運行再開の暁には川崎鶴見臨港バス単独となる。 →詳細は「川崎鶴見臨港バス浜川崎営業所 § 川崎競馬場線」、および「川崎競馬場 § アクセス」を参照
その他の路線京浜急行電鉄が発行した八十年史および百年史では、上述した各路線の他に、萩中循環線、六郷大循環線が運行されていたと記録されているが、詳細は不明である。 車両
→「羽田京急バス東京営業所 § 車両」も参照
1960年代後半の一般路線用大型車はいすゞ自動車製や日野自動車製も平行して導入されていた。1970年代には、当営業所に新製配置される車両のうち、一般路線用の大型車が三菱自動車工業(現・三菱ふそうトラック・バス)製で統一されるようになった。1982年(昭和57年)にいすゞ製の大型3扉車が廃車となってからしばらくの間、大型車は三菱ふそう製で統一されていた。1979年には羽田空港 - 横浜駅線に一般路線との兼用ができない専用車を導入した。 1986年(昭和61年)には、都内一般路線用にいすゞ自動車製大型バスの新造投入が復活した。以後は、いすゞを中心としながら三菱ふそうも引き続き配備された。 ![]() 三菱ふそう・エアロスター H5670(除籍済) また1986年(昭和61年)には、三菱ふそう製の試作ノンステップバスが1台(H5670号車。P-MP218M改)導入された。この車は当初、都内の一般路線に投入されたが、のちにポートサイド線(141系統・ポートサイド - 横浜駅 - パシフィコ横浜)の専属となっていた。 →「京浜急行バス § 特徴的な仕様」、および「三菱ふそう・エアロスター § ノンステップバス」も参照
ノンステップバスは三菱ふそう製試作車に続き、1999年(平成11年)にいすゞ自動車製(H2910号車)を導入。京急バスになってからも2001年(平成13年)に三菱ふそう製(NH6118号車)が導入され、空港内循環線にほぼ専属で運用された。その後2台とも大森営業所へと移籍するが、後者はのちに羽田京急バスに戻されてターミナル間無料連絡バスの専用車となり、廃車直前に久里浜営業所へと移籍している。いすゞ製のH2910号車は廃車直前に羽田京急バスに復帰していた。 1995年(平成7年)には、日野自動車製の大型ハイブリッド車「HIMR」(H4501号車。U-HU2MMAH)を1台だけ導入、当営業所および都内一般路線では久々の日野車となった。同車は空港内循環路線を中心に大森駅・蒲田駅発着路線にも充当されたが、その後羽田京急バスへの路線移管に伴い大森営業所へと転出している。 →「日野・ブルーリボン § HIMR」も参照
六郷線などで運行されるナロー車や中型車は当初からすべていすゞ自動車製であるが、1997年(平成9年)には日産ディーゼル(現・UDトラックス)製の中型車が1台(H7839号車。P-RM80G)だけ追浜営業所から転入したことがある。しかしこの車両はごく短期間で大森営業所に転出した。 ![]() 2020年(令和2年)には大森営業所から燃料電池バス(H9901)が転入、蒲95系統専用として運行されている。
参考文献
脚注
関連項目外部リンク |
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