後土御門天皇
後土御門天皇(ごつちみかどてんのう、1442年7月3日〈嘉吉2年5月25日〉- 1500年10月21日〈明応9年9月28日〉)は、日本の第103代天皇(在位:1464年8月21日〈寛正5年7月19日〉- 1500年10月21日〈明応9年9月28日〉)。諱は成仁(ふさひと)。 後花園天皇の第一皇子。生母は藤原孝長の女で大炊御門信宗の猶子の大炊御門信子(嘉楽門院)。 生涯生母である伊与局の出身身分が低く、当初は将来は出家させるつもりで父である後花園天皇の実家である伏見宮家にて育てられていたが、後花園天皇に他の男子が生まれなかったために、生母を公卿である大炊御門家の養女ということにして、皇位継承者として定められた[1]。 康正元年(1455年)、14才になると侍読に中原康富が付き学問を学んだ[2]。他に吉田兼倶、一条兼良、清原宗賢らから和漢の講義をたびたび受けた[3]。 長禄元年(1457年)12月19日に親王宣下、寛正5年(1464年)7月19日に後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位日は、寛正6年(1465年)12月27日)。文明2年(1470年)まで後花園上皇による院政が行われた。 践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。また、天皇自らも「赤疹(おそらく、当時の京で流行していた麻疹)」にかかるなど、災難に見舞われた[4]。応仁元年(1467年)8月から文明8年(1476年)11月まで、天皇は戦火を避けて足利義政の室町第で避難生活を送った[5]。避難生活中には、義政正室の日野富子に仕える上臈の花山院兼子と密通し、彼女は皇女を出産している(『親長卿記』文明5年10月22日条)。屋敷内での密通は本来であれば室町第の主人である義政や兼子の主人である富子によって厳罰に処せられる行為であったが、その当事者の身分ゆえに天皇・兼子ともに不問にされている[6]。また、その富子との密通も噂されていた[要出典]。更に応仁の乱の最中にもかかわらず義政が度々室町第で酒宴を開いていたとされているが、その酒宴には常に天皇が同席して一緒に飲酒している有様であった(『親長卿記』文明3年11月25日・同4年4月2・3日条、『実隆公記』文明4年4月2日条など)[7]。 応仁2年(1468年)1月1日には「四方拝」以下の朝儀一切が中止となった[8]。 文明9年には足利義政、広橋兼顕の要請により、伊勢国司北畠政郷以下、東大寺、興福寺、粉河寺、高野山の衆徒に北畠政長と協力し北畠義就を討つよう命じた綸旨を発給した(『高野山文書』)[9]。 後土御門天皇は応仁の乱の終結前から朝廷儀式の復活に取り組んだ[10]。文明4年(1472年)から文明7年には賢所御神楽が再興された。これには後土御門天皇の強い意向があったことが記録されている[11]。文明7年1月1日には四方拝が再開された[12]。文明9年(1477年)、応仁の乱が終結し後土御門天皇は京都平定を祝し、足利義政に剣を与えた[13]。 文明11年(1479年)には内裏の修繕が終わり、避難先の室町殿から内裏へと還幸した[14]。文明14年(1482年)には元日節会・白馬節会・踏歌節会の習礼(予行演習)が実施されたものの、費用不足により本番の挙行まではできなかった[10]。日野富子が銭一万疋を進上したため実施が現実味を帯び、踏歌節会は延徳2年(1490年)、白馬節会は延徳4年に実現をみた[15]。現在国立歴史民俗博物館に所蔵されている「節会諸役人控」は当時(後土御門天皇期)の節会に参列した公家たちの交名(名簿)である[16]。 長享2年(1488年)に疫病が流行すると嵯峨、後光厳、後花園の書写した般若心経を取り寄せ礼拝し、四大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)に祈祷を命じ、吉田兼倶に疫神を祭らせ疫病の終息を願った[17]。 延徳3年(1491年)に足利義材は六角高頼の討伐を決め、後土御門天皇に綸旨の発給を要請したため、綸旨と錦の御旗が下賜された。この効果のためか六角高頼は伊勢国に逃亡し、六角虎千代が新たな近江国守護となった[18]。 明応元年(1489年)[疑問点 ]に再び疫病が流行すると、京都の大覚寺で般若心経を取り寄せ、主上以下が頂礼し、上賀茂神社、下賀茂神社に祈祷を命じ、全国でも般若心経を読誦させ疫病の終息を願った[19]。 明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言甘露寺親長の諫奏によって取りやめる(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式に掛かる費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。 明応7年(1495年)には再興した儀式も一切行えなくなっており、後土御門天皇は大嘗祭を行った中世最後の天皇となった[15]。 後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された[20]。 明応9年(1500年)9月28日、御所の黒戸にて崩御。宝算59。葬儀の費用も無く、40日も御所に遺体が置かれたままだった[21]。このことは近衛政家による『後法興院記』の明応9年11月11日条に「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許(ばか)り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟(か)。」と記されている[22]。一方で、平安時代に後一条天皇の崩御を隠して後朱雀天皇への譲位を行って以来、在位中の天皇の崩御は禁忌となったため、10月に後柏原天皇への「譲位」による践祚を行った後に「旧主(上皇)」としての葬儀を行ったとする解釈もある[23]。また、江戸時代に書かれた『続本朝通鑑』には「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉(霊柩黒戸にあること四十余日、玉体腐損し、虫湧出し、古来未曾有)」と記されているが、同書以外にそのことを記した記録はない。奥野高広は論文「戦国時代の皇室御経済」(1944年)の中に出征中に急死した足利義尚の遺体が水銀による防腐措置が採られていた例を挙げて否定的な評価をした。これに対して久水俊和は防腐措置があっても43日間は余りにも長く、鎌倉時代の四条天皇の棺が葬儀の遅延に伴う長期の放置によって「御骨許相残」の状態(『平戸記』仁治3年2月2日条)になったのと近い状態だったのではないかと推定している。なお、後土御門天皇の葬儀に関しては東坊城和長が詳細な記録(『明応凶事記』)を残しているが、天皇の遺体の状態については記されていない[24]。 和歌![]() 後土御門天皇は敬虔な仏教徒であり、貧窮は自分の罪障が原因と考えて、阿弥陀仏の慈悲に希望を託した。後土御門天皇は、以下の和歌を詠じた[25]。
(別解釈)
系譜
系図
后妃・皇子女
在位中の元号
陵・霊廟![]() 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。 また、遺骨の一部は、父の後花園天皇と同様に、京都市上京区の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)に分骨された。 皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 灰塚が京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。 脚注
参考文献
関連項目
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