佐野政言
佐野 政言(さの まさこと / まさつね[注 1])は、江戸時代中期の旗本。通称、善左衛門。佐野政豊の子で、目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(妻の兄)[2]。姉に春日広瑞室、小宮山長則室。10人姉弟の末子で一人息子であった。 生涯佐野善左衛門家は、松平清康以来松平氏・徳川氏に仕えた譜代佐野備後守家[注 2]の分家であり、藤原秀郷流を称していた[4]。善左衛門家は五兵衛政之が徳川秀忠の時代に廩米300俵を受けて立家したのに始まる[4]。政之は御小姓組であり、子孫は代々番士を務めている[3]。綱吉治世の1698年(元禄11年)より番町に屋敷を構えた[注 3]。政之の孫政矩は廩米200俵の加増を受け、宝永6年の致仕とともに下野国都賀郡のうちに500石の采地を賜った[4]。政矩の孫であり、政言の父に当たる伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務め、1773年(安永2年)に致仕し、代わって政言が同年8月22日に17歳で家督を相続した。1777年(安永6年)に大番士、翌1778年(安永7年)に新番士となる[6]。 天明4年(1784年)3月24日、江戸城中之間において、退出しようとしていた若年寄・田沼意知に切りつけ[注 4]、初太刀で肩口、さらに手と腹部と下腿部を負傷させた[7]。意知は切りつけられたまま逃亡し、暗がりに倒れ込んだため、政言は意知を見失った[8]。政言は大目付松平対馬守忠郷に取り押さえられ、目付の柳生主膳正久通によって脇差を取り上げられた[8]。その後蘇鉄の間に入れられた後、老中田沼意次の命令で伝馬町の揚座敷に預けられた[9]。その後大目付大屋明薫、江戸町奉行曲淵景漸、目付山川貞幹による取り調べを受けている[9]。 意知は手当の遅れもあり、その8日後の4月2日に絶命すると[6]、先例に従って4月3日に政言は揚座敷にて切腹を命じられた[10] [11]。『田沼実秘録』や『佐野田沼始末』には政言の切腹の有様が描写されている。当時は切腹と言っても儀礼的なものであり、切腹人が三方の木刀に手をかけたところで介錯人が首を切るというもので、実際に腹を切ることはほとんどなかった。しかし政言は「刃物刃物」と叫び、実際に真剣で腹を切らせるよう要求した。要求通りに刀は三方に載せられたが、政言よりやや遠い位置に置かれた。政言が前かがみになって刀を取ろうとしたところ、首を差し出す形となり、介錯が行われたという[10]。数えの28歳[12]であった。 政言の葬儀は4月5日に菩提寺の台東区西浅草の徳本寺(とくほんじ[12] [13])で行われたが、両親など遺族は謹慎を申し付けられたため出席できなかった[1]。葬儀には見物人が大勢詰めかけ、寺の門扉に「佐野大明神」と書かれた紙が貼り付けられるなどの騒ぎとなり、寺社奉行や同心が寺の玄関で待機する事態となった[14]。法名は元良印釈以貞居士[15]。 後に徳本寺に寄贈された文書の中には、政言の辞世とされるものがある。これは鏡文字で書かれた異様なものであり「こと人に阿らて御国の友とちたたかひすつる身はゐさきよし(他の人ではない御国の人 戦いを捨てたこの身は清々しいものである)」というものであった[16]。また、世上には辞世とされるものが広まっている。ただし、幕府の記録では政言が切腹の場で辞世を詠んだという記録はない[17]。 事件の動機幕府の取り調べでは乱心と言うこととなり[18] [19] [21] [23]、意知暗殺の動機は明らかにはならなかった。 事件直後から様々な憶測が広まったが、いずれも史料上に裏付けはない[18]。当時のオランダ商館長イサーク・ティチングは何らかの政治的謀略があったという噂が広まっていたとしている[16]。この噂によれば意知暗殺の動機は、意次が様々な改革を行ったことから各方面の恨みを買い、若年の意知がその政策を継承することを恐れたためであるとしている[24]。 江戸時代後期に著された作者不明の『営中刃傷記』[注 5]によれば、政言は暗殺時に懐中に七か条の口上書を持っていたとされ、焼き捨てられたが松平忠郷がこれを密かに写し取っていたとされる[26]。また、在所に十七か条の口上書を残していたともされる[26]。 「口上書」にあげられた意次・意知の罪とされる行為は以下のようなものである[27] [28] [29] [30]。 七か条の口上書七か条の口上書に挙げられたものは政言自身に関係のある事象が多く、辻善之助は憤ったのは無理もないことであるが、私憤であるとしている[31]。
十七か条の口上十七か条は意次・意知の政権を非難するものが多い。辻善之助は「十七か条」の口上書はその後に流布した「田沼への申渡罪状二十六箇条」という戯作に類似しており、政言の死からさほど離れていない時期に偽作されたものではないかとしている[35]。
その後の佐野家佐野家は改易となり、家屋敷は召し上げられた。しかし闕所とはされなかったため、遺産は遺族に譲ることが認められた[38]。政言には子や男兄弟はおらず、同居していた家族は父母と妻、そして叔父のみであった[3]。血縁者には連座は及ばず、父母は長女の婿であった春日家に身を寄せた。佐野家は絶えたが、明治から昭和頃には政言の後裔を称する人物が存在していた。山田忠雄は善左衛門家の祖・政之の弟の家系佐野喜左衛門家の出身ではないかと見ている[14]。 その一人である人物と連絡を取っていた三田村鳶魚の日記によると、佐野家の再興を行う動きが何度かあったとされる。寛政年間には幕府から佐野家再取り立てのため徳本寺に問い合わせがあったが、徳本寺は政言に血縁の男子がいないと回答したため、再興はならなかった[39]。また、三田村が明治43年(1910年)に面会した佐野家の後裔は、50年ほど前の「松倉周防守が老中の時[注 7]」に、当該の人物を後嗣として政言の家の再興を認め、禄については追って沙汰をするということとなったが、幕末の混乱により叶わなかったという[39]。1984年には政言の名跡を継いでいた当時の当主が病死し、遺族が関連資料を菩提寺の徳本寺に寄贈している[38]。 死後の影響と「世直し大明神」となった政言市中では田沼の跡継ぎを斬ったことを評価され、世人からは「佐野大明神」、後には「世直し大明神」[18][2][19][40]と呼ばれ崇められた[41]。高止まりだった米の相場は投機筋の売り参入で刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて天明6年(1786年)の処分を経て田沼意次も失脚する[12]。ただし、佐野の切腹直後に米価が下落したのは幕府が天明の大飢饉で苦しむ民衆を救済するために、大坂町人から買持米を6万5000石ほど摘発し、その3分の1にあたる2万8000石が江戸に到着したためであり、佐野のおかげではない。しかも、米価は天明4年(1784年)春から再度上昇し始めた[42](天明8年(1788年)に意次は死去)。 佐野が意知を斬った刀は粟田口忠綱[注 8]の脇差だったため、忠綱作の刀は急に相場が上昇した。また、佐野に対する同情から、墓所の浅草徳本寺には多くの人々が参詣に訪れ、線香の煙がしばらく絶えなかったという[41]。 年が明け改元後の寛政元年(1789年)に黄表紙『黒白水鏡』(石部琴好作、北尾政演画)を出版すると、刃傷事件を表現したとして、版元と絵師が手鎖に処されたうえ、江戸払いと過料を申し付けられた[2][44]。 また浄瑠璃・歌舞伎においては寛政元年の『有職鎌倉山』を皮切りに、刃傷事件を題材とした複数の「田沼騒動物」が上演された[45]。 政言を取り押さえた松平忠郷は報奨として、上野国新田郡において200石を加増された[46]。一方で若年寄酒井忠香・太田資愛・米倉昌晴は将軍へのお目通りを停止された[15]。また中之間にいた6人は差控の処分を受け、柳生久通は佐野を取り押さえる際の行動が不手際であったとして御叱りの処分を受けた[25]。さらに当時中之間にいた江戸町奉行山村良旺、勘定奉行桑原盛員・久世広民ら九人の旗本と、表坊主らも叱責処分を受けた[47]。 官歴関連作品
脚注注
出典
参考文献
関連資料発行年順
関連項目外部リンク
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