北磻磨聖也
北磻磨 聖也(きたはりま せいや、1986年7月28日 - )は、兵庫県龍野市(現:たつの市)出身で山響部屋(入門時は北の湖部屋)所属の現役大相撲力士。本名は嶋田 聖也(しまだ せいや)。身長181.0cm、体重131.0kg、血液型O型、得意手は突き、押し。最高位は東前頭15枚目(2016年7月場所)。いわゆる「花のロクイチ組」の1人[1]。 来歴皮革業を営む家庭の次男として生まれ、保育園児の時から龍野市立揖保小学校4年次まで柔道を経験。小学校4年の春にわんぱく相撲の西播磨大会に出場して優勝し、兵庫県大会、全国大会まで進んだのを機に相撲へ転向することを決め、新日本製鐵広畑相撲教室に通い始める。チームメイトには高砂市出身で大学卒業後に境川部屋へ入門した同級生の妙義龍がいた[2]。小学校6年次まで毎年わんぱく相撲の全国大会に出場し、龍野市立龍野西中学校進学後は2・3年次に全国都道府県中学生相撲選手権大会への出場を果たしている。 当初高校進学志望だった嶋田少年であったが、3年時の都道府県大会出場時に北の湖部屋に泊まり、稽古を見たことで「この世界でやってみたい」と気持ちが変わり[3]、北の湖が「プロを目指すには早い方がいい」と説得した[4]ことで入門を決意。中学校を卒業後、広畑相撲教室の先輩である小野川親方の勧誘を受け[4]、小野川親方が所属する北の湖部屋に入門し、2002年3月場所で初土俵を踏んだ。同期には、同部屋の鳰の湖の他、稀勢の里、片山らがいる。相撲教習所時代の北磻磨について同期の稀勢の里は「教習所時代、とても強かった。見た目は若いけど、同い年だから」と、北磻磨が新入幕した頃に話していた[5]。初土俵後、約3年かかって幕下に昇進した。しかし、100kg余りの軽量のためなかなか幕下に定着できず、低迷した。 2008年3月場所に本名の嶋田から北磻磨に四股名を変更した。この四股名は、「北」は師匠の北の湖の文字をとり、「磻磨」は出身地であるたつの市が入っていた播磨国からきたもの[6]。2023年11月場所中の、その8年前の2015年に北の湖が死去した命日には「出身は西はり磨なんですが、先代師匠のしこ名から『北』の1字をいただいた時は、本当にうれしかった」とコメントしている[7]。これ以降、幕下に定着するようになり、着実に番付を上げていった。 30代後半になって幕下に落ちても稽古場で泥だらけになる部屋の兄弟子の北桜には刺激を受けたといい、当時の北桜の姿は後にベテランになっても簡単に相撲を辞められないという気持ちの源となった[8]。 2011年7月場所から幕下上位で3場所連続で勝ち越しを決め十両昇進を決めた[9]。十両昇進に際しては「やっと上がれた。(初土俵から10年は)長かった。上がれるチャンスがあったけど大事な一番で勝てなかった」とコメントしている[10]。同郷(たつの市出身)、同じ出羽海一門、師匠の兄弟弟子にあたる待乳山(元小結・播竜山)とは十両昇進以前に特に面識を持っておらず、声を掛けてもらったのも自分の相撲を見てもらうようになったのも十両昇進後からであるという[2]。 2012年は6場所すべてを十両で過ごしたが、うち2場所で勝ち越しを果たすことがやっとであり、2013年1月場所に幕下陥落を喫する。2014年1月場所は西幕下4枚目の地位で5勝2敗の成績を挙げ、これで4度目の十両昇進を果たしたが、翌3月場所は西十両14枚目で千秋楽に負け越しが決定し、再び幕下へと陥落した。同年9月場所で5度目の十両昇進をすると2場所連続の勝ち越しで2015年1月場所は15場所ぶりに自己最高位を更新。この場所は負け越したが9月場所でももう一度自己最高位を更新し、この年は1年間十両を保った。本場所中の同年11月20日に師匠の北の湖を亡くした11月場所では千秋楽に勝ち越した。 2016年は3月場所、5月場所と連続で勝ち越して、7月場所で新入幕。初土俵から所要85場所での新入幕は、史上9位タイのスロー出世[11]。新入幕会見では「15歳からこの世界に入っているのに高校、大学出身者よりも昇進が遅く、ずっと悔しかった。同じ地位になり、いい相撲が取りたい」とコメントした[12]。この場所は6勝9敗と負け越し、1場所で十両に逆戻りとなったが「悪いとことばかり。いいところは特にないけど、1場所で戻ります」と幕内復帰に意欲を示した[13]。 しかし、幕内復帰どころか首の痛みに悩まされて十両陥落後は大きい負け越しが2場所続き、2017年1月場所では東幕下筆頭に陥落した。しかし、この場所では首の痛みが無くなるなど体調が回復したことで本来の相撲が戻り[14]、5勝2敗の好成績で1場所で十両に復帰した[15]。しかし、西十両11枚目だった3月場所は4勝11敗の大敗だったため、1場所で幕下へ逆戻りとなった。5月場所・7月場所は幕下で連続で勝ち越し、9月場所では7回目の十両昇進となるが、7度の十両昇進は、同時に再十両が決まった希善龍らと並び、史上2位タイの記録である[16]。東十両12枚目で迎えた9月場所は、初日からの4連敗を含め、中日までに1勝7敗と苦しんだ。そこからやや持ち直したが、結局5勝10敗と大敗を喫し、またも1場所で幕下に落ちることになった。11月場所は東幕下2枚目の地位で迎えたが、序盤の不調が響いて3勝4敗と負け越した。幕下の地位で負け越すのはおよそ3年ぶりになる。 2018年は年間を通して幕下での土俵だった。3場所連続の負け越しの影響もあって、11月場所は西幕下30枚目まで番付を落としたが、この場所は4勝3敗として締めくくった。2019年は幕下中位での土俵が続き、一度も十両昇進の可能性のある15枚目以内に戻ることはできなかったが、11月場所では東幕下16枚目の地位で勝ち越し、翌場所での15枚目以内復帰を確実とするなど意地も見せた。 2020年7月場所では西幕下3枚目まで番付を戻し、この場所では千秋楽の貴源治との入れ換え戦を制して5勝目をあげ、実に17場所ぶり8回目の十両昇進が決定した。17場所ぶりの関取復帰となった9月場所は初日から連勝を挙げたが、5日目から5連敗を喫し、5勝6敗と立て直しの兆しを見せてきた12日目からも千秋楽まで4連敗で5勝10敗に終わり、再び幕下に陥落した。東幕下3枚目で迎えた11月場所は、3連勝の後連敗する。4勝3敗と勝ち越したものの、番付との兼ね合いもあり1場所での関取復帰は果たせなかった。 2021年3月場所では、東幕下筆頭で迎えた前場所において3勝4敗と負け越したため、西幕下5枚目で迎えていた。しかし、新型コロナウイルス蔓延における協会が実施した場所前のPCR検査で、山響部屋の小野川親方(元幕内北太樹)が陽性と判定された。自身は陰性であったが、3月場所の休場を余儀なくされた。協会の特例措置によって番付は維持された。自身にとってこれが初めての休場であり、2002年5月場所の新序出世から続いていた連続出場記録は985で止まることとなった[17]。 2023年9月場所では2008年1月場所以来となる三段目陥落となったが、西三段目2枚目の地位で7戦全勝で三段目優勝。37歳1カ月25日での三段目優勝は、2013年秋場所で天一俊哉が記録した35歳10カ月5日を超える戦後最年長の優勝記録となった[18]。11月場所は東幕下11枚目まで番付を戻し、7番相撲の聖富士戦でこの場所の7戦全勝と場所後の十両復帰確定を懸けたが、敗れて場所を6勝1敗で終えることとなって十両復帰を逃した[19]。7番相撲終了後に「現役であるうちは張り切ってやります。全然大丈夫。いけます」と意気込んだ[20]。2024年1月場所では西幕下2枚目の地位で14日目に十両の天空海を破って4勝3敗と勝ち越しを決め、1月31日の番付編成会議にて再十両が決定した。これは39歳5カ月の大潮に次ぐ戦後2位の高齢記録となる37歳6ヶ月、 希善龍と並び史上最多タイとなる9度目の十両昇進となる。3月場所前の記事では今後の目標を「ただ幕内に上がることではなく、幕内で“大活躍”です」と語った。対戦したい相手については妙義龍の名前を出し「入門してから稽古でも本場所でも当たっていないので。そろそろ当たらないと、どっちか辞めちゃうでしょ(笑)」と笑った[8]。東十両14枚目で迎えた3月場所では4勝11敗で終え、1場所で幕下陥落となった。 東幕下4枚目で迎えた5月場所、2連敗の後3連勝し、6番相撲の新十両栃大海戦には敗れたものの、千秋楽の7番相撲で十両で幕下陥落濃厚な千代丸を倒し4勝3敗と勝ち越す。 取り口
人物・エピソード
主な成績2025年5月場所終了現在 通算成績
各段優勝
記録場所別成績
幕内対戦成績
※太字は2025年3月場所終了現在、現役力士。
改名歴
脚注
関連項目外部リンク |
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