反田恭平
反田 恭平(そりた きょうへい、1994年9月1日 - )は、日本のピアニスト、指揮者、実業家[1][2][3]。ジャパン・ナショナル・オーケストラ代表取締役社長兼CEO[4]。血液型はAB型[5]。妻はピアニストの小林愛実[6][7]。 人物生い立ち東京都出身[8][9](北海道札幌市生まれ)[8][10]。生まれた時は逆子で、心肺停止状態だったという。これについて、本人は「僕は一度死んでいるんですよ」と語っている。父はサラリーマン、母は主婦という家庭に育つ。音楽好きな母が弾いたエレクトーンを聴き、それを瞬時に弾いたほど小さい頃から耳が良かった[11]。小学5年生の時に、サッカーの試合中に手首を骨折し、接骨時のトラウマでサッカー選手の夢を諦めた(尚、現在ではガンバ大阪のサポーターであることを公言している)[12]。 小学6年生の時、漫画『のだめカンタービレ』を愛読していた母から勧められる。また、ドラマ『のだめカンタービレ』も視聴し、作中で取り上げられていた交響曲やピアノ以外の作品を知る切っ掛けになったという。さらに中学生の頃、漫画『ピアノの森』を勧められ、「主人公達が弾く作品を全部調べて、楽譜を買って弾いていた。僕はピアノの森と一緒に育ってきたような感じがあります」と明かしている[13][14][15]。また同時期、曽我大介のもとで東京ニューシティ管弦楽団を指揮する機会を[16]、加えて音楽番組『題名のない音楽会』で1分ほど東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団を指揮する機会を得る[17]。この時にクラシックが好きだと確信、ピアノを本格的に学ぶ決意をするが、父に「そんなに音楽高校に行きたいのなら、コンクールで1位を取って、その賞状を俺のところに持って来い」と言われコンクールへ出場、1つで最高位を、その他全てで優勝を飾り、桐朋女子高等学校音楽科(共学)へ進学を決めた[18]。 高校入学からポーランド留学時代高校入学まで、ショパンやリストなどの好きな作曲家の曲しか弾いてこなかったため、入学当初から日本音楽コンクールに優勝させる事を目標としていた川島伸達の指導のもと、試験とコンクールの課題曲以外はバロック音楽とバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンら古典派の練習を徹底した[18]。また同校の恩師である下田幸二は「授業中、全然話を聞いてないようなふりをしてるんです。で、いざ演奏を指名され楽譜を広げて弾き出すと、ものの見事に弾いてみせる」[19]。同大学で長年教授を務める岡本美智子は「オーケストラの指揮に挑戦したり、学園祭でミュージカルの舞台に立ったりと、常ににぎやかで周囲を引っ張るオーラがあった。ピアノというよりは音楽そのものを、全身で楽しんでいた」[20]と語っている。 高校3年生の時、日本音楽コンクールにて18歳で第1位を獲得し、聴衆賞を含む4つの特別賞も受賞[21][22]。高校卒業後の2013年にロシアへ留学し、1年の予備科を経てモスクワ音楽院に首席で入学すると[23][24]、翌2015年にイタリアで開催された第25回チッタ・ディ・カントゥ国際ピアノ協奏曲コンクールに参加し第1位に輝いた[25]。同年メジャー・デビューも果たし、タカギクラヴィア社長・高木裕の支援のもと、ホロヴィッツが愛奏したヴィンテージ・ニューヨーク・スタインウェイを使用していた[23]。2017年、ショパン国際ピアノコンクールへの出場も見据えポーランドへ留学しショパン国立音楽大学に入学。この頃、すでにプロとして「最もチケットが取れないピアニスト」という肩書が付くほどの活躍を見せており、コンクールの最終エントリー期限近くまで出場を悩んだが、失敗のリスクよりも「自分の力を試してみたい。小さい頃から憧れていたあの舞台のファイナルで協奏曲を弾きたい」という想いが勝り、参加への意思を固めた[26][27]。 第18回ショパン国際ピアノコンクール2021年10月、第18回ショパン国際ピアノコンクールで第2位に入賞[28]。2位はアレクサンダー・ガジェヴと同時受賞であり、同コンクールにおける日本人歴代最高位タイで、内田光子以来51年ぶり2人目[29]。「『ショパン国際ピアノコンクールで協奏曲を弾く』。夢が叶う瞬間、待ち望んだその時間というのは一瞬なのか、10秒間なのか、人それぞれに長さがあると思うのですが、僕にとってのその幸せな時間は40分間でした」と明かした[30]。コンクール期間中、同じ練習室に通っていた沢田蒼梧は「本来ライバルである他のコンテスタント[31]の練習に付き合い、自分の持っているものを分け与えてくださる。演奏でも同じピアノを弾いているのに音量が全然違う、それだけでまず衝撃だった」[32]。また、同コンクールの審査員を務めた恩師ピオトル・パレチニ[33]は「彼はファイナリストの中で唯一、1次から最後まで発展していったピアニストだったと思います。ツィメルマンやブレハッチ、ブーニン、レヴィットが、彼のポロネーズが良かったとメッセージをくれました」[34][35]。加えて、モスクワ音楽院教授・ピアノ科長を務める恩師ミハイル・ヴォスクレセンスキーは「世界中の音楽家の中でも傑出しています。このような才能豊かな人が世に出るのは10年に一度のことでしょう」と語っている[36]。 来歴北海道生まれ、幼稚園の年長から東京都で暮らす[10][37]。幼少時代はヤマハ音楽教室、一音会にて学ぶ[18]。
活動歴
共演・指導者共演マリインスキー劇場管弦楽団、ロシア・ナショナル管弦楽団、RAI国立交響楽団、ベルリン・ドイツ交響楽団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団、ザルツブルグ・モーツァルテウム管弦楽団、ハイルブロン・ヴュルテンベルク室内管弦楽団、スペイン国立管弦楽団、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、ハーグ・レジデンティ管弦楽団、プラハ・フィルハーモニア管弦楽団、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、東京都交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、日本センチュリー交響楽団等、国内外のオーケストラと共演。同世代のソリストを集めて自身が創設したジャパン・ナショナル・オーケストラ(旧MLMダブル・カルテット、旧MLMナショナル管弦楽団)では、室内楽を中心に活動。 指導者ピアノを木下尚之、横山悦子、川島伸達、片山敬子、ミハイル・ヴォスクレセンスキー、セルゲイ・クドリャコフ、アナスタシア・ガマレイ、ピオトル・パレチニに師事[8][106][107]。チュンモ・カン、ダン・タイ・ソン、パスカル・ドヴァイヨンらのレッスンを受講[8]。室内楽を徳永二男に師事[108]。指揮を梅田俊明[109]、湯浅勇治に師事[2]。 エピソード
ディスコグラフィ
主な受賞歴
出演テレビ番組
テレビドラマCM
ラジオ番組
その他・備考報道番組・情報番組等を含め、これまでにNHK総合、NHK-Eテレ、NHK-BS、テレビ朝日、毎日放送、日本テレビ、TBSテレビ、フジテレビ等のテレビ放送局、NHK-FM放送、FM-ヨコハマ、TOKYO FMをはじめとするJAPAN FM NETWORK各局、NHKラジオ第1放送、MBSラジオ、ラジオ大阪等のラジオ放送局に加え、音楽雑誌・新聞にも多数出演[137]。 脚注出典
外部リンク
音楽配信
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