増田順司
増田 順司(ますだ じゅんじ、1915年10月25日[1][2][5][6][7] - 1989年5月25日)は、日本の俳優[1][8]、声優[3]。本名・吉野 順二[1][2][3][6][8](のち増田順二[7])。東京市麹町区[7](現・東京都千代田区)出身。旧芸名・別名は増田 順二[3][6]。息子は劇団NLTの演出家[8]。 経歴・人物増田家の次男として生まれ、吉田家の養子となる[8]。 四谷第三尋常小学校を経て東京府立農芸学校に入り修了後[7]、32年に第一外国語学校英語科に入り34年卒業[7]。 同年シナリオ·ライターをめざして日本大学専門部文科に進み、大演劇ワークショップに加入し北村喜八、青山杉作らに師事[7]。 36年に創作座へ入り、翌37年3月に大学中退するも同年春、創作座は解散し、38年末、文学座に入る[7]。 1937年[2]、日本大学専門部芸術科演劇科卒業[1][2][3][6][注釈 1]。大学在学中に劇団創作座に入団[1][2][注釈 2]。東京自由舞台を経て[1]、文学座で舞台俳優として活動[1][2][6]。 1940年[8]、東宝に入社し企画課に勤務[1][3][8]。1942年に東宝を退社[8]。1943年、松竹大船撮影所に入社し専属俳優となる[1][2]。 1942年3月15日吉野信子と結婚し吉野姓となる[7]。 1944年、東宝の映画『おばあさん』で映画初出演。俳優としては旧姓の増田を芸名に用いた。 第二次世界大戦中は召集され海軍に入隊[2]。復員後、松竹に復帰[2]。1953年、松竹を退社しフリーとなる[1][2][6]。 53年3月、松竹を退社[7]。 1954年、佐野周二、佐田啓二とともにまどかグループを設立し、監査役を務めた[1][2][3][6](企画製作担当重役とも[7])。 増田の代田一丁目にある家は佐野周二が住んでいた家を佐野が下北沢の新築の家に引っ越す際に一の子分である増田が譲ってもらったという[9]。 後に順司に改名[7]。 1959年、しばたプロダクションの設立に参加し、取締役となる[8]。その後は東映に入社[5]。 1968年から東京俳優学校の講師も務めた[2]。多くの映画やテレビドラマに出演した[6]。 1989年5月25日午前7時10分、胃癌のため河北病院で死去(享年73歳)[10]。 信子との間に一男一女[7]。 出演映画
テレビドラマ
舞台吹き替え
CM脚注注釈出典
外部リンク
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