天才バカボンのエピソード一覧
天才バカボンのエピソード一覧は、赤塚不二夫の漫画作品『天才バカボン』のエピソードをまとめたものである。 現在は1988年に「月刊少年マガジン」(講談社)にて連載された際のエピソードを除き、各話ともにeBookJapanの電子書籍『天才バカボン』全38巻で購読可能。 週刊少年マガジン版(第1期)「週刊少年マガジン」1967年15号~1968年30号、33号~1969年9号に連載。計95話。 競合誌の「週刊少年サンデー」(小学館)に連載されていた『おそ松くん』が大ヒットしたことにより、マガジン側が赤塚不二夫に新作を依頼したことが本作の始まりである。 当初、赤塚はサンデーに恩義を感じていたことから断ったものの、編集部からの熱いラブコールに赤塚が折れる形で連載がスタートした。このことが原因でサンデー側は紙面強化を理由に『おそ松』の連載を打ち切り、『もーれつア太郎』の連載を開始させた。 連載を開始するにあたり、講談社側は20例以上のプロットを持ち込んだが、赤塚は「それを全部ひっくるめたものより面白くします」と宣言した。 1967年度
1968年度
1969年度
別冊少年マガジン版(第1期)「別冊少年マガジン」1967年8月号、11月号、1968年1月号、4月号、8月号、9月号、11月号に連載。計8話。 「週刊少年マガジン」での好評を受け、早くも1967年8月に月刊誌「別冊少年マガジン」で不定期連載を開始。当初は宇宙旅行やタイムトラベルといった番外編的な内容であったが、やがて週刊版と同じ頁数と内容に変更。 1967年度
1968年度
週刊少年サンデー版「週刊少年サンデー」1969年35号~37号、47号、49号、51号~1970年15号に連載。計19話。 『おそ松』に代わって開始した『ア太郎』は『おそ松』ほどにはヒットせず、サンデーの売れ行きも低下していた。そんな1969年初頭、フジオ・プロの酒場での話し合いでの席上、同プロ所属の長谷邦夫が「『バカボン』、マガジンから持ってきて、赤塚不二夫をサンデーの独占作家にしちゃえば」と発言。同席していたサンデーの赤塚担当編集員・武居俊樹は翌日このことを編集長に提案、その結果『バカボン』は1969年35号からサンデーに移籍を果たす[1]。当初は夏休み限定だったが、その後も不定期に連載され、1970年1号からは毎週連載となる。 この時期に、パパの新たな口癖「国会で青島幸男が決めたのだ」が登場した。また『ア太郎』とのダブル連載により、人気キャラ・ニャロメを始めとする『ア太郎』キャラが扉や本編に頻繁に登場するようになる。 なお1970年12号は『ア太郎』と共に休載したが、これは『バカボン』と『ア太郎』そして『おそ松』のクロスオーバー作品『最後の休日』[注 1]掲載のためである。 38号には長谷邦夫、古谷三敏、佐々木ドン、とりいかずよしのフジオ・プロメンバー総出で執筆された『ああ!! 大脱獄』(曙コミックス12巻収録時に『天才バカボン番外地』と改題)が掲載される。これは赤塚の母・りよの死去というアクシデントに伴って急遽執筆されたもので、『おそ松』『ア太郎』『バカボン』『風のカラッペ』のキャラクターが登場する。 こうして移籍連載したものの、『ア太郎』がニャロメ人気でヒット作になったのに対して『バカボン』は徐々に人気が低下していき、1970年15号をもって連載を終了する。『ア太郎』も同年27号をもって連載終了した。 1969年度
1970年度
デラックス少年サンデー版「デラックス少年サンデー」1969年9月号~1970年6月号に連載。計10話。 1969年、新たな月刊誌「デラックス少年サンデー」、通称「デラサン」が創刊。赤塚は季刊誌「週刊少年サンデー増刊号」に連載していた『ア太郎番外 花のデコッ八』を移籍連載していたが、同年9月号に新たに『バカボン』の連載を開始した。月刊誌であるため頁数は多くなったものの、内容は週刊サンデー版とほとんど変わらず、1970年1月号に掲載した西部劇作品が唯一の非日常回。それも『おそ松』のような完全な非日常回ではなく、パパの夢だったという内容である。 この1970年1月号からは、デラサン表紙にもパパ(時によってはバカボン一家全員)が登場し、ニャロメやケムンパス・べしと共演。末期には『ギャグおじさん』(秋竜山)とも共演している。 1969年度
1970年度
週刊ぼくらマガジン版「週刊ぼくらマガジン」1971年20号~23号に連載。計4話。 週刊サンデー版が終了した翌年の1971年、『バカボン』のテレビアニメ化の話が入ってきた[2]。赤塚は再び『バカボン』を描きたいと思うも、連載移籍の件でためらっていた[2]。そこで古谷三敏がマガジン編集部に電話で依頼、その結果、週刊マガジンではなく、同誌の弟雑誌「週刊ぼくらマガジン」1971年20号からの連載となった[2]。 1年ぶりの復活となったものの、わずか4号で「ぼくらマガジン」が休刊。だが『バカボン』は同誌に連載されていた『タイガーマスク』(梶原一騎・辻なおき)、『仮面ライダー』(石森章太郎)と共に週刊マガジンに移籍、1971年27号より連載を再開する。 4回限りの連載であったが、ラスト2回は後に頻繁に発表する「ある家族」ネタの原型となる話で、「BAKA型の輸血なのだ」は後半までパパが登場せず、「うらなう人の星の王子さまなのだ」ではラスト3頁しかパパが登場しない。また「BAKA型の輸血なのだ」では、古谷(フジオ・プロ)が「週刊少年サンデー」に連載していた『ダメおやじ』から、ダメおやじこと雨野ダメ助がゲスト出演した。 なお、「週刊少年マガジン」1973年50号に掲載された「最終回のヤケクソ漫画なのだ」のラスト、『バカボン』連載断念の「急報」(実はギャグで、3週休載しただけで再開)に、「六年前後のながいあいだ連載しました『天才バカボン』〜」[3]と記載、また同誌1975年2号掲載の「ほんとのほんとうの最終回なのだ!!」(こちらは真の最終回)で、冒頭、赤塚の連載終了コメントに「今回まで約七年半のあいだ〜」[4]と記載されており、『バカボン』が「少年サンデー(週刊・デラサン)」や「ぼくらマガジン」でも連載していたことには一切触れていない。 1971年度
週刊少年マガジン版(第2期)「週刊少年マガジン」1971年27号~1973年50号に連載。計127話。 1971年度
1972年度
1973年度
週刊少年マガジン版(第3期)1974年1号~43号、45号~1975年2号に連載。計51話。 1974年度
1975年度
別冊少年マガジン版(第2期)「別冊少年マガジン」1974年8月号、9月号、11月号、1975年1月号~5月号に連載。計8話。 一時休刊していた別冊マガジンが、1974年8月号より復刊。『バカボン』も連載されることになる。当初は週刊マガジン版と平行連載していたが、同誌が1975年2号で連載を終了したため単独連載となる。内容はデラサン版同様、頁数が多いものの週刊マガジン版と同じであった。内容も引き続き「バカ田大学関連者」や「ある家族」を中心にしている。 1975年6月号より雑誌名を「月刊少年マガジン」と変更するが、『バカボン』は引き続き連載となる。 1974年度
1975年度
月刊少年マガジン版(第1期)「月刊少年マガジン」1975年6月号~1978年12月号に連載。計43話。 この時期、テレビアニメ第2作『元祖天才バカボン』が放送を開始。1975年11月号では、その記念企画として、週刊少年マガジン1972年51号掲載の「10本立て大興行」以来の長編オムニバス作品「100ページ特集」を掲載した。しかし後年の単行本では完全には収録されず、
また、曙出版版や竹書房版などでは「特集」ラストに、初版や講談社版では第3期時代掲載の「亭主関白の失敗なのだ」ラストに掲載された「おまけバカボン」[注 3]が掲載された。 連載は1978年12月号まで続いたが、曙出版版では1976年3月号の「ムダをはぶいて下落合大学なのだ!!」が、講談社版と竹書房版では1976年11月号の「拳銃をすてた目ン玉警官なのだ」が最後の掲載回となっており、その後の回は、1978年刊行の『天才バカボン』別巻3(講談社)、1987年刊行の『えりぬきバカボン』(講談社)、Softgarageの『なのだ!? 天才バカボン』など一部の単行本やeBookJapanの電子書籍のみに収録されている。また、1978年7月号の「恐怖のドブスベビー」は現在まで単行本化されていない(eBookJapan版27巻で閲覧可能)。 以下に挙げた作品のうち、『なのだ!? 天才バカボン』に収録されているものは●、2016年刊行の『黒いバカボン』(秋田書店)に収録されているものは▲で割り振っている。 1975年度
1976年度
1977年度
1978年度
月刊テレビマガジン版(元祖天才バカボン)「月刊テレビマガジン」1975年8月15日増刊号、1975年11月号~1977年8月号、1976年1月15日増刊号、1976年4月15日増刊号、1976年8月15日増刊号、1977年1月15日増刊号に連載・掲載。(※1975年8月15日増刊号のみタイトルは『天才バカボン』) 事実上の著者は長谷邦夫と河口仁であるが、単行本では「赤塚不二夫とフジオ・プロ」名義になっている。 週刊少年マガジン版(第4期)「週刊少年マガジン」1975年43号~1976年49号に連載。計57話。 週刊マガジン版第2・3期の終了後、赤塚は同誌1975年7号より旧約聖書をモチーフにしたギャグ漫画『B.C.アダム』を連載するが、同作品は『バカボン』ほどヒットしなかった。中盤からテコ入れでバカボン一家や本官さんを準レギュラーで登場させたり舞台を現代に移したりしたものの、同年26号をもって連載が終了する。 その後赤塚は、アニメ『元祖天才バカボン』の放送開始に合わせて、週刊マガジン1975年43号より『バカボン』の連載を再開した。しかし今度は頁数が1話につき5頁にまで制限されたため、「ショート・ギャグ」と称したショート・ショート作品を掲載することになる。また、「読者諸君のにがお絵でつくったバカボンなのだ!!」の回では読者から寄せられた似顔絵を漫画化し、「読者のつくった『パパとママの会話』なのだ」の回では読者から寄せられた「パパとママの会話」を漫画化するという読者参加企画を行った。 1976年49号をもって連載終了。その後赤塚は1977年2号~同年31号に『建師ケン作』(原作:牛次郎)、1977年50号~同年52号に『ハウスジャックナナちゃん』(原作:筒井康隆)、1978年7号~同年14号に『おバカさん』(原作:遠藤周作)と原作者付き漫画の連載を3本行った後、読み切り版『バカボン』(後述)を掲載して週刊マガジンから退くことになる。 第4期を収録している単行本は講談社版と竹書房版のみで、曙出版版には1話も収録されていない。また、「読者諸君のにがお絵でつくったバカボンなのだ!!」の回は講談社版にも収録されていなかったが、竹書房版で初収録され、全話収録となった。 1975年度
1976年度
コミックボンボン版(平成天才バカボン)「コミックボンボン」1987年10月号~1991年10月号、1990年1月冬休み増刊号に連載・掲載。全50話。(※1990年1月冬休み増刊号、1990年1月号~1991年10月号分のタイトルは『平成天才バカボン』) 『最新版 平成天才バカボン』全4巻(第1巻のみ『最新版 天才バカボン』)と『秘蔵 単行本未収録傑作選』に収録されている。 1980年代後半、小学館の藤子不二雄人気に対抗した講談社は、フジテレビと読売広告社を巻き込んで赤塚不二夫を売り出す「赤塚戦略」を構想。3社が提携した「赤塚戦略」第1弾の『おそ松くん』、第2弾の『ひみつのアッコちゃん』、第3弾の『天才バカボン』は雑誌などでのリバイバル掲載が先行して行われた。 同時期の月刊マガジン版第2期と違って過激な描写は皆無であるが、逆に下ネタの頻度が高い。 以下に挙げた作品のうち、『最新版 平成天才バカボン』に収録のものは●、『秘蔵 単行本未収録選』に収録のものは■、『よりぬき天才バカボン[そのいちなのだ]』に収録のものは▼、『よりぬき天才バカボン[そのになのだ]』に収録のものは◆で割り振っている。 1987年度
1988年度
1989年度
1990年度
1991年度
テレビマガジン版「テレビマガジン」1987年11月号~1991年1月号に連載。計38話。 雑誌の判型が異なるため、他誌で掲載されたものより1頁にコマ割りの例が3列しかない。 以下に挙げた作品のうち、『よりぬき天才バカボン[そのいちなのだ]』に収録されているものは▼、『よりぬき天才バカボン[そのになのだ]』に収録されているものは◆で割り振っている。 1987年度
1988年度
1989年度
1990年度
1991年度
月刊少年マガジン版(第2期)「月刊少年マガジン」1988年1月号~1989年2月号に連載。計14話。 著作権の限界や表現の限界に踏み込んだ作品が見受けられるのが特徴。例を挙げれば、
過激さを理由に電子書籍版には収録されず、2007年と2008年に発売された単行本でしか読むことができない。その単行本自体も絶版となっているため、現在の入手は困難である。 以下に挙げた作品のうち、『天才バカボン THE BEST 講談社版』に収録されているものは●、『秘蔵 単行本未収録傑作選』に収録のものは▲で割り振り、未収録作品は分類しない。 1988年度
1989年度
ヒーローマガジン版「ヒーローマガジン」1989年10月号~1991年1月号に連載。計18話。 「ボクサァ、ふとったパパなのだ」には、同誌に連載中だった『パラソルヘンべえ』のへンべえがカメオ出演しているなど、同誌連載作品の主人公たちが客演することも少なくない。 『ヒーローマガジン』の休刊後、ボンボンレーベルより刊行された『さいしん天才バカボン』にほぼ全ての作品が収録され、2007年発売の『天才バカボン THE BEST』にて残りの未収録作品が単行本化された。『天才バカボン THE BEST 講談社版』は絶版のため入手が難しいが、『さいしん天才バカボン』は「コミックパーク」で入手できる。 以下に挙げた作品のうち、『さいしん天才バカボン』に収録されているものは●、『天才バカボン THE BEST 講談社版』に収録のものは▲、『よりぬき天才バカボン[そのになのだ]』に収録されているものは◆で割り振っている。 1989年度
1990年度
1991年度
デラックスボンボン版(平成天才バカボン)「デラックスボンボン」1990年1号(6月30日発行)、1991年11月号~1992年12月号に掲載・連載。計16話。(1992年1月号は2本連続掲載) 以下に挙げた作品のうち、『天才バカボン THE BEST 講談社版』に収録されているものは●、『秘蔵 単行本未収録傑作選』に収録されているものは▲、『よりぬき天才バカボン[そのになのだ]』に収録されているものは◆で割り振っている。 1990年度
1991年度
1992年度
読み切り
天才バカボンのおやじ「週刊漫画サンデー」1969年9月3日号~1971年11月27日号(不定期掲載)、1972年7月1日号、1973年1月27日号に連載・掲載。計28話。 一部作品は赤塚のアイディアを元に古谷三敏が作画を担当している。また、1973年1月27日号掲載分はこれまで単行本に収録されていない。 1969年度
1970年度
1971年度
1972年度
1973年度
天才バカボンのパパ
出典
脚注注釈
出典 |
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