学校法人学習院
学校法人学習院(がっこうほうじんがくしゅういん)は、日本の学校法人。起源は、仁孝天皇が1847年(弘化4年)に京都御所内に設けた教育機関「学習所」(京都学習院)。 その後、華族のための学校として、1877年(明治10年)に神田錦町にて「学習院」として開校(旧制学習院)。学校法人学習院ではこの年を学習院の設立年としている。 1884年(明治17年)には官立学校となるが、1945年(昭和20年)以降の戦後になると官制が廃止され財団法人学習院を経て、現在の学校法人学習院となり私学として継続することとなった。 校名の由来1847年(弘化4年)3月、京都に公家の教育機関として開講した当初は「学習所」と称したが、1849年(嘉永2年)4月に孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて正式名称となった。 この名称が論語冒頭の「學而時習之、不亦説乎」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)に基づくことは疑いないとされている[1]。
理念・教育目標「一貫教育の理念」として、学習院学則総記に以下のように定める。
また、全ての学習院系列校に共通する教育目標として、 ひろい視野 たくましい創造力 ゆたかな感受性 を掲げている[2]。 学校法人 学習院が設置している諸学校大学中学校・高等学校併設校小学校幼稚園沿革→「学習院」も参照
学習院大学、学習院中・高等科、学習院女子中・高等科、学習院幼稚園等、関連項目も参照
歴代学習院院長一覧官立学校時代の学習院の歴代院長は学習院の当該節を参照
外郭団体皇族と学習院皇族就学令それまで皇族は慣例として学習院に通学していたが、1926年(大正15年)12月に皇族就学令が公布され、学齢期に達した皇族の学習院・女子学習院への就学が正式に定められた。皇族男子は別寮(学習院大学内・現東別館)に寄宿していた。 学習院への信頼1971年8月7日、学習院初等科の6年生が学習院沼津遊泳場(静岡県沼津市島郷)で合宿中、88人が軽い食中毒を起こした。この中には浩宮が含まれており、すぐさま皇太子への連絡が行われたが「学校のことは学校に任せてあるから」と言われただけだったという[3]。 学習院離れ創立の経緯から、天皇(皇太子・皇太孫時代)や多くの皇族(皇族男子:親王あるいは王、皇族女子:内親王あるいは女王)が幼稚園から大学までを過ごす学園として、全国的に知られている。当然、同級になる事を特別に許可された家柄の「ご学友」が複数いる[4]。 かつては「皇族は学習院に入る」ことが不文律となっていたが、近年は学習院に入学しない皇族もみられるようになった。例として、承子女王が早稲田大学へ、絢子女王が城西国際大学へ、眞子内親王が国際基督教大学へ、悠仁親王(2019年〈令和元年〉5月1日現在、皇位継承権第2位)がお茶の水女子大学附属幼稚園から同大学付属小学校・中学校、筑波大学附属高等学校へ進学するなど。2008年以降に4名が学習院以外を入・進学先にしたことや、いったん学習院大学に進学した佳子内親王が国際基督教大学への入学等のために中途退学したことに伴い、一部のテレビメディアや週刊誌などで「皇族の‟学習院離れ”」が報じられるようになった。 これに関して、当時の院長波多野敬雄は「学習院は宮さまに適した学校であるし、そうであり続けなければならない。しかし、個々の宮さまにはそれぞれの希望があり、ご家庭の教育方針もあるから、私の方から『学習院にきていただきたい』とお願いはしない。」とコメントしている[5]。 天皇家と学習院愛子内親王は2020年4月より学習院大学文学部日本語日本文学科へ進学した(父である天皇徳仁は、同大学文学部史学科の出身)。 天皇は2020年2月21日、誕生日(2月23日)を前にして行った記者会見において、学習院女子高等科を卒業される愛子内親王の進路について、「今日、学校側から、愛子が希望していた、学習院大学文学部日本語日本文学科への合格通知を頂きました。進路については、本人から私たちにも相談がありましたが、本人の意向を尊重しながら、できる範囲での助言をしてきたつもりです。希望の進学先に進めることを、愛子はもとより、私も雅子もとても喜んでおります」と述べた。 2023年12月、卒業論文を提出[6]。卒業によって皇族の在学者はいなくなる。 脚注
外部リンク |
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