宍戸大全
宍戸 大全(ししど だいぜん、1929年11月24日 - )は、日本のスタントマン・俳優。福島県出身。本名は宍戸 邦博(ししど くにひろ)。映画・テレビドラマの吹き替え(水戸黄門でお馴染みの風車の弥七[注 1][注 2][1]など)で活躍した。『週刊朝日』1964年7月3日号のインタビューでは、宍戸大全にししどひろやすとルビが振ってある[2]。 来歴・人物1948年、(旧制)福島県立保原中学校 (福島県立保原高等学校) 卒業。 オリンピック選手を目指し日本体育大学に進学するが、練習中に左アキレス腱を痛めてしまい、メルボルンオリンピックへの夢を断念。卒業後は秋田県の女子校である旧大館桂高校の体育教師として生活していた。 大阪の高校で体育教師をやっていた1956年[2]、大映京都撮影所で製作中の長谷川一夫主演『鼠小僧忍び込み控』でケガ人が出たことから[2]、体操の先生なら身軽でスタンド・イン(吹きかえ)によかろうと同作に臨時出演したことを機に大映に入社[2]。市川雷蔵などスターのスタンド・インを担当した[2]。1961年、当時五社協定時代ながら、岡田茂東映京都撮影所長(当時)に引き抜かれて東映に移り[2][3]、映画・テレビ問わず端役や吹き替えで出演。東映と専属契約はしたが他社にも出演した(1964年大映『忍びの者 霧隠才蔵』で雷蔵の吹き替え)[2]。 春日太一は、「1962年に公開された市川雷蔵主演の『忍びの者』で、日本初のスタントマンである宍戸大全が、自衛隊のレンジャー部隊に倣って忍者のアクションを考案した」と話している[4]。 東映移籍当初はあまり仕事はなく[2]、体操の先生に戻ろうかと考えていた矢先[2]、1962年頃から映画やテレビで忍者ブームが起こり[2]、以前の忍者映画のようにトリックだけではごまかしが効かず、実技として見せなければならなくなり、主演俳優の身替わりとしてスタンド・インが引っ張りだこになり、その代表格になった[2]。東映京都で、1964年夏に封切りを予定した『鳥人鷹』なる映画(詳細は不明)の準備のため[2]、撮影所内に冒険クラブを作り、跳躍用のトランポリンや、スポンジマットを買い入れ[2]、高さ14~15メートルの城壁から飛び降りる場面をワン・カット(長回し)で撮れるよう猛特訓した[2]。1963年のアメリカのコメディ映画『おかしなおかしなおかしな世界』では、スポンジマットを10個並べたスタントシーンがあり[2]、これを観た宍戸は「日本でももっと冒険者の身の保証と、撮影設備があれば」とため息をついた[2]。 1970年にフリーとなり、特技スタッフとして数多くの時代劇作品に参加した。時代劇のオープニングやエンディングのクレジットには、「特技 宍戸大全」と表記されている。 1973年4月から、大学の後輩でもある千葉真一が率いるジャパンアクションクラブ(JAC)と業務提携していた。 1990年、佐賀県嬉野温泉の時代型テーマパーク肥前夢街道の開業に伴い、園内施設及び「はがくれ忍者屋敷」を建設段階から総合プロデュース。開業後しばらく「はがくれ忍者屋敷」を宍戸大全アクションチームとして忍者ショーを行った。 2012年春に引退。 アクションチームは、一番弟子の森山陽介が後を継いで活動している。 出演作品映画テレビドラマ
脚注注釈出典関連項目外部リンク |
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