宝来 (さいたま市)
宝来(ほうらい)は、埼玉県さいたま市西区の大字。郵便番号は331-0074[2]。 地理さいたま市西区北西部の古荒川(かつての入間川)が作り出した沖積平野(荒川低地)上に位置する南北に長い平坦な区域である[4]。地内には古荒川によってできた南北に延びる自然堤防も見られる[5]。地区外の東域には大宮台地(指扇支台)の崖線が南北に延びる。中央を宝来川が南北に流れ、南側は滝沼川が東西に流れ下り、西側には荒川の河川区域を隔てる堤防が南北に築かれていて、それにすぐ東側に平行するように西堀川が流れる[注釈 1]。 東側を大字峰岸や大字指扇領辻や大字指扇領別所、南側を大字指扇や土屋や大字西遊馬、北側を上尾市大字平方や大字西貝塚と接する。また、西側はかつて指扇地区に属する大字の入会地や流作場由来の飛地郡を隔てた向う側に川越市大字古谷上がある。北西側に離れた場所に周囲を上尾市および川越市に囲まれたさいたま市の飛地で、大字宝来に属する大きく纏まった飛地[注釈 2]があり、その中央を上尾中堀川、西端を荒川が流れる。地内の荒川堤防ではさいたま築堤事業によって、堤防のかさ上げ工事が実施されている[6]。 土地利用としては北部は市街化調整区域であり、ごみ処理場などの公共施設や住宅などが混在する耕地整理された水田の割合が多い農地で、国道16号や滝沼川を隔てた南部は市街化区域[注釈 1]に指定され、指扇駅に近く都市化しており、専ら住宅地となっている[5]。堤外地(河川敷)に位置する飛地では農地のほか、運動公園やゴルフ場などのレクレーション施設として利用されている。地内にかつての内囲堤の跡が道路[注釈 3]として見て取れる[7]。 地価住宅地の地価は2019年(平成31年)1月1日の公示地価によれば大字宝来字上横手1457-9の地点で11万9000円/m2となっている[8]。 歴史もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡指扇領に属する上宝来村および下宝来村で、古くは中世末期頃より見出せる橘荘[9][注釈 4]に属していたと云われている[11][12]。現在の大字宝来の上宝来村は北半分、下宝来村は南半分に相当する。また、古くは寛永〜正保期(1624年〜1648年)頃[13]は一帯は宝来野(ほうらいや)と称される原野で、宝来野には差扇(指扇)領の13ヶ村入会の秣場があった[14]。宝来は蓬莱とも記されていた[12][4]。 1682年(天和2年)指扇領の領主である山内豊前守が荒川の岸際に水除堤を築き、宝来野を開墾して上宝来村・下宝来村を村立てた[注釈 5]。文政期(1818年〜1831年)には流域沿いに宝来野の残部の原野が存在していた[4][14]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では宝来村として野高106石余、『元禄郷帳』では上宝来村では155石余、下宝来村では483石余、『天保郷帳』では上宝来村では158石余、下宝来村では492石余であった[11][12]。助郷は両村とも中山道上尾宿に出役していたが幕末は大宮宿にも出役していた[11][12]。化政期の戸数は上宝来村は15軒、下宝来村は62軒で、村の規模は上宝来村は東西20町、南北10町、下宝来村は東西3町、南北20町余であった[11][12][17][16]。 村名は新村を村立てた際、その前途を祝す意味を込めて名付けたという[11][12](瑞祥地名)。 荒川に近く東は大宮台地に挟まれた低地に属する地域で、享保・寛保・宝暦・明和・天明年間に大水が発生して田が冠水するなど[11]、古くから水害の常襲地帯であった[18]。 荒川の水防のための荒川水除堤が設けられていたが、台地縁から流入する水の排水の障害にもなり、悪水堀の開削や悪水吐圦樋(樋管)が水除堤に複数設けられていた[11][12]。
宝来村に存在していた小字
世帯数と人口2019年(平成31年)1月1日時点の世帯数と人口は、以下のとおりである[1]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下のとおりとなる[28]。
交通道路
バス指扇駅北口方面からの路線バスが運行されている。
地域寺社かつては旧下宝来村に享保期創設の天台宗明現寺もあった[12]。
公園・緑地
施設など地区の南部は指扇駅前に位置しており、その周辺を中心に多くの商業施設や民間施設が立地する。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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