山根巌
山根 巌(やまね いわお、1976年7月31日 - )は、広島県広島市出身の元プロサッカー選手。サッカー選手の山根永遠は実子。 来歴幼いころに小児喘息だったため体を鍛えるために小学5年からサッカーを始める[1] 二葉中を経て広島皆実高校を卒業し[注 2] 、1995年にサンフレッチェ広島に入団[注 3]。1997年、エディ・トムソン監督によって攻撃的MFとして評価され主力になる。が、翌1998年、同ポジションにアウレリオ・ヴィドマー、皆本勝弘、山口敏弘、大久保誠が加入。外国人監督とのコミュニケーション不足[2]もあって出場機会が激減。同年11月、当時広島と提携関係にあった旧JFL所属の大分トリニティへ期限付き移籍した[1]。 翌1999年にJリーグ ディビジョン2 (J2)が発足し大分が「大分トリニータ」としてJ2に参入すると、後に「最良の理解者」と呼べる関係となる[2]石崎信弘が監督に就任。大分では石崎の下で連日の猛練習でボール奪取能力が磨かれ選手として成長[2]。1999年・2000年と2年連続してJ1昇格にあと一歩と迫りながらも果たせないシーズンを過ごしたが[注 4]、2001年には大分に完全移籍。2002年シーズンは2001年シーズン途中で解任された石崎の後任として就任した小林伸二のもと、2002年11月2日の第41節・大宮アルディージャ戦(さいたま市大宮公園サッカー場)では自らのヘディングゴールで大分に悲願のJ1昇格をもたらした[1][2]。 だが「石崎さんをJ1に昇格させたい」との思いから、2003年には石崎が監督に就任していた当時J2所属の川崎フロンターレに移籍する[1][2]。結局この年の昇格は実現せず、石崎はシーズン後に川崎を辞任したが、翌2004年シーズンには関塚隆監督の元で、9月26日にJ1昇格、10月2日に優勝を決めた[注 5]。 2005年末に川崎を戦力外になり引退を決意[2]。広島のサッカースクールに就職する予定だったが、この年J2に降格した柏レイソルの監督に就任した石崎に誘われ[2]、周囲の後押しもあって柏へ移籍して現役を続行[3]。2006年、シーズン当初からボランチの不動のレギュラーとして活躍し、48試合中45試合に出場し完全復活[注 6]、チームはJ1に1年で復帰する。この年、かつて川崎でも一緒だったチームメイトの岡山一成とともに「石さんをJ1にあげよう」を合言葉に、3度目の正直で石崎をJ1にあげ、個人の目標も達成した。2008年は開幕直後に脚の肉離れを起こすなど1年を通してケガに泣かされる。同シーズン限りで石崎は辞任しJ2に降格したコンサドーレ札幌へ移ったが、山根は柏に残留した[注 7]。柏では仮面ライダーの主題歌「レッツゴー!! ライダーキック」を元にした応援コールを受けた。 2010年はJFLに昇格したばかりのツエーゲン金沢に移籍[4][注 8]。JFLへの移籍は抵抗感があったというが、広島時代の同期・久保竜彦の存在が決め手となったという[5]。2011年はコーチ兼任となり指導者としても昇格請負人としてJ2への昇格を目指したが、チーム事情もあって指導者としての手腕を満足に発揮出来ず[5]、同シーズン終了後に契約満了による退団が発表された[6]。 2012年2月に現役引退を正式発表[7]。千葉県で明光ネットワークジャパンの運営するサッカースクールの指導者として活動していた[8][9]。 2016年に金沢時代の恩師・上野展裕が監督を務め、同年にJ2に昇格したレノファ山口FCのコーチに就任した[10]。 2017年4月から12月まで柳本啓成が代表を務めるヤナギフィールドにてYF NARA TESOROのU-15の監督に就任。その年の高円宮杯奈良県予選では準優勝に導いた。 所属クラブ
個人成績
指導歴
脚注
参考資料
関連項目外部リンク
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