久保 竜彦(くぼ たつひこ、1976年6月18日 - )は、福岡県朝倉郡筑前町出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。元日本代表。
人物
高い跳躍力とスピードを持つフォワード[3]。
派手なプレースタイルとは裏腹に試合中以外は基本的に寡黙・謙虚で、どんな質問でも「よかったです」「嬉しかったです」などと答えることが多くインタビュアー泣かせだが、知名度が上昇するにつれ、その朴訥としたキャラクターも周囲に認知され人気の一因となった[4]。
家族は妻との間に二女がいる[5]。長女の久保柚季もサッカー選手で、日本女子サッカーリーグのアンジュヴィオレ広島に在籍経験がある。次女の久保杏夏はテニスプレイヤーである。
来歴
プロ入り前
地元筑前町で幼い頃から自然と遊びの中で野球をしており、ショートやサードを守っていた右打者だった[6]。読売ジャイアンツのファンで、篠塚和典の守備センスに憧れていた[6]。
小学3年生の時、遊具で遊んでいた最中に小指を骨折してしまったことが転機となった[6]。グラブをはめられないことから、小学校4年生[4][7] の時サッカーをやり始めるとハマり、野球を辞め本格的にのめり込んでいった[6]。当時からの同級生に大場啓[8]。中学入学後もサッカーを続けたが、当時の久保に誰もサッカーの基礎を教えなかった[6]。1992年、吉浦茂和の指導力の評判を聞きつけ、大場と共に筑陽学園高校へ入学する[6]。吉浦は久保の今後を思いその潜在能力を潰さないよう、最低限の技術や戦術を指導した[6][9]。高校当時のポジションは左MF[4]。1993年高校2年の時にJリーグが開幕し、当時はラモス瑠偉に憧れた[4]。同高校2年の時、高校選手権福岡県決勝に進出するも、小島宏美や山下芳輝らを擁する東福岡高校に敗れている[6]。個人としては、高校2年時と3年時に福岡県選抜として国体に出場したことが唯一の全国大会での成績である[6][7]。
高校卒業後もサッカーを続けるつもりだった[8]。大学からオファーがあったものの家庭の財政状況から進学を諦め就職するつもりだったが、より高いレベルで続けさせたい吉浦の強い薦めにより同級生である大場と共にサンフレッチェ広島F.Cのテストを受ける[8][9]。全国的に無名な久保にはJリーグチームのどこからもオファーがなく、吉浦と広島の中村重和スカウトが知り合い[注 1]だったことからテストを受ける運びとなった[8]。
サンフレッチェ広島
1995年、広島へ加入[注 2]。加入当初MF登録であったが1年目に河内勝幸サテライトチーム監督にFWへコンバートされる[8]。2年目、ビム・ヤンセンはエースFWの高木琢也の控えFWとして、あるいは久保をトップ下に入れて同時起用した。黄金世代の1世代上で年代別代表経験のない久保は無名な存在だったが、一部関係者にはこのころから評価されていた[10]。
1996年4月3日、リーグ第5節の清水エスパルス戦で90分からピーター・ハウストラとの交代で公式戦初出場[11][12]。同年6月15日のJリーグカップ、ガンバ大阪戦で公式戦初ゴールを決めると[11]、10月2日、第22節のセレッソ大阪戦では76分からの途中出場でリーグ戦初ゴールを含む2ゴールを記録した[11][13]。
1997年、広島の監督がエディ・トムソンに替わると高木の怪我による欠場もあり、レギュラーを掴みかける[8]。若手時代、久保のピッチ外の生活態度が良くなく、これを心配した総監督の今西和男に結婚を勧められ、同年7月に当時付き合っていた高校の同級生と結婚する[8]。
1998年、高木が移籍すると広島のエースとして定着する。2001年、ヴァレリー・ニポムニシが目指した攻撃サッカーでは中心選手として活躍[14]、公式戦全試合に出場している。
2002年末、広島はJ2に降格し、移籍を決意する。この際横浜F・マリノス・FC東京・東京ヴェルディ1969・大分トリニータ・ジュビロ磐田・名古屋グランパスエイトが獲得に乗り出す[15] も、完全移籍前提での話となったことから横浜FMと磐田に絞られた[16]。
横浜F・マリノス
2003年、横浜F・マリノスへ移籍[17]。一気にブレイク、Jリーグにおいて群を抜く攻撃力を示し年間優勝に貢献し、日本年間最優秀選手賞受賞。2年目の2004年からはタイトなスケジュールのせいもあって怪我に泣かされ、コンディションを崩し、安貞桓にスタメンを譲る機会が多かった。要所で活躍し、存在感を示したがシーズン終盤は腰痛の悪化でサントリーチャンピオンシップなどは欠場した。2005年後半には徐々に体調も良くなり、リーグ公式戦や天皇杯に出場、クラブではリーグ戦10試合出場で2005年シーズンを終えた。[3][9]
日本代表
1998年、フィリップ・トルシエがサッカー日本代表監督に就任するとその初試合となる同年10月の対エジプト戦に初選出初キャップを飾り、以降もアジアカップなど度々選出された[18] が、ゴールを決める事はできなかった。
2002年、2002 FIFAワールドカップを控えた5月に、高原直泰と西澤明訓の離脱[19] に伴い欧州遠征メンバーに入り、本大会出場の可能性も残したが、限られた出場機会ではアピールが伴わず、14試合無得点のままW杯メンバーから外れた。
のちに、トルシエの性格や指導法が嫌で、仮病で代表合宿を断るなどしていた事を明かした。
2003年、ジーコ代表監督のもと代表復帰。序列では下位の控えのFWだったが、2004年2月18日の2006 FIFAワールドカップ・アジア予選のオマーン戦で途中出場すると、引き分け濃厚な後半ロスタイムに勝ち越しゴールを奪い勝利に貢献[3][9]。ところがこの時の鹿島での代表合宿中に、小笠原満男に連れられ8人で無断外出が発覚、ジーコの逆鱗に触れ次の召集から外されることとなった[20]。それでも無断外出をした8名の中ではいち早く復帰を許され、同年4月の欧州遠征にメンバー入りするとハンガリー戦とチェコ戦、翌月のアイスランド戦で、3試合連続となる計4得点を決め一気にジーコの信頼を獲得。代表のエースFWとして起用されるようになると、約1年間で12試合8得点という結果を残した。しかしその後腰痛が悪化し、プレーに支障をきたすためリハビリを行うことになり、アジアカップやW杯アジア最終予選を回避するなど長期離脱を余儀なくされた。
2006年になると再び招集されるものの、慢性的な腰痛・足首痛で体調は万全とは言えなかった[21]。ジーコ体制では18試合出場でチーム最多の11ゴールという結果を残し、ジーコもW杯に向けた世界へのコメントで「久保と言うストライカーに注目して欲しい」と発信するなど、エースとして期待を集めていたものの、持病の腰痛はついに改善されず本大会メンバーから落選。代わりに土壇場の強化試合で勝負強さを見せた巻誠一郎が選ばれた[22]。以降代表に選出される事は二度となかった。
現役晩年
2007年、奥大介が横浜FMを退団し横浜FCへ移籍。久保には横浜FMからの残留要請があったもののこれを拒否し、奥と行動を共にする形で横浜FCへ移籍した[23]。前年のW杯を怪我で棒に振った事を惜しむ声が多い中で迎えた浦和レッズとの開幕戦で、度肝を抜く超ロングシュートを決め、久保待望論を大きくさせた。またこのゴールの際に見せた喜びの舞が『ひょっとこダンス』と話題になる。しかしこの活躍は単発的なものに過ぎず、シーズン通じて怪我が多く、リーグ戦は序盤の8試合に出場したのみで、得点もその1点のみに終わり、シーズン終了後、戦力外通告を受ける[24]。またこの1点は結果的に、久保がJ1で決めた最後のゴールとなった。
2008年、古巣・広島へ6年ぶりに復帰[注 3]。体調は万全ではなく、出場した試合全てが途中出場だったものの、要所で活躍しJ1昇格に貢献した。翌2009年は公式戦2試合途中出場したのみで、チームの若返り方針や李忠成の補強に伴い、戦力外通告を受ける[25]。
2010年、ツエーゲン金沢へ完全移籍した[1]。広島時代のコーチだった上野展裕が監督に就任しており早い段階からオファーを受けていたことと、出場機会を得たかったための移籍だった[26]。主力として活躍するも2年連続でJ2昇格が叶わず上野は監督を退任、久保も構想外となった[27]。
金沢退団後は移籍先を探し、JFL、県地域リーグ、タイのクラブなどからオファーがあったものの、現役引退を決断した[28]。
廿日市FC・その後
引退後のあいさつ回りをする中で今西の斡旋により、2012年広島県廿日市市にある特定非営利活動法人廿日市スポーツクラブのストライカー養成コーチ、およびアンバサダー(スポーツ親善大使)に就任した[29][30]。また同年にはスポーツ振興くじ(toto)と陶器メーカー・TOTOとのコラボによるCM「トートートトト」に出演している[31]。
2013年3月28日、当時広島県社会人サッカーリーグ1部に所属する廿日市FCで現役復帰したが、2015年シーズンをもって現役からは退き、広島県内各地で巡回指導を行っている[32]。
2018年に「都会暮らしになじめなかった」「景色が気に入った」との理由で山口県光市室積に移住[33][34][35]。室積でカフェを開き、牛島の塩を使った塩コーヒーを淹れている。なお、久保自身も牛島で塩づくりをしていたが、COVID-19パンデミックのために渡船を控えている状況とのことである[35][36]。
評価
- まだルーキーでトップチームの試合出場が1試合も無かったにも関わらず、当時チームメートのハウストラは久保を高く評価していた。
前の試合で、彼は素晴らしいプレーを見せてくれました。彼こそ日本サッカー界の宝石。日本のファンは、彼という存在を持った事を幸せに思うでしょう。 — 柏レイソル監督・ニカノール、1996年、[10]
- 1996年6月26日ヤマザキナビスコカップ第4節第2試合対柏レイソル戦にて、試合後ニカノールは記者会見で誰も質問していないのにこうコメントした。当時二十歳の久保は第1試合には出場したがこの第2試合には出場していない。[10]
久保も面白い武器。彼の自己表現のなさの謎がようやく解けた。それは彼は1230年に生まれて、ずっと冷凍されて、ある日突然見つけられました。だからまだ現代文明のコミュニケーションに慣れていないんです(笑)。 — 日本代表監督 フィリップ・トルシエ、2002年、[38]
- 2002年3月27日のポーランド代表との親善試合後、トルシエにより代表に召集されて4年目でのコメント。
タカ( 高原直泰)は90分間で勝負するFW。それに対してクボは、一瞬で何かを起こすタイプだ。スピードがあり、空中戦に強い。間違いなく日本でトップレベルのFWだと思う。 — チェコ代表DFトマーシュ・ウイファルシ、2004年、[3]
- 2004年4月28日親善試合対サッカーチェコ代表が行われ、久保のゴールで日本が勝利した。ハンブルガーSVで高原とチームメイトだったウイファルシはその試合で久保のマークを担当した。
FWでも、日本人同士ではそんなに差がないと思うんですよ。(中略)。でも、突出しているのは久保さんぐらいで、あとはそんなに変わらないと思うんです。 — ガンバ大阪FW:大黒将志、2004年、[39]
- 大黒はこの時点では日本代表に呼ばれておらず、翌2005年久保が怪我で欠場していた中で大黒は日本代表で結果を出し、2006年W杯出場メンバーとなる。
ワールドカップのメンバーを23人に絞り込むのは、本当に大変な作業だった。連れていきたい選手は、もっとたくさんいたからね。ワールドカップで見てみたい選手もいた。たとえば久保だ。彼の左足は、大げさでなくワールドクラスだよ — 日本代表監督:ジーコ、2006年、[40]
- 2006年のドイツ・ワールドカップで日本は1分け2敗でグループリーグ敗退に終わり、ジーコは日本代表監督を退任したフェネルバフチェの監督となった。戸塚啓がトルコのイスタンブールへ彼を訪ねると、ジーコの方から久保に話題を向けてきたという[40]。
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
1995 |
広島 |
- |
J |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0
|
1996 |
22 |
2 |
10 |
4 |
3 |
0 |
35 |
6
|
1997 |
10 |
22 |
7 |
5 |
1 |
2 |
0 |
29 |
8
|
1998 |
32 |
12 |
3 |
0 |
3 |
2 |
38 |
14
|
1999 |
J1 |
25 |
13 |
4 |
1 |
0 |
0 |
29 |
14
|
2000 |
24 |
11 |
3 |
0 |
2 |
1 |
29 |
12
|
2001 |
30 |
15 |
6 |
4 |
2 |
0 |
38 |
19
|
2002 |
28 |
7 |
0 |
0 |
4 |
2 |
32 |
9
|
2003 |
横浜FM |
9 |
25 |
16 |
4 |
0 |
2 |
1 |
31 |
17
|
2004 |
19 |
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
19 |
4
|
2005 |
10 |
1 |
1 |
0 |
2 |
4 |
13 |
5
|
2006 |
29 |
5 |
4 |
3 |
2 |
1 |
35 |
9
|
2007 |
横浜FC |
8 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
9 |
1
|
2008 |
広島 |
39 |
J2 |
25 |
3 |
- |
2 |
1 |
27 |
4
|
2009 |
J1 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0
|
2010 |
金沢 |
9 |
JFL |
27 |
9 |
- |
2 |
0 |
29 |
9
|
2011 |
23 |
6 |
- |
2 |
0 |
25 |
6
|
2013 |
廿日市 |
広島県1部 |
|
|
- |
|
|
|
|
2014 |
|
|
- |
|
|
|
|
通算 |
日本 |
J1
|
276 |
94 |
41 |
13 |
22 |
11 |
339 |
118
|
日本 |
J2
|
25 |
3 |
- |
2 |
1 |
27 |
4
|
日本 |
JFL
|
50 |
15 |
- |
4 |
0 |
54 |
15
|
日本 |
広島県1部
|
|
|
- |
|
|
|
|
総通算
|
351 |
112 |
41 |
13 |
28 |
12 |
420 |
137
|
その他の公式戦
その他の国際公式戦
代表歴
- 代表初出場 1998年10月28日 対エジプト戦 (親善試合・途中出場)[2]
- 代表初得点 2003年12月4日 対中国戦 (東アジア選手権)[2]
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 32試合 11得点 (1998年 - 2006年)[2]
出場
ゴール
個人タイトル
脚注
- 注釈
- ^ 1982年、双方ともJSL選抜(日本B代表)に選ばれている。
- ^ 同期は大木勉、山根巌、吉村光示、西田吉洋、萩野英明、三浦和俊、水田月満、玉田真人
- ^ 完全移籍で広島を退団してもう一度加入した2人目の選手。ちなみに、完全移籍で退団した選手が再加入した初のケースは上野優作(01年完全移籍・06年のレンタル移籍を経て07年完全移籍)。
- 出典
参考資料
- 中野和也「'08復帰、加入、新戦力の9人」『ASSIST』、産興(Tj HIROSHIMA編集室)、2008年5月、6-9頁、2012年4月7日閲覧。
- 中野和也「あの頃、僕は」『ASSIST』、産興(Tj HIROSHIMA編集室)、2008年12月、31-34頁、2012年4月7日閲覧。
関連項目
外部リンク
受賞歴 |
---|
|
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
J1 |
1990年代 |
- 93: 三浦知良, ディアス
- 94: 武田修宏, 高木琢也
- 95: 福田正博, 三浦知良, ストイコビッチ, 森島寛晃
- 96: 三浦知良, ストイコビッチ, 岡野雅行
- 97: 中山雅史, エムボマ
- 98: 中山雅史, 柳沢敦
- 99: ストイコビッチ, 黄善洪
|
---|
2000年代 |
- 00: ツゥット, 中山雅史, 西澤明訓
- 01: ウィル, 柳沢敦
- 02: エメルソン, 高原直泰, 中山雅史
- 03: エメルソン, ウェズレイ, 久保竜彦
- 04: エメルソン, マルケス, 大黒将志
- 05: アラウージョ, 佐藤寿人
- 06: ワシントン, マグノ・アウベス
- 07: ジュニーニョ, バレー
- 08: マルキーニョス, 柳沢敦
- 09: 岡崎慎司, 前田遼一
|
---|
2010年代 |
- 10: 前田遼一, ケネディ
- 11: ケネディ, ハーフナー・マイク
- 12: ウイルソン, 佐藤寿人, 豊田陽平
- 13: 大迫勇也, 大久保嘉人, 川又堅碁
- 14: 大久保嘉人, 宇佐美貴史, パトリック
- 15: 大久保嘉人, 宇佐美貴史, ドウグラス
- 16: 小林悠, レアンドロ
- 17: 興梠慎三, 小林悠, 杉本健勇
- 18: ジョー, ファン・ウィジョ
- 19: ディエゴ・オリヴェイラ, 永井謙佑, 仲川輝人, マルコス・ジュニオール
|
---|
2020年代 |
- 20: エヴェラウド, オルンガ
- 21: 旗手怜央, レアンドロ・ダミアン, 前田大然
- 22: チアゴ・サンタナ, エウベル, マルシーニョ
- 23: アンデルソン・ロペス, 大迫勇也, 武藤嘉紀
- 24: アンデルソン・ロペス, 大迫勇也, 武藤嘉紀, 宇佐美貴史, 知念慶
|
---|
|
---|
J2 |
|
---|
J3 |
|
---|
ベストイレブン(GK - DF - MF - FW) - JCB |
|
---|
1993年から2022年までの30年間での選出 (2023年にJリーグ誕生30周年を記念した企画) ※太字はMVP受賞者 | ベストイレブン |
|
---|
ベストマッチ | |
---|
ベストゴール |
ボレー/オーバーヘッド部門 | |
---|
テクニカル部門 | |
---|
ミドル/ロングシュート部門 | |
---|
フリーキック部門 | |
---|
ヘディングシュート部門 | |
---|
その他部門 | |
---|
|
---|
ベストシーン | |
---|
ベストイレブン(GK - DF - MF - FW) - JCB |
|
---|
1 - 10,000 |
- 1 マイヤー 1993.5.15
- 100 松波正信 1993.6.9
- 500 水沼貴史 1993.12.1
- 1,000 メディナベージョ 1994.8.17
- 1,500 城彰二 1995.4.5
- 2,000 エジソン 1995.8.12
- 2,500 江尻篤彦 1995.11.15
- 3,000 三浦泰年 1996.8.28
- 3,500 高木琢也 1997.5.3
- 4,000 横山貴之 1997.8.23
- 4,500 レディアコフ 1998.4.25
- 5,000 バジーリオ 1998.9.23
- 5,500 佐藤一樹 1999.4.24
- 6,000 鈴木秀人 1999.11.7
- 6,500 長谷川祥之 2000.7.1
- 7,000 久保竜彦 2001.5.12
- 7,500 久保山由清 2001.11.3
- 8,000 崔龍洙 2002.9.14
- 8,500 ヴァスティッチ 2003.5.18
- 9,000 斎藤大輔 2004.3.13
- 9,500 安貞桓 2004.9.23
- 10,000 前田雅文 2005.5.8
|
---|
10,500 - 20,000 |
- 10,500 今野泰幸 2005.11.12
- 11,000 アンドレ 2006.7.23
- 11,500 田中佑昌 2006.11.18
- 12,000 ウェズレイ 2007.6.23
- 12,500 マルキーニョス 2008.3.16
- 13,000 巻誠一郎 2008.9.14
- 13,500 鄭大世 2009.5.10
- 14,000 中山博貴 2009.11.28
- 14,500 赤嶺真吾 2010.8.22
- 15,000 辻尾真二 2011.5.22
- 15,500 ラフィーニャ 2011.9.18
- 16,000 藤田直之 2012.5.25
- 16,500 永井謙佑 2012.11.17
- 17,000 鈴木大輔 2013.7.17
- 17,500 家長昭博 2014.3.15
- 18,000 興梠慎三 2014.9.23
- 18,500 塩谷司 2015.5.23
- 19,000 高山薫 2015.11.7
- 19,500 遠藤康 2016.7.17
- 20,000 金子翔太 2017.4.21
|
---|
20,500 - 30,000 |
- 20,500 エウシーニョ 2017.9.30
- 21,000 齊藤未月 2018.7.22
- 21,500 興梠慎三 2019.3.9
- 22,000 遠藤渓太 2019.8.24
- 22,500 野上結貴 2020.8.19
- 23,000 ジェイ 2020.11.21
- 23,500 レアンドロ・ダミアン 2021.5.26
- 24,000 ミラン・トゥチッチ 2021.11.27
- 24,500 森島司 2022.7.17
- 25,000 森島司 2023.4.22
- 25,500 植中朝日 2023.10.21
- 26,000 アンデルソン・ロペス 2024.5.29
- 26,500 寺山翼 2024.11.3
- 27,000 菊地泰智 2025.5.31
|
---|
得点王(J1 - J2 - J3) - 記念ゴール(J1 - J2 - J3) |
|
|