川口冬弥
川口 冬弥(かわぐち とうや、1999年10月26日 - )は、奈良県生駒郡三郷町出身[2]のプロ野球選手(投手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 経歴プロ入り前三郷町立三郷中学校時代は硬式野球チームの『香芝ボーイズ』に所属[2]。東海大学菅生高校では3年間で一度も背番号をもらえなかった[3]。 城西国際大学へ進学し、高校時代は最速130km/h程度であったが[3]、2年間で筋肉量を10kg増やし、3年時には145km/h前後を計測[4]。ただ、右肘の故障に苦しみ、リーグ戦で登板したのは4年時からであった。当時通っていたスポーツジムで、社会人野球のクラブチーム・ハナマウイの中山慎太郎投手コーチと偶然知り合い[3]、中山は「『野球を続けたいんですが進路が決まっていないんです』と話してくれた。こちらがハナマウイ関係者ということを伝えると、『興味ある』ということだったので連絡先を交換しました」「どんな投手か気になったのでスマホの動画サイトで調べました。投球フォームがバラバラなのに球速145km/hをコンスタントに出していました。すぐに本西厚博監督(当時)に連絡して、練習参加して入団という流れになりました」と当時を振り返り[5]、川口は大学卒業後同チームへ入団した。大学時代の最速は150km/h[6]。 ハナマウイでは入団2年目(2023年)の7月に開催された一関市長旗争奪クラブ野球大会で決勝戦に先発し、7回3失点と好投[7]。チームは同大会初優勝を果たし[8]、川口は最高殊勲選手賞に輝いた[7]。また、10月に開催された関東連盟クラブ選手権大会では2試合に先発登板し、いずれも完投勝利[9][10]。チームは同大会初優勝を果たし[10]、川口は最高殊勲選手賞に輝いた[11]。エースとして活躍していたが、NPB入りを目指し[6]、12月4日に徳島インディゴソックス(四国アイランドリーグplus)の特別合格選手として発表された[12]。背番号は13[13]。 四国IL・徳島時代2024年、前期はクローザーを務め、救援失敗は一度もなく7セーブを記録[14]。ただ、NPB三軍との試合では結果を残せず[15]、NPBスカウトに即戦力として見てほしいという想いから[14]、後期は先発へ転向して3勝を挙げた[16]。この年は29試合(5先発)の登板で3勝0敗2ホールド7セーブ・防御率1.37と好成績を収め[17]、最優秀防御率と最多セーブのタイトルを獲得し[18]、チームの前後期優勝に貢献した[3]。 ソフトバンク時代2024年10月24日に開催されたNPBドラフト会議にて、福岡ソフトバンクホークスから育成6位指名を受けた[2][注 1]。11月8日には支度金300万円・年俸440万円(いずれも金額は推定)で仮契約を締結[1]。12月8日に背番号が132と発表された[19]。 2025年、二軍で16試合登板、防御率0.98、3セーブと好成績を残し6月20日に支配下登録されたことが発表された。背番号は95となった[20]。初登板から5登板連続で無失点を継続していたが、7月17日、対ロッテ14回戦(北九州市民球場)で2-2の6回表に3番手で登板した際、上田希由翔にプロ初となる2点本塁打を浴びるなど4失点を喫し降板、しかしその後イニング成立前に試合が降雨コールドとなったため、失点は記録に残らず幻となった[21]。翌18日、出場選手登録抹消となる[22]。 選手としての特徴投球フォームは、時計の文字盤でいえば“11時”の角度から振り下ろすオーバースロー[4]。 最速155km/hのストレート、スライダー、2種類を投げ分けるフォークを武器[16]に三振が奪えるピッチャーである[15]。持ち球はその他にカーブ、チェンジアップがある[15]。 詳細情報記録初記録
独立リーグでの投手成績出典は四国アイランドリーグplusデータサイト[17]。
独立リーグでのタイトル・表彰
背番号登場曲脚注注釈出典
関連項目外部リンク |
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