拉孟・騰越の戦い
拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。すでに南部を占領していた日本の部隊は援蔣ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援蔣ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な装備を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、日本軍は補給路を断たれ孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しい戦闘として知られる。しかし、中国軍も陣地に立てこもる日本軍の防御戦闘により日本軍の数倍の死傷者を出した。 経緯1942年にビルマに侵攻した日本軍はビルマ・中国国境を越えて雲南省に侵攻した。5月5日 第56師団坂口支隊(歩兵団長:坂口静夫少将)、拉孟を占領。同師団の第113連隊が警備についた。中国軍は日本軍の追撃を避けるため、援蔣ルートの一部である恵通橋を自ら爆破し、怒江の対岸へ退却した。5月10日には騰越を占領し、第148連隊(連隊長:蔵重康美大佐)が警備についた。 以後2年間怒江を挟んでの日本軍と中国軍の対峙が続いた。 その頃アメリカの中国戦略をめぐっては連合国東南アジア軍副最高司令官のジョセフ・スティルウェル陸軍中将とアメリカ陸軍航空軍第14空軍司令官のクレア・リー・シェンノート中将とが対立していた。シェンノートは、中国戦線に戦力を集中すれば制空権確保は可能であると主張した。戦力をビルマへ割くのを渋っていた蔣介石もこれを支持した。しかし、中国戦線での日本軍航空部隊との戦いはシェンノートの主張するようには進展しなかった。 一方スティルウェルは、援蔣ルートはヒマラヤ山脈周辺の変化の激しい天候に左右される空輸ルートだけでは輸送量に限界があるとして、北部の上ビルマを日本軍から奪回し、インドのアッサム州レドから国境を越えてビルマのカチン州に入り、フーコン河谷からミイトキーナ、ナンカンに至る「スティルウェル・ロード」と、ナンカンから龍陵を経由し昆明へと至るビルマ公路を接続した、「レド公路」を早期に打通すべきと主張した。 スティルウェルはビルマからインドに退却してきた中国軍部隊にハンプ越え(ヒマラヤ越えの航空路)で空輸された中国兵を加えて、ビハール州(2000年、ジャールカンド州に分割された)のラムガルー野営地で「新編第1軍」を編成した。軍司令官にははじめ鄭洞国、後に孫立人が任命された。中国国内でも昆明に訓練所が設置された。 ハンプ越えの航空路は過酷で、当時の与圧されていない輸送機では凍死者が発生した他、日本軍戦闘機の襲撃もあった。また戦局が悪化すると十代前半の少年兵が送られてきた。 ![]() もっとも蔣介石は中国本土での日本軍の反攻の兆候(大陸打通作戦)と中国共産党への対処からなどからビルマへの再出兵に反対だったがフランクリン・ルーズベルトによる「中国はこのところ対日戦で重要な貢献をしていない」という指摘と、中国軍は雲南方面での攻勢を実施するべきであり、そうでなければ中国軍への貸与機や空輸輸送の割り当てを減らすとの通告により実施されることになった[1]。 ビルマ戦線における中国軍の反攻はアラカン山系における日本軍の反攻(インパール作戦)による間接的な影響で1944年の夏までずれこんだ[2]。 スティルウェルは中国軍の各部隊にアメリカ軍の連絡チームを付ける方法を採用した。 雲南遠征軍の大部隊は5月11日に第一次反抗を開始し、大塘子及び冷水溝(拉孟の北、騰越の東)において歩兵113連隊(連隊長:松井秀治大佐)と歩兵148連隊(連隊長:蔵重康美大佐)などと激戦を繰り広げた。 第一次反抗がうまくいかなかったため、雲南遠征軍は6月に第二次反抗を開始し、拉孟、騰越や龍陵へ進出した。 レド公路にしろ旧来のビルマルートにしろ、拉孟・騰越を通過しなければならなかった。 時系列
ビルマ方面軍作戦区域![]() 1944年4月ごろのビルマ方面軍の編成表
連合軍の編成この戦いにおいて中国軍はこれまで温存していた精鋭部隊である栄誉師団や新編師団を投入した。 少年兵が多かったという。 拉孟の戦い→「怒江の戦い」も参照
![]() 兵要地誌及び両軍の配備兵力拉孟は中国名を「松山」といって無名の廃村である。拉孟は怒江の西岸にあり、恵通橋を眼下に見下ろす海抜2000メートルの山上にある。東は怒江の大峡谷を挟んで対岸の鉢巻山と相対し、北方および南方は怒江の二つの支流の深い渓谷に挟まれている。西方のみがビルマ行路に沿って龍陵に通じていた。気候は内地に似て四季の変化に富んでおり、とくに秋は美しかった。 1942年5月に同地を占領した第56師団は、その隷下の歩兵第113連隊(連隊長:松井秀治大佐)の指揮のもと、歩兵1個大隊・砲兵1個大隊の兵力で陣地構築にとりかかり、堅固な防衛陣地を築き上げた。1943年中期以降、雲南遠征軍の反攻準備が進展すると、空陸から拉孟陣地を攻撃するようになり、守備隊はそれに反撃しつつ約100日分の武器弾薬食料の集積に努めた。また軍属によって酒などの嗜好品を売る店舗が開設された。 1944年3月に雲南遠征軍の一部が拉孟北方の大廉子で怒江を渡河し、反攻してきた。松井大佐は2個大隊に砲工兵の一部を率いて紅木樹方面(拉孟北方)に出撃し、怒江の水際でこれを破った。また歩兵第2大隊長は部隊を率いて平戛(へいかつ、拉孟より40キロ南)へ出撃した。その後もミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃滅など各地を転戦し、6月5日、騰越に全部隊が集結した。松井大佐は結局、拉孟に復帰することはなかった。それより3日前にジョセフ・スティルウェル米陸軍中将が再建した20万の中国軍(雲南遠征軍・指揮衛立煌将軍)の一部4万8千名が拉孟を包囲した。残りは騰越、龍陵、平戛に向かった。対する拉孟守備隊の兵力はわずか1280名であった。拉孟守備隊は野砲兵第56連隊第3大隊長金光恵次郎少佐が指揮した。 ![]() 戦いの経過当初、拉孟守備隊の主力である歩兵第113連隊は、2800名ほどいた。ところが3か月前に拉孟北方に現れた敵軍のために兵力を割かなければならなかったなどしたため、雲南遠征軍が包囲したときにはその半分にも満たなかったのである。そのときの守備隊の陣容は次のとおりである。
負傷した兵を除くと、まともに戦える戦闘員は実質1000名に満たなかったが、福岡県出身の現役兵を中心とする56師団は通称「龍兵団」と呼ばれ、同じく福岡県の第18師団「菊兵団」と並び、日本軍最強とも言われた部隊であった。一方、拉孟を包囲した敵戦力は、蔣介石の直系栄与第1師団(日本の近衞師団に相当)を中心とする5個師団。この軍は、新式装備・兵の質もきわめて優秀な精鋭部隊であった。
敵対比率は50倍以上も開きがあったにもかかわらず、拉孟守備隊は死守を命じられ、100日間も粘り強く戦闘が行われたのである。 玉砕
9月7日をもって全戦闘は終結した。1300名の兵力のうち、残存兵力はゼロ、すなわち玉砕であった。中国軍の捕虜となった傷病者と、本隊への連絡のために軍命によって拉孟を脱出した者が、わずかながら生還している[4]。 一方の中国軍も日本軍の数倍の死傷者を出した。拉孟の戦いについて9月9日に蔣介石は次のような"逆感状"をもって雲南軍を叱咤激励した。
拉孟が陥落する直前の6日、真鍋大尉は戦闘詳細報告のために木下昌己中尉ら3人の部下を脱出させていた(別にほか一名が脱出)。彼らは地元民に変装し16日に無事、第33軍本部のある芒市に辿り着き、第49師団の第168連隊(連隊長:吉田四郎大佐)と会い、翌17日に33軍司令部へと向かい、道中、松井大佐と出会った。松井大佐はそこで拉孟守備隊の悲壮な末路を聞き、涙したという。 断作戦→詳細は「断作戦」を参照
北ビルマでの援蔣ルート打通を目指し、インドからは中国軍の新編第一軍を中心とした連合国軍X部隊が、中国からは中国軍雲南遠征軍(Y部隊)が前進を続けていた。 日本軍はフーコン地区で第18師団がX部隊を、雲南で第56師団がY部隊を食い止めていた。 日本軍はフーコン地区から第18師団を撤収させ、雲南に戦力を集中させる『断作戦』を行った。 7月に計画された作戦の準備は9月までずれ込み、発動した頃には拉孟・騰越の守備隊は絶望的な状況になっていた。 騰越の戦い→「騰衝の戦い」も参照
序章騰越(現在の騰衝)は最前線の拉孟から北東60キロ地点にある。騰越は、雲南省怒江西地区随一の都会で、騰越平野のほぼ中央にある。人口4万、周囲に城壁をめぐらした城郭都市で、1630年に、政緬軍の将軍が築いたといわれる。城壁は周囲約4キロ、ほぼ正方形で、高さ5メートル、幅2メートル、外側は石、内側は積土によって重ねてあった。周囲は高地に囲まれ、東には高黎貢山山脈を縦走し、怒江に架かる2つの橋を渡って、保山、昆明へと続いていた。西方には穀倉地帯が広がり、北ビルマのミイトキーナをへて、インドに通じていた。 気候は、比較的温暖。住民は、漢民族、タイ人、シャン人などが占められていた。 市街の周囲には、3キロほどの平地を隔てて、独立した高地があった。北方には高良山、北東2キロに飛鳳山、南方2キロに標高200メートルの来鳳山、西方4キロに宝鳳山である。これらの高地からは、騰越はまる見えであり、騰越防衛のためには、これら周囲の高地をも防衛しなければならなかった。これらを防衛するためには少なくとも3個連隊ほどの兵力(約7000名)が必要であったが、実際、防衛したのは2千名であった。騰越を防衛した指揮官は蔵重康美大佐だが、本来ならば上司の水上源蔵少将がその役目であった。水上は昭和18年6月に『龍』の歩兵団長に任命され、その後騰越へやってきた。前任の坂口静夫少将は中将に進級し、留守第55師団長として転出した。水上は猛将といわれた坂口少将と違って軍人というより学者肌の静かな将軍であった。それからまもなく、拉孟、ナムカム付近(龍陵から南西100キロ地点)に降下した英軍空挺部隊掃討のため、水上は騰越を後にした。その留守を部下の蔵重大佐に託した。水上は、「騰越こそ自分の墓場である」と語ったが、実際に彼が戦死した場所は、騰越から北西にいったミイトキーナ(現在のミッチーナー)であった。 戦いの経過6月22日、蔵重大佐は兵力を次のように配置した。
ところがその2日後に、第56師団司令部から宮原少佐の第3大隊を抽出するよう命じてきた。蔵重大佐はこのままでは、騰越防衛のメドが立たないと思ったが、師団の苦しい立場を考え、これを受け入れた。結局、蔵重大佐は飛鳳山陣地を放棄して陣地配備を変更した。当時の守備隊兵力は、
の計2025名であった。一方、対する雲南遠征軍の兵力は49,600名であった。兵力差は実に25倍であったが、騰越守備隊は2か月以上も騰越を死守したのである。
雲南遠征軍は、騰越前面に予備第2師、第36師、第198師、第130師の4個師団。また第116師が、騰越南方を遮断し、龍陵への道路を遮断した。これにより騰越は完全にとりかこまれてしまった。
7月27日以降、騰越守備隊は騰越城に籠って、9月13日の玉砕するまで戦いを続けた 兵力の配置と防御施設城内の防御に移った蔵重大佐は、次のように兵力を配備させた。
また、次のような防御施設や施策をおこなった。
玉砕
この戦いによる中国遠征軍の損害は、総勢21万2500人中 死傷6万3000人(全滅した二個師団を含む数個師団が戦力喪失)であった。 その後拉孟・騰越の戦いの結果、中国軍は怒江対岸に進出することができた。一方で雲南省の日本軍は龍陵などで抗戦を続けた。 ビルマ・インドの連合国軍が雲南省の中国軍と陸路で合流するのは1945年のことである。 評価この時期、中国本土では豫湘桂会戦によって中国軍は大敗北を重ねており、よって拉孟・騰越の戦いとミイトキーナの戦いは中国軍にとって貴重な勝利となった。 日本軍はその後も断作戦を継続していくことになる。 参考文献
関連項目脚注外部リンク
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