日本残侠伝
『日本残侠伝』(にほんざんきょうでん)は、1969年8月9日に公開された日本の映画である。監督はマキノ雅弘。主演は高橋英樹。日活制作[1]。 概要東映の「昭和残侠伝シリーズ」等を手がけていたマキノ雅弘が、日活で初めて手がけた任侠活劇である[2]。 女郎役として本作に出演した太田雅子は、日活入社五年目ながら、鳴かず飛ばずが続いたが[3]、本作で出会ったマキノ監督から芸名を梶芽衣子に改名するよう勧められ[3][4]、女優人生の大きな転機となった[2][3][5]。 大正半ばの浅草を舞台にデパートの利権をめぐって、昔気質の一家と新興の一家の対立を描く[1]。 キャスト
※以下ノンクレジット
スタッフ製作赤字続きで、1969年始めに撮影所も売却し、いまにも潰れるのでないかとウワサされた日活は[6][7]、フリーの石井輝男を招聘したり[8]、東映東京撮影所の園田実彦プロデューサーを引き抜いたりした後[8]、この年の夏から製作担当・堀雅彦常務製作本部長が、日活お家芸の"青春路線"を中止させ[9]、「なんでもかんでも東映のマネをしろ」とプロデューサーに厳命し[7][9]、題名から内容まで徹底的に東映作品のマネをした映画製作を決定した[3][7][9][10][11]。マキノは前作『日本侠客伝 花と龍』撮影中に骨折し[12]、無理して撮影したため症状を悪化させ苦しんでいた[12]。このタイミングで日活の堀雅彦製作本部長から、東映の岡田茂企画製作本部長に東映任侠路線の立役者の一人であるマキノ監督[13]の貸し出し要請があり[12]、岡田はマキノが身動き出来ないことを承知で日活にマキノをレンタルした[12]。 キャスティング女優が足りないのは、当時の五社共通の悩みであったが[14]、とりわけ深刻なのが日活だった[14]。浅丘ルリ子は他社出演を続け[14]、吉永小百合とは冷戦状態[14]。松原智恵子や和泉雅子といった比較的人気のある青春スターは、テレビドラマで忙しく、とても映画どころではない[14]。"第二東映"とカゲ口を叩かれながらも『儲かることはいいことだ』とばかり、ひたすら任侠路線を突っ走る日活に青春スターの割り込む余地はない[11]。日活としては松原智恵子に、藤純子や江波杏子の向うを張って女賭博師になって欲しかったが、松原に断固拒否された[14]。当時の日活は出演料がいつ貰えるのか分からない状況[14]。テレビはすぐに出演料が振り込まれ、さらに人気を得るにはテレビの方が手っ取り早かった[14]。外人部隊の隊長格だった扇ひろこを招集したのもこうした社内事情からで[14]、脱いで貰えるかを期待して招集した大門節子には「ハダカになりません」ときっぱりと断られた[14]。そんなこんなで仕方なく太田雅子、こと梶芽衣子をヤクザ女優に仕立てることに相成った[14]。また、本作に出演する津川雅彦がデヴィ・スカルノとの不倫騒動でマスメディアを賑わしていたため[14]、津川とデヴィとの共演を画策したが、これもデヴィに断られた[14]。 タイトル日活は本作のタイトルに高倉健主演の東映二大任侠ヒットシリーズ「日本侠客伝」と「昭和残侠伝」をミックスさせて『日本残侠伝』というタイトルを付け、タイトルまでパクった[12]。東映の任侠映画のタイトルも岡田が全部付けていたから[15]、これを知った大川博東映社長から怒鳴られた岡田は、マキノに電話を掛けて「その題名で撮るのはやめてくれ」と抗議したが、マキノは「何を云ってんのや、日活に頼まれてわしを女郎みたいに売っというて、日活が作った題名を何でわしにやめろって云うんだ。わしの付けた題名やない。そんなこと、わしに文句付けんで、お前とこで日活に云え」と言い返し[12]、岡田が堀常務に抗議したが「題名を変えることはお断り致します」ときっぱりと言われた[12]。マキノは岡田を苦手にしていたため[16]、しばし溜飲を下げた[12]。マキノは1971年に岡田が東映の社長に就任すると、東映を退社した[12]。 興行成績日活は"マネマネ路線"[7]"第二東映"[11]"第三東映"[17]などと陰口を叩かれながら、意外にこれが成功し一時軌道に乗った[3][7][17]。 同時上映『姐御』 脚注
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