日本陸軍の管区と部隊本項目では、大日本帝国陸軍の1871年から1945年までの管区と部隊所在地を示す。本表が示す部隊所在地(営所あるいは衛戍地と呼ばれた)は、平時に部隊が常駐すると決められた場所であって、戦時の作戦や一時的な派遣での移動先は含まない。表は大きな改正があった年の状態を示す。境界線変更や部隊の移転など、小さな変更までは反映していない。 鎮台の時代 (1871 - 88)1871年陸軍の管区のはじまりは、明治4年(1871年)8月、全国に4鎮台を置いてそれぞれの管所を定めたときである[1]。それまでも各地に部隊はあったが、管轄地までは法定されていなかった。
1873年明治6年(1873年)1月、鎮台の配置が改定され6鎮台になるとともに、鎮台が管轄する区域として軍管が定められた。各軍管には2、3箇所の営所が設けられ(計14箇所)、それぞれに歩兵連隊が1個ずつ置かれた。さらに同年7月、鎮台条例の公布により、1軍管が2、3個の師管に区分されるとともに、鎮台の設けられていない北海道が第七軍管として追加された。
1885年明治18年(1885年)の鎮台条例改定により、1軍管が2師管に区分され、各師管に旅団1個、歩兵連隊2個が置かれることになった。
師管の時代 (1888 - 1940)1888年明治21年(1888年)、鎮台が師団に改編されたのに伴い、従来の軍管が師管、師管が旅管に改称された。各旅管は4個の大隊区に区分され、必要に応じて警備隊区が設置された。また、明治23年勅令第82号により、一部の師管について区画の変更が行われた。さらに、明治27年(1894年)には第七師管が他の6師管と同様、旅管2個、大隊区8個に区分された[2]。
1896年明治29年(1896年)、師団の増設に伴う師管の改編によって旅管が廃止されて13師管となり、従来の大隊区は連隊区と改称された[4]。なお、明治31年4月1日に一部の管轄の変更が行われた[5]。
1899年明治32年(1899年)、近衛師管の管轄する区域が全て第一師管に移管された。また、明治36年(1903年)、師管と連隊区の間に旅管が設けられた[6]。
大正・昭和期明治21年(1888年)に6個だった師団はその後増設され、大正4年(1915年)には第19師団と第20師団を編成、近衛師団と併せて21個師団となった。しかし、いわゆる宇垣軍縮により4個師団が廃止、大正14年(1925年)には17個の常設師団が存在した。大正14年(1925年)以降はこの常設17個師団うち内地に在った13個師団が管轄する師管内の連隊区司令部を管掌し、新師団設置の業務・教育・或いは補充などを担当した。 軍管区の時代 (1940 -45)1940年昭和15年(1940年)に常設師団のうちの8個師団の衛戍地が満州になり、代替の常設師団として第51師団等の7個師団が新設され管区を引き継いだ(第1師団の管区はそれまで日本全国から徴兵していた近衛師団が引き継いだ)。そして、同年8月1日から師管の呼び方がそれまでの師団の名称ではなく地名を用いるようになった[7]。また翌昭和16年(1941年)11月1日には、それまでほぼ歩兵連隊の衛戍地又は近接市に置かれていた連隊区司令部を、1府県1連隊区として兵庫県を除き府県庁所在地と一致させた[8]。
1945年の師管区師管とは師団の管轄する区域のことであり、その司令部とは師団司令部にほかならず、師団が外地に出征し不在の場合には留守師団が置かれ、師団長とは別に留守師団長が補されていた。しかし、大戦末期の昭和20年(1945年)には本土決戦が必至の状況となりこのあり方を抜本的に改めた。それまでの留守師団を改編し師管区司令部を編成し担任区域の防衛も併せて担任した。域内の連隊区司令部と同じ区域に地区司令部を併置し、連隊区司令官が地区司令官を兼ねた。朝鮮半島の海外領土にも師管区司令部が設置されたが、海外領土に連隊区司令部は置かれず兵事部が設置された。師管区司令部にはそれまでの留守師団と同じく補充兵からなる補充隊が編成され、それぞれ歩兵連隊・砲兵連隊・工兵連隊に準じて配置され、管区内に陸軍病院を持った。師管区司令官は中将が任命され、参謀長・兵事部長が置かれたが、殆どの各管区司令官は予備役の中将を召集して任命された。
※括弧内は夫々師管区司令部の編成時期とその母体。
脚注
参考文献
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