日産証券
日産証券株式会社(にっさんしょうけん、英語: Nissan Securities Co., Ltd.)は、株式・商品先物取引・外国為替証拠金取引を取り扱う証券会社である。同時に日産証券グループの子会社でもある。 ちなみに日産証券は、日産コンツェルンを源流とする各社とは一切、資本関係がなく、全く無関係である。 概要1948年に日山証券株式会社として創業。1950年に「日本産業証券株式会社」、1965年に「日産証券株式会社」へ商号を変更する。 2006年にセンチュリー証券(現・SBIネオトレード証券株式会社)の営業の一部を統合し、「日産センチュリー証券株式会社」となった。 2016年2月、日本ユニコム株式会社より商品先物取引対面部門及び付随事業を承継し、以前の商号であった「日産証券株式会社」へ商号を変更する。以前は春光グループの関連組織・春光懇話会に参加していた。 創業以来、地域密着型営業を主軸として店舗網の拡大を行い、2011年1月には、時代の変化に対応するために商品先物取引所の参加者資格を取得し、グループ会社である日本ユニコム株式会社からインターネット商品先物取引事業を承継する。 2012年4月にはトレイダーズ証券株式会社より日経225先物取引事業を承継、2012年8月にはエイチ・エス・フューチャーズ株式会社より商品先物オンライントレード事業を承継、2020年7月には第一商品株式会社より商品先物取引業の一部並びに一部の支店を承継するなど、M&Aにも積極的である。 また、日本で唯一東京証券取引所・大阪取引所・東京金融取引所・東京商品取引所・大阪堂島商品取引所の5市場における取引参加者資格を持つ証券会社である。 沿革
歴史日本ユニコムによる買収以前1987年、日産証券は山一證券を割当先として50万株の第三者割当増資を行う[9]。1990年、顧客層拡大などを目的として、投資家を対象とした情報誌「ネクストワン」を発行[10]。 1992年、日産証券は系列の投資会社である「日産投資顧問」を解散し、投資顧問業から撤退。同社は日本株市場の株価低迷の影響を受け、長期間、事実上の休眠状態であった[11]。同年、日産証券を含めた中小証券会社の18社が、市場の株価低迷が続く中、出資金などの経費削減を目的として東京金融先物取引所(TIFFE)の一般会員を脱退[12]。 1994年、日産証券は法人営業を強化する。アナリストが法人顧客に個別銘柄の情報を提供する体制を整備。旧調査部を吸収して投資情報部を新設し、人員を強化した。ファナック株急落の際は、同銘柄に関して機関投資家に素早く情報提供をした。独自の調査により得ることが出来たミクロの情報を提供することに注力した[13]。 1997年、中堅・中小証券会社の経営者で組織する「一月会」(日本証券業協会に会員の意見、要望を取りまとめて伝える役割を果たしている団体)の会長に、当時の日産証券会長(小沼敏一氏)が就任。同氏はビッグバン(金融大改革)に向けて、証券税制や手数料自由化の時期などについての意見を、取りまとめていく意向を表明[14]。 1999年、証券会社の保険業務が解禁されたのに伴って、日産証券は保険商品の販売に参入する。営業員全員が損害保険販売員の資格を取得し、日産火災保険の商品を全店舗で販売する事や、外資系保険会社の商品を取り扱うことを検討した[15]。 2004年、インターネットを用いた株式の信用取引サービスを個人向けに開始した[16]。 日本ユニコムによる買収以後2005年9月8日、商品先物大手の日本ユニコムが、日産証券を買収すると発表[17]。同社は全額を出資している子会社である、ユニコム・インベストメントを通じて日産証券の過半数の株式を取得[18]。 2006年2月14日、日本ユニコムは取締役会で、8月を目途として持ち株会社体制へ移行することを決定。持ち株会社の傘下に日本ユニコム、センチュリー証券、日産証券の三社を置くグループ体制の構築を目指す[19]。同年、日産証券は損保ジャパン・アセットマネジメントが運用する投資信託「高配当ジャパン・オープン」を販売[20]。 日産センチュリー証券へ社名変更同年、日本ユニコムはセンチュリー証券と日産証券の二社を吸収分割方式で再編し、子会社の役割分担を明確にした。センチュリー証券は社名を「サンライズキャピタル証券」に変更し、投資銀行業務に特化させた。一方、日産証券は社名を「日産センチュリー証券」に変更し、個人、法人営業に特化させた[21] (センチュリー証券の個人、法人営業部門を日産証券が引き継ぐことで、再編が行われた[22]。)。 同年、2004年からセンチュリー証券の社長を務めていた野澤正平(旧山一證券元社長)が社長に就任[23]。 2012年、二家英彰が会長職を離れ、38歳で社長に就任[24]。 日産証券へ社名変更2016年2月8日、日産センチュリー証券は日本ユニコムから商品先物取引業務を引き継いだ。同日、日産センチュリー証券は「日産証券」へと社名変更した[25]。同年、個人投資家がインターネットを利用して株式を売買できるサービスを開始。約定価格が10万円以上の場合の、売買委託手数料が業界最低水準となる[26]。同年、東京商品取引所での売買代金受け渡しなどの清算業務において、シティバンク銀行に協力し、同行の顧客が先物取引で決済不履行等の違約を起こした際の市場での後処理を代わりに行うこととなった[27]。同年、東京商品取引所は個人投資家が参入するなどして市場がさらに活性化することを狙い、金の現物取引を開始した。それに伴い、日産証券を含めた3社(日産証券、豊商事、サンワード貿易)が取り扱いを始めた[28]。 岡藤HDと経営統合、事業譲受による事業拡大2018年6月、岡藤ホールディングス(岡藤HD)と資本業務提携し、同社の子会社、岡藤商事の商品先物取引事業の顧客の一部を日産証券に移管した。 2019年2月13日、日産証券は岡藤HDと経営統合に向けて協議・検討することで合意したと発表[29]。同年8月1日、岡藤HDは日産証券の親会社であるユニコムグループホールディングスから日産証券の株を普通株式20万位株を取得[30]。岡藤HDによる日産証券株の持ち株比率(自己株式を除く)は2.39%となる見込みとなった[31]。 2020年5月28日、第一商品が同社の不正会計に伴い、日産証券に貴金属や農産品などの主な先物取引業を譲渡すると発表[32]。譲渡価格は消費税を除いて8億9400万円であった。譲渡された負債のうち、預かり証拠金は86億6900万円、預かり証拠金代用有価証券は9億5400万円であった[33]。 2021年3月22日、フジフューチャーズから金融商品取引業及び商品先物取引業を譲受した際には、東京地方裁判所民事第7部において第一審が、東京高等裁判所第4民事部において控訴審が、フジフューチャーズの代表取締役社長であった佐藤昇[34][35]とフジフューチャーズとの間で係争中であったにもかかわらず、同社は事業譲受を強行したことから、2021年4月8日、佐藤昇は同社と岡藤日産証券ホールディングス [36][37]に対して損害賠償請求事件を提起したが、2021年8月10日、請求棄却の判決が言い渡された[38]。 →「佐藤昇 (ジャーナリスト) § 人物」も参照
関連人物脚注
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