旭大星託也
旭大星 託也(きょくたいせい たくや、1989年10月18日 - )は、北海道旭川市出身で、大島部屋(一時友綱部屋)に所属した元大相撲力士。本名は大串 拓也(おおぐし たくや)。身長185.0cm、体重148.9kg、血液型はB型。最高位は西前頭8枚目(2018年7月場所)。好物は牛丼[1]。 来歴幼少期は父親から空手の指導を受けていたが、小学校2年次に地元のスポーツ少年団で柔道を始める。2002年に旭川市立啓北中学校へ進学したが、柔道部が無かったため野球部に所属し、柔道は引き続き地元の道場で指南を受けた。2年生の頃に地元を合宿のため訪れていた大島部屋からスカウトを受けたが、この時は入門を断っている。そのまま柔道の特待生として旭川大学高等学校へ進学し、柔道部のエースとして活躍。複数の大学から推薦入学の誘いを受けたが、勉強をしたくないという理由で進学には乗り気でなかった。そのような状況で、高校3年生の夏に再び大島親方(元大関・旭國)がやってきて、スカウトを受けた。相変わらず相撲に興味は持っていなかったが、裸一貫から勝負できることに魅力を感じたため、相撲への転向を決意し、大島部屋への入門が決まった[2]。上京直前には父親から「もう帰ってくる場所がないから覚悟しろ」と厳しい言葉で送り出された[3]。 地元の友人・知人・親戚らに盛大に見送られて上京し、高校卒業を間近に控えた2008年1月場所で初土俵を踏み、翌3月場所からは四股名を「旭川の大きな星になれ」や中2の時に他界した母親が「星になって空から見守ってほしい」という意味が込められた旭大星に改名[4]。入門同期生には誉富士、明瀬山、慶天海らがいる。入門から半年の間になかなか体重が増えなかったことや部屋の厳しい稽古や生活、成績が一進一退続きであったことに耐えかねて部屋から逃亡したこともある[3] が、体が大きくなるにつれて番付も上昇し、2010年9月場所では初めて幕下に昇進。2012年1月場所以降は幕下の地位に定着した。同年4月に、師匠の停年(定年)退職に伴って大島部屋が消滅したため、友綱部屋に移籍。自身と同じく現役時代は軽量だった入門時の師匠・旭國の相撲をDVDで研究し、稽古相手も増えた新しい環境で、2014年に入ってからは体重も大幅に増加。5月場所後の番付編成会議で新十両昇進が決定した。北海道出身力士の新十両昇進は2001年11月場所の若天狼以来[5]。北海道出身十両の復活は、前述の若天狼が引退した2011年5月技量審査場所以来である。 7月場所初日の十両土俵入りでは所作を間違えるハプニングが発生[6]。この場所は千秋楽に勝ち越しを懸けるも惜しくも7勝8敗の負け越し。翌9月場所は9日目からの5連敗が響いて5勝10敗と負け越し、新十両から2場所で幕下の地位に戻ることとなった。東幕下5枚目の地位を与えられた11月場所も7番相撲で3勝4敗と負け越し、半枚下の西幕下5枚目の地位で4勝3敗の成績を残した舛ノ山に場所後の再十両を譲る格好となった。 ところが、その後は4場所連続で勝ち越し、2015年9月場所で6場所振りに十両に復帰した。その場所は9勝6敗と勝ち越している。2016年11月場所直前の11月7日に行われた宮城野部屋での出稽古では、幕内力士との稽古で土俵際で逆転するキレ味鋭い動きで状態の良さを感じさせ、自身初の十両での2場所連続勝ち越しに意欲を見せた[7]。11月場所7日目まで2勝5敗と前半大きく出遅れたが、残りを全勝して10勝5敗と自身初の2けた白星を挙げた。2017年9月場所は、9日目に東京都出身の家事手伝いの女性と婚姻届を提出する[8]も、この場所は6勝9敗の負け越し。夫人とは2012年の知人の紹介で出会い、2017年7月場所の千秋楽にプロポーズをして、夫人が承諾したという。旭大星は「とても料理が上手で、ちょっと天然ボケなところが好きです。一目ぼれしました。子どもは二人くらい欲しい」というと、夫人は「いちばん好きなのは優しいところ。相撲を取っている時はかっこよくてどきどきします」と話した[8]。10月5日に行われた秋巡業八千代場所では申し合いを9番行った[9]。11月場所は序盤の6連勝などもあって9勝6敗。翌2018年1月場所は西十両筆頭と新入幕を目前とする番付となった。この場所は序盤から白星を先行させ、13日目に勝ち越しを決めたが、そこから星を上積みできず8勝7敗に終わった。この場所では幕内から十両に落ちる力士が3人しかいなかったこともあり、翌場所は東十両筆頭に半枚移動しただけとなった[注 1]。その3月場所も8勝7敗と勝ち越し、5月場所で新入幕となった。北海道出身者の新入幕は1992年1月場所の立洸以来約26年ぶり、北海道出身者が幕内の番付に在位するのは1998年5月場所の北勝鬨以来20年ぶりのこととなった[10]。 新入幕の5月場所は11日目に勝ち越しを決め、最終的に10勝5敗と二桁の白星で、敢闘賞を受賞した。千秋楽の千代丸に勝てば三賞をもらえる事は取組前に知ったが、「負けても9番だから」と硬くならずに臨めたという[11]。7月場所は西前頭8枚目に番付を上げて臨んだが、初日からの5連敗が響いて6勝9敗と負け越した。2021年11月場所は西十両9枚目で2勝13敗の大敗を喫し、32場所連続で守り抜いた関取の地位を失うことが決定的となった。2022年1月場所は西幕下5枚目の地位で途中休場。場所後の2月1日付で友綱部屋を改称する形で大島部屋が再興されたため、自身も約10年ぶりに大島部屋所属に戻った[12]。その後も連続で休場が続き、2022年11月場所は序ノ口に陥落。幕内経験者の序ノ口陥落は琉鵬、舛ノ山、鏡桜に続いて史上4人目の記録となった。同場所で土俵復帰すると、6番相撲で優勝した尊富士弥輝也に敗れるも6勝1敗で終え1場所で序二段復帰。場所後本人は「関取に戻るか引退するまで、北海道には帰れない」と覚悟をにじませた[13]。翌2023年1月場所は1番相撲で敗れたもののその後6連勝で6勝1敗、1場所で三段目に昇進すると、3月場所も2番相撲で敗れたものの3場所連続6勝1敗で、東三段目3枚目で迎えた5月場所では7番相撲に勝ち4勝3敗、7月場所で8場所ぶりに幕下に復帰した。11月場所は3勝4敗で怪我から復帰後初めて負け越した。 2025年1月場所直前の2024年12月25日、日本相撲協会に引退届を提出し、受理された[14]。引退後は知人がオーナーの油そば店で勤務し、ゆくゆくは独立して経営するつもりだという[15]。引退会見では、怪我は改善されたがその状況でも勝てなくなり関取復帰の見込みが無くなったことを引退の理由に挙げており、師匠の大島親方は「ここまで来るとは思わなかった。体もそうですし、相撲経験もない。すぐ辞めるだろうなと。それが体が大きくなって番付も上がっていった。幕内に上がった時はすごいと思いましたよ」と労った[16]。 取り口右前ミツからの攻め、突き押し、引き技が得意技。相手が安易に真っ直ぐ引いたところを手を伸ばして追尾してそのまま押し切るのが旭大星の勝ちパターン。一方、それほど大柄ではないので負ける時は押し出しで負けることが多く、突き押し力士は苦手な方。また、体重が140kg台に乗った2018年頃からそれほど動きが早い訳ではなくなったため、その影響で石浦などの軽量の力士には動き負けることもあった。 2019年頃になると稽古不足なのか体の張りに欠けるようになり、同年5月場所9日目の隆の勝戦のように立合いで先んじても挽回されてそのまま押し負ける相撲も目立つようになった。 柔道の経験もあって、取的時代はちょん掛け・蹴手繰りで白星を多く挙げていたが、関取になって以降は技が拡張し、下手を用いた技による白星は少なくなった。 ![]() 人物
主な成績通算成績
三賞・金星
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦敗の数。
太字は2024年11月場所現在、現役力士。 改名歴
脚注注釈出典
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