木村重信
木村 重信(きむら しげのぶ、1925年8月10日 - 2017年1月30日)は、日本の美術学者(民族芸術学・近現代美術史)。大阪大学名誉教授、京都市立芸術大学名誉教授、兵庫県立美術館名誉館長。位階は従四位[1]。勲等は勲三等。京都市立美術大学美術学部教授、大阪大学文学部教授、国立国際美術館館長、兵庫県立美術館館長などを務めた。 経歴生い立ち1925年、京都府綴喜郡青谷村(現:城陽市)の宇治茶問屋・丸京山城園製茶場の経営者であった木村重太郎とトヨの二男として出生。姉、兄、弟、妹6人兄弟の3番目であった。青谷小学校を経て、京都市立第一商業学校を優等生で卒業。優等賞として寺内製の腕時計を授与された。1943年4月に名古屋高等商業学校に入学[2]、在学中の1944年4月1日に名古屋経済専門学校と改称[3]され、学徒動員により繰上げ卒業となった。 1944年10月、特別甲種幹部候補生(特甲幹)として豊橋陸軍予備士官学校入校、陸軍伍長任官。野外訓練で腕時計を紛失、隊友達も協力して捜したが見つからなかった。1945年3月に陸軍軍曹、6月に成績優等として卒業すると共に陸軍曹長となり見習士官を命ぜられて広島師管区の歩兵補充隊に配賦とされた。本籍が京都であったため、7月に京都師管区の歩兵補充隊へ異動の上、三重県志摩郡磯部村(現:志摩市磯部町)に本部を置く歩兵第442連隊へ到着、連隊旗手要員を拝命した。部隊は本土決戦の準備を行なっており、蛸壺構築などを続けた。終戦を迎えた後に陸軍少尉へと任官、9月に一般の将兵が復員してゆく中、米軍の命令を受け武器、弾薬の引渡しなど残務処理に追われ、自身の復員は10月となった。 復員後、名古屋経済専門学校に復学。その後、京都大学文学部哲学科美学美術史専攻に進学し、1949年に卒業。 美術学者として1953年、京都市立美術大学講師に就いた。1956年から1957年までソルボンヌ大学民族学研究所に留学。1958年に助教授昇格。1969年、京都市立芸術大学美術学部教授となった。1974年に退任し、後に同大学名誉教授となった。その後は大阪大学文学部教授として教鞭を執った。1975年、学位論文『美術の始源』を大阪大学に提出して文学博士号を取得[4]。1976年からは国立民族学博物館併任教授を兼ねた。1989年に大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、大阪府顧問を務め、1992年に国立国際美術館館長に就任。また、兵庫県立美術館長を務めた。
在任中は、世界各地で多くのフィールドワークを行った。1967年から1968年には、「京都大学 大サハラ 学術探検」(総隊長・山下孝介)に参加。これは木村重信が企画し、講談社創業60周年とフジテレビ開局10周年の事業にドッキングしたもので、費用はすべて民間企業の寄付によって賄われた。全隊員の調査報告および記録は『大サハラ:京都大学大サハラ探検隊』(講談社)として1969年に刊行された。フジテレビが「大サハラ」というタイトルで1969年1月~3月に13回にわたり放映。産経新聞が「サハラ砂漠─京大学術探検隊とともに」を1968年1月~2月に30回にわたって連載。
1985年から1986年には、「大阪大学 南太平洋学術調査・交流事業」(委員長・木村重信)を企画実施。この事業は大阪大学創立50周年記念事業として企画された。『南から新しい光が:大阪大学創立50周年記念 南太平洋学術調査写真集』(講談社)が1986年6月に市販書として刊行された。 学界では民族芸術学会名誉会長。2017年に卒去。 受賞・栄典研究内容・業績専門は美学のうち、民族芸術学、近現代美術史。 家族・親族
著作
編著・共著
記念論文集
脚注
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