李澔
李 澔(イ・ホ、이호、1914年2月7日 - 1997年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の検察官、法律家、政治家。日本名は李家 澔(りのいえ ひろし)。 生涯慶尚北道永川郡にて、大地主の息子として誕生[1]。1923年3月に慶尚北道永川公立普通学校卒業後、翌4月に京城第二公立高等普通学校2学年に編入し、1930年3月に修了した[1]。1930年4月、京都の立命館中学校3学年に編入して1933年3月に卒業[1]。同年4月に佐賀高等学校文科甲類に入学して1936年3月に卒業[1]。1936年4月、東京帝国大学法学部法律学科に進学し、1940年3月に卒業[1]。大学在学中の1939年11月に高等文官試験司法科に合格[1]。 大学卒業後は朝鮮半島に戻り、京城地方法院及び京城地方法院検事局司法官試補に任命され、在職中の1940年12月から1941年4月まで京城地方法院検事代理を兼ねた[1]。1942年3月、京城地方法院検事局予備検事を経て、同年6月に検事に任命され、京城地方法院検事に赴任した[1]。1943年12月、光州地方法院順天支庁検事に転任して終戦まで在任していた[1]。 第二次世界大戦終戦後はソウル高等検察庁検事(1946年)、最高検察庁検事(1948年)、内務部初代治安局長(1949年)を務めた。 大韓民国政府樹立後は陸軍に特別任官し任大佐(軍番12673番)[2][3]。1951年5月15日、陸軍本部法務監[4]。1951年9月11日、陸軍本部兵站監[5]。戒厳副司令官、停戦委員会代表を歴任。1953年から1955年まで国防部次官、1955年から1958年まで法務部長官を務めた。1960年の四月革命後の暫定政府では内務部長官。その後の第三共和国では内務部長官(1967年 - 1968年)、法務部長官(1968年 - 1970年)、駐日大使(1971年 - 1973年)を歴任。1979年の粛軍クーデター後は、全斗煥が設置した国家保衛立法会議議長を務めた。また大韓赤十字社総裁も務めた。 脚注参考文献
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