枢密院司法委員会(すうみついんしほういいんかい、英語: the Judicial Committee of the Privy Council、略称JCPC)は、イギリスの王室属領、海外領土、一部のコモンウェルス諸国、およびイギリス国内のいくつかの機関に対する最高上訴裁判所である。1833年8月14日に設立され、それ以前は枢密院における国王で審理されていた上訴を扱う機関として設置された[2]。枢密院司法委員会は、かつてはイギリス本国を除く大英帝国全体における最終上訴裁判所として機能していた[3][4]。
枢密院司法委員会は、国王陛下の最も高貴なる枢密院(英語: His Majesty’s Most Honourable Privy Council)の法定委員会である。その構成員は枢密顧問官である上級判事(senior judge)たちであり、主に連合王国最高裁判所裁判官および英連邦諸国の上級判事が占めている。一般に「枢密院」と略称されることがあるが、司法委員会は枢密院を構成する一部分にすぎない。英連邦王国(英語: Commonwealth realms)では、上訴は名目上「枢密院における国王陛下(His Majesty in Council)」への上訴として行われ、国王は枢密顧問官の助言を受けたうえでその案件を司法委員会に諮問するという形を取る。一方、英連邦に属する共和国で最終審として同司法委員会を保持している国では、上訴は司法委員会へ直接なされる。特定の案件を審理する判事団(通常は5人で構成される)は「審理委員会(the Board)」と呼ばれる。委員会の報告(判決勧告)は、慣例上、枢密院における国王がそのまま受け入れ、最終判決とされる。
上訴審理の任務は、枢密院内のいくつかの短命な委員会に与えられていた。1679年にはその管轄が商務庁(Board of Trade)に移されたが、1696年には常設の枢密院上訴委員会(英語: Appeals Committee of the Privy Council)に引き継がれた[5]。枢密院上訴委員会は、司法審査権を行使した最も初期の司法機関のひとつであり、アメリカ植民地からの一連の訴訟において、植民地政府の権限を定めた王室勅許に照らして植民地法の合憲性が問われた[6][7]。
イギリスには、単一の最高裁判所が存在するわけではない。一部の案件においては枢密院司法委員会が最高上訴裁判所である一方で、それ以外の大多数の案件では、連合王国最高裁判所(英語: Supreme Court of the United Kingdom)が最高上訴裁判所となっている。なお、スコットランド法域においては、刑事事件に関してはスコットランド最高法院(英語: High Court of Justiciary)が最高裁判所である。一方、民事事件およびスコットランドへの権限移譲に関する問題についての最終審は、かつて枢密院司法委員会の管轄に属していたが、現在は連合王国最高裁判所へ移管されている。
枢密院司法委員会は、以下のようなイギリス国内の特定事項について管轄権を有している:
イングランド国教会の財産を司る、国教財務委員会(英語: Church Commissioners)の制度に関する上訴。
枢密院司法委員会への上訴の大部分は、形式上「枢密院における国王陛下(His Majesty in Council)」への上訴である。ブルネイからの上訴は形式上「スルタン兼ヤン・ディ・ペルトゥアン」への上訴とされる一方で、英連邦内の共和国からの上訴は、直接枢密院司法委員会へ行われる。上訴は通常、現地の控訴裁判所の許可(leave)を要するが、枢密院司法委員会は裁量により上訴許可を与える権限を引き続き保持している。
上訴を審理した後、その審理にあたった裁判官の合議体(“the Board”と呼ばれる)は、判決を文書で発表する。「枢密院における国王陛下」への上訴においては、この合議部はその決定を国王に対する助言として提出する。慣例により、この助言は常に国王によって受け入れられ、「枢密院勅令(英語: Order in Council)」として効力を持つことになる。
歴史的に、枢密院司法委員会は全会一致の報告のみを出すことができたが、1966年の「枢密院司法委員会(反対意見)令(Judicial Committee (Dissenting Opinions) Order 1966)」以降、反対意見の表明が認められるようになった。
1901年、オーストラリア憲法は、連邦最高裁判所から枢密院への上訴を制限した。すなわち、「相互間(inter se)の問題」に関して高等裁判所が許可を与えない限り、憲法問題についての上訴を禁止したのである。憲法以外の問題についての上訴は禁止されていなかったが、連邦議会にはこれらを制限する法律を制定する権限が与えられていた。連邦裁判所(準州の最高裁判所を含む)からの上訴権は、「1968年枢密院(上訴制限)法(Privy Council (Limitation of Appeals) Act 1968)」によって廃止された[42][43]。州裁判所からの上訴は、1901年以前の植民地裁判所の判決に対する上訴権を引き継ぐ形で継続されていたが、「1986年オーストラリア法(Australia Act 1986)」によって廃止された。この法律は、すべての州政府の要請を受けて、イギリス議会とオーストラリア議会の双方によって制定された。オーストラリア憲法には、高等裁判所が「相互間の問題」について枢密院への上訴を認めることができるという規定が依然として残っている。しかし、この許可が与えられたのは1912年の一度だけであり[44]、高等裁判所はその管轄権はもはや消尽しており、「時代遅れである」として、今後その許可を与えることはないと明言している[45]。
カナダ
カナダは1875年に独自の最高裁判所を設立し、1933年には刑事事件における枢密院への上訴を廃止した[46]。それにもかかわらず、カナダ最高裁判所によるいくつかの判決は枢密院司法委員会へと上訴された。特に著名な例が1929年の「パーソンズ事件(Edwards v Canada (AG))」である。この事件では、カナダの憲法である「1867年英領北アメリカ法(British North America Act, 1867)」の下、女性は常に「適格な人物(qualified persons)」であり、カナダ元老院の議員となる資格があることが確認された。本事件ではまた、傍論の中で用いられた比喩が、1980年代にカナダ最高裁によって再解釈され、「リビング・ツリー・ドクトリン(英語版)(living tree doctrine)」として知られるようになった。この憲法解釈理論は、憲法は有機的存在であり、時代の変化に適応するように広く自由な方法で解釈されるべきであるとするものである。
Cushing v. Dupuy事件(1885年)において[47]、枢密院は、枢密院への特別上訴許可(special leave to appeal)を付与する権能は影響を受けず、王権は明示的な文言によらなければ取り除くことができないと判示した。
Nadan v. The King事件(1926年)では[48]、枢密院は、枢密院への上訴を禁止する刑法の規定は、「1865年植民地法有効化法(Colonial Laws Validity Act 1865)」第2条に反するため、カナダ連邦議会の立法権の範囲を超える(ultra vires)ものであると裁定した。
カリブ諸国の政府は、選挙民からの圧力をますます受けるようになっており[58]、枢密院司法委員会が下した過去の判決を覆す手段を講じるよう求められている。これには、いずれもカリブ地域における死刑制度に関する枢密院司法委員会の判決である、Pratt v A-G(ジャマイカ、1993年)[59]、R v Hughes(セントルシア、2002年)、Fox v R(セントクリストファー・ネイビス、2002年)、Reyes v R(ベリーズ、2002年)、Boyce v R(バルバドス、2004年)、およびMatthew v S(トリニダード・トバゴ、2004年) といった判例が含まれている[60][61][62]。
2006年12月18日、枢密院司法委員会は、ロンドン以外で初めての開廷を行い、170年以上の歴史の中で画期的な出来事となった。この特別な5日間の審理はバハマで開催され、当時のバハマ控訴院長官であったジョーン・ソーヤー女史(Dame Joan Sawyer)の招待により、ビンガム卿、ブラウン卿、カーズウェル卿、スコット卿、ならびにリッチモンドのヘイル男爵夫人(Baroness Hale of Richmond)が参加した[64]。委員会は2007年12月にもバハマで2度目の開廷を行い、その際はホープ卿、ロジャー卿、ウォーカー卿、マンス卿、およびクリストファー・ローズ卿が複数の案件を審理した。審理の終了時、ホープ卿は今後もバハマでの開廷が行われる可能性があると述べ[65]、実際に2009年にも再びバハマで開廷が行われた[66]。
スリランカ(旧セイロン)は、1971年11月15日に施行された「1971年控訴院法(Court of Appeal Act, 1971)」により、枢密院への上訴を廃止した[69]。これに先立ち、枢密院は「イブラレッベ対国王(Ibralebbe v The Queen)」事件において、1948年にセイロン自治領がコモンウェルス内の自治領として独立した後も、同国における最終上訴裁判所であり続けるとの判断を示していた[70]。
ガンビアから枢密院司法委員会(JCPC)に上訴された最後の事件は、1998年9月15日に判決が下された「West Coast Air Limited 対 ガンビア民間航空局 他(West Coast Air Limited v. Gambia Civil Aviation Authority and Others UKPC 39)」事件である[71]。
グレナダ
グレナダから枢密院司法委員会への上訴は、1979年から1991年まで一時的に廃止されていた。これは、モーリス・ビショップ首相の下で発生したグレナダ革命の結果であり、「人民法84号(People’s Law 84)」がそのために制定された。1985年の「Mitchell 対 DPP(Mitchell v DPP)」事件判決では、グレナダが一方的に枢密院への上訴権を廃止する権利を有することが確認された。その後、1991年にグレナダは枢密院司法委員会の裁判管轄権を回復した。
ガイアナは、フォーブス・バーナム政権下において、「1970年枢密院司法委員会(上訴終了)法(the Judicial Committee of the Privy Council (Termination of Appeals) Act 1970)」および「1973年憲法改正法(the Constitution (Amendment) Act 1973)」を可決するまで、枢密院司法委員会への上訴権を保持していた。
香港
1997年7月1日のイギリスから中国への主権移交に伴い、香港の裁判制度は変更され、香港特別行政区終審法院(Court of Final Appeal)が最高司法機関となった。そして(香港の憲制的文書である基本法第158条に基づき、)その最終的な解釈権は香港終審法院ではなく、中央政府の全国人民代表大会常務委員会に帰属することになった。枢密院司法委員会と異なり、全人大常務委員会は政治的かつ立法的機関であり、独立かつ中立的な最終審裁判所ではない。
1997年7月1日以前の香港に関する枢密院の判決は、香港の裁判所にとって引き続き拘束力を持つ。これは基本法第8条に規定された法制度の継続性の原則に則ったものである。一方で、香港以外の事件に関する枢密院の判決は、あくまで説得的な権威(persuasive authority)に過ぎず、拘束力はない。これは1997年7月1日以前も同様であり、現在も変わらない。貴族院(House of Lords)の判決も同様であり、同じ立場にある。また、香港の裁判所が他のコモン・ロー法域の最終審裁判所からの判例に学ぶことは極めて重要であり、これは基本法第84条においても認められている[72][73]。
インド
インドは、インド連邦裁判所から枢密院への上訴権を、インド自治領(Dominion of India)設立後も保持していた。しかし、1950年1月にインド最高裁判所が連邦裁判所に代わって設立されたのに伴い、「1949年枢密院管轄権廃止法(Abolition of Privy Council Jurisdiction Act 1949)」が施行され、枢密院司法委員会への上訴権は廃止された。
「Moore 対 アイルランド自由国法務長官(Moore v Attorney-General of the Irish Free State)」事件判決において[75]、枢密院への上訴権を廃止するオイレフタスの権限が、1921年の英愛条約に違反するものだとして異議が唱えられた[76]。当時のイングランドおよびウェールズの法務長官サー・トーマス・インスキップは、アイルランド自由国の法務長官コナー・マグワイアに対し、同国には枢密院への上訴を廃止する権利がないと警告したと伝えられている[76]。しかし、枢密院司法委員会自身は、「1931年ウェストミンスター憲章(Statute of Westminster 1931)」に基づき、アイルランド自由国政府にはその権利があると判断した[76]。
ジャマイカ
2015年5月、ジャマイカの代議院(下院)は、枢密院司法委員会への法的上訴を廃止し、カリブ司法裁判所をジャマイカの最終上訴裁判所とする法案を、必要な3分の2の賛成多数で可決した。この改革は元老院(上院)での審議に付される予定であったが、上院でも3分の2の賛成が必要であり、政府は少なくとも1名の野党議員の支持を得る必要があった[77][78]。しかし、改革案が上院で最終採決に至る前に、2016年の総選挙が実施された。この選挙では、当該改革に反対していたジャマイカ労働党(Jamaican Labour Party)が勝利し、改革は頓挫した。同党は、この問題について国民投票を実施する方針を掲げている[79]Template:Update inline。
ニュージーランドは、最初の自治領(the original dominions)の中で最後に枢密院への上訴を法制度から廃止した国である。ニュージーランドにおける枢密院への上訴を廃止する提案は、1980年代初頭に初めて提示された[82]
1985年、ブライトマン男爵(英語版)は、ニュージーランドにおける判例「Archer v. Cutler(1980年)」判決を先例として採用する可能性に関連して、枢密院が現地の判断を尊重していることについて次のように述べた:
「Archer v. Cutler」判決がニュージーランドに特有の事情に基づくものとして適切に位置づけられるべきものであるならば、そのような地域的に重要な問題について、ニュージーランド高等法院および控訴院の一致した結論に反してまで、彼らの法解釈を押し付けることが正しいと閣下らが考える可能性は極めて低い。しかしながら、「Archer v. Cutler」判決の原則が仮に正しいものであり、地域固有の事情に依拠せず、コモン・ローを基礎とするすべての法域において一般的に適用されるべきものであると見なされるのであれば、閣下らはニュージーランドの裁判所の一致した見解を決定的なものとして取り扱うことはできない。
パキスタン自治領は、パキスタン連邦裁判所から枢密院への上訴権を保持していたが、「1950年枢密院(管轄廃止)法(the Privy Council (Abolition of Jurisdiction) Act, 1950)」が制定され、その権利は廃止された。パキスタン連邦裁判所は1956年まで最高裁判所として機能し、その後、パキスタン最高裁判所が設立された。
シンガポールにおいて、死刑判決に対する上訴が枢密院によって認められた著名な事件の一つに、1972年4月22日から23日にかけてプラウ・ウビン島で発生した殺人事件(1972 Pulau Ubin murder)がある。この事件では、当時19歳だったモハメド・ヤシン・ビン・フセインが、58歳の女性プーン・サイ・イムを強姦し殺害したとして高等法院から死刑判決を受けた。一方、共犯者で25歳のハルン・ビン・リピンは、ヤシンが犯行中に女性の家を物色して強盗を働いたとして、夜間強盗の軽罪で起訴され、懲役12年と鞭打ち12回の判決を受けた。枢密院は、ヤシンが被害者プーンを強姦した際に致命的な肋骨骨折を引き起こしたものの、死を意図していた、あるいは致命的な傷害を加える意図があったという証拠が存在しないと判断した。その結果、彼の行為は「殺人に至らない軽率または過失による行為」と認定され、禁錮2年の判決が下された。この上訴後、ヤシンは強姦容疑で再び裁判にかけられ、被害者に対する強姦未遂の罪でさらに禁錮8年の判決を受けた[87]。
もう一つの著名な事件は、露天商侯大頭(Haw Tua Tau)の事件である(Margaret Drive hawker murders)。侯は1978年、同業者である潘漢良(Phoon Ah Leong)とその母親許潤瓊(Hu Yuen Keng)の2人を殺害した罪で死刑判決を受けた[88]。彼の上訴は一度棄却されたが[89]、その後、枢密院に対して特別上訴許可(special leave to appeal)が認められ、判決と有罪判決に対して上訴した。しかし、枢密院はこの上訴を退けた。判決において、枢密院は重要な原則を打ち立てた。すなわち、検察側が被告に対する起訴を裏付けるに足る証拠を提示する限りにおいて、裁判所において訴追の主張を行い、被告に答弁を求めることができるというものである[90]。最終上訴に敗れた侯は、最終的に1982年にこの殺人事件により絞首刑に処された[91]。
南アフリカ
南アフリカは、当時の南アフリカ最高裁判所の控訴部(Appellate Division)から枢密院への上訴権を、「1950年枢密院上訴法(Privy Council Appeals Act, 1950)」に基づいて、1950年に廃止した。
^ abcdP. A. Howell, The Judicial Committee of the Privy Council, 1833–1876: Its Origins, Structure, and Development, Cambridge, UK: Cambridge University Press, 1979
^An Act to amend the Criminal Code, S.C. 1932–33, c. 53, s. 17.
^Feingold, Ellen R. (2018). Colonial Justice and Decolonization in the High Court of Tanzania, 1920–1971. Palgrave MacMillan. pp. 146, 161. ISBN978-3-319-69690-4
^Pain, JH (July 1978). “The reception of English and Roman-Dutch law in Africa with reference to Botswana, Lesotho and Swaziland”. The Comparative and International Law Journal of Southern Africa11: 166.
^Ponoka-Calmar Oils Ltd. and another v Earl F. Wakefield Co. And others[1959] UKPC 20, [1960] AC 18 (1959-10-07), P.C. (on appeal from Canada)
^Hogg, Peter W. Constitutional Law of Canada, 4th ed. Toronto: Carswell, 2003, ss. 5.3(a)–(c); 2004 Student Edition Abridgment, ss. 5.3(a)–(c), pp. 117–120
^Bruce Clark (1990). Native Liberty, Crown Sovereignty. McGill-Queen's University Press. ISBN9780773507678[要ページ番号]