柏座
柏座(かしわざ)は、埼玉県上尾市の町名。現行行政地名は柏座一丁目〜四丁目[注釈 1]。住居表示実施済み[7]。郵便番号は362-0075[3]。 市の統計などでは上尾地区で分類されている。 地理埼玉県の中央地域(県央地域)で、上尾市中央部の町域の東部は大宮台地上、西部は鴨川左岸沿いの低地に位置する。 町域の東側を上町や宮本町と接し、南側を谷津や富士見と接し、西を今泉、北側を弁財や春日と接する。北部では緑丘、東部では仲町とも僅かに接する。 町域の東部を高崎線が通り、南部および南端を東西に上尾平方線(市民体育館通り)が通り、町域の西境となる今泉との境を鴨川が流れ、富士見橋が架けられている。全域が市街化区域[8]で主に第一種住居地域や第二種住居地域(四丁目は主に第一種低層住居専用地域)に指定され、上尾駅前付近は商業地域で上尾平方線沿線は近隣商業地域となっているが、全体的には住宅地が広がっている。 地内に柏座遺跡(県遺跡番号:14-212[8])や柏座三丁目遺跡(県遺跡番号:14-175)住居跡やピットなどの遺構や土器片・石器の遺物が発掘されている。 地価住宅地の地価は、2018年(平成30年)の公示地価によれば、柏座四丁目7−34の地点で13万5000円/m2となっている[9]。 歴史![]() もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡大谷領に属する柏座村であった[10]。谷津村・宮下村・川村・沖之上村・中妻村のうちに飛地を領していた[10]。中世期の屋敷である曽我殿屋敷が村内(現在のパーク上尾付近[11])に存在していたと云われている[10][12]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では460石余(田168石余、畑282石余、山高10石)[13]、『元禄郷帳』および『天保郷帳』によると325石余であった[10]。化政期の戸数は28軒で、村の規模はおよそ東西8町余、南北13町余であった[10][12]。 地名については「柏」の字が自然堤防などの傾斜地を意味し、鴨川流域の自然堤防に由来するものと云われている[10][14]。 1875年(明治8年)の農業産物高は『武蔵国郡村誌』によると米84.4石、陸稲7石、大麦150石、小麦55石、大豆45石、小豆4石、栗27石、稗30石、蕎麦5石であった[15]。 はじめは幕府領、1624年(寛永元年)より知行は旗本柴田氏[10]。なお、検地は1661年(寛文元年)に実施[12]。また、持添新田を領しており、その検地は1625年(寛永2年)に実施[10][12]。正保〜元禄年間頃に柏座村より谷津村、および柏座村の枝郷である春日谷津村を分村する[10][16]。1698年(元禄11年)より上知され再び幕府領(代官支配地)となり、日乗院には10石の寺領が付与されたが[14]、のちに幕府領の一部が旗本春日氏(従五位下春日河内守貞顯)[17]の知行地となる[10][14]。
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存在していた小字※ 『武蔵国郡村誌』には「新井」の記載があるが、現在の場所を特定できない。また『新編武蔵風土記稿』には「アラヒ」・「橋場」・「堀の内」・「宮カリ」・「駒形」・「的場」の記載がある[12]が未確認である[14]。 世帯数と人口2019年(平成31年)1月1日現在(上尾市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[52]。高崎線東側となる柏座一丁目1〜4番地は隣接する上町などの学区に準ずる。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[53]。上尾市の町丁・大字別の事業所数としては、大字原市の385事業所に次いで多く、町丁では最も多い。
交通地区内の東部から北部にかけてJR東日本高崎線が通り、上尾駅が設置されている。 道路地区内に国道や主要地方道・一般県道は通っていない。都市計画道路富士見ヶ丘中妻線(浅間通り)の延伸が計画されている[8]。
バス上尾駅西口駅前より西上尾第一・第二団地方面や川越方面への路線バスが多数運行されている。なおバス乗り場がある西口駅前広場は谷津二丁目に立地する。 →詳細は「上尾駅 § バス路線」を参照
地域町内会祭事
寺社・史跡
施設![]() 上尾駅前や主要な市道沿いに多数の商業施設が立地する。街区公園は少ない。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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