栗原(くりはら)は、神奈川県座間市の大字。
地理
座間市の北東部に位置している。
歴史
この地は江戸時代まで高座郡栗原村であり相模野台地の内、座間野九カ村のひとつであった[注釈 1][注釈 3]。
明治の大合併で、高座郡座間村大字栗原となった。
1950年代以降、栗原地域から相次いで新しい大字・町丁が新設されていった[5][6]。
年表
現在、大字栗原の小字として、小池谷・小池東原・小池西原・小池原・中丸・芹沢・東原が現存する[21][22]。
敗戦後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 30]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 31][15][23]。
世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[30]。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[31]。
大字 |
事業所数 |
従業員数
|
栗原
|
66事業所
|
979人
|
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
施設
その他
日本郵便
脚注
注釈
- ^ 新戸村・磯部村・座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】『座間の地名』16頁
- ^ 中和田野(上鶴間村中和田持)、谷口野(上鶴間村谷口持)、宇野森野(鵜野森村持)、木曽野(淵野辺村・武蔵国多摩郡木曽村・武蔵国多摩郡根岸村三ヵ村入会)、矢部野(上矢部村・上矢部新田村二ヵ村入会)、九沢野(小山村・橋本村・上相原村・下九沢村・上九沢村・大島村・田名村・津久井郡上川尻村・津久井郡下川尻村九ヵ村入会)、溝野(上溝村・下溝村・当麻村三ヵ村入会)、座間野(磯部村・新戸村・座間宿村・座間入谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】・四ツ谷村・新田宿村九ヵ村入会)、柏谷野(柏ヶ谷村・深見村・深見新田・草柳村・栗原村内小池地区)、鶴間野(下鶴間村・公所村)の10区画。『座間の地名』16頁・『相模原市史第2巻』第2章第2節 相模野の入会とその開発229頁
- ^ 元禄12年(1699年)幕府は相模野を10の区画に分け[注釈 2]、区画毎に近隣の村々の共同使用として、正式に入会野の権利を認めることにした。『座間の地名』16頁・『相模原市史第2巻』第2章第2節 相模野の入会とその開発229頁
- ^ 現・明王 『座間の地名』p68
- ^ 大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村、座間町、大和村の九カ町村
- ^ 『座間広報』第48号 昭和30年6月5日発行p6。『相模原市史第4巻』p655には7,608人と記述あり。
- ^ 大和村が相模原軍都建設連絡委員会を1941年2月21日離脱。引用元:『相模原市史第4巻』p642 ●軍都計画と八か町村の合併/原町田の合併問題/相模原軍都計画誕生
- ^ 相模原市史第4巻p650には「昭和16年4月29日天長節の佳日、二町六か村は合併し、ここに面積108.71平方キロメートル、人口45,482人の町としては日本最大の相模原町が誕生した。※原文ママ」の記述あり。
- ^ 日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、この時点で一部地域を除き、ほぼ全ての日本軍の戦闘行為が停止された。『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
- ^ 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行p82【米駐留軍の陸士接収】には「昭和20年9月5日、米陸軍第一騎兵師団第四平站廠として米軍進駐」とある。
- ^ 相模原町は残りの区域で1954年(昭和29年)11月20日に市制施行し、人口約8万人の相模原市となった。
- ^ 完成は1964年(昭和39年)3月
- ^ 座間・座間入谷・新田宿は用水事業に加わらず。この三地区は水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である。『座間むかしむかし第25集』p8~p11相模が丘(芝原)の移り変わり5食糧難と畑地灌漑
- ^ 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効し、第二次世界大戦終結(日本の降伏)の1945年(昭和20年)9月2日以降、連合国軍占領下により停止状態にあった日本の主権が回復した日付に基づく。
- ^ 相模が丘の元の大字である座間と新田宿は用水組合に加入しなかったため用水を利用出来なかった(※新田宿・座間・座間入谷の三地区には水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である)。しかし水路に当たる畑の所有者は、苦労して入手した畑だったが喜んで提供した。東西二本の幹線水路を、きれいな相模川の水が勢いよく流れた。夏の作業の終わり土と汗で汚れた身体をこの水で洗った時の気持ち良かったこと。陸稲の畑に水を流した。昔は豊作で三俵くらいしか穫れなかった米も、六俵の収穫があった。長い間望んでいた、豊かな農地が生まれた。栗原は用水組合に加入したため栗原全域で灌漑用水を利用できた。『座間むかしむかし第25集』p8~p11相模が丘(芝原)の移り変わり5食糧難と畑地灌漑・『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 p48畑地灌漑事業の完成◇四・終戦~再び開拓
- ^ 1970年3月、用水を管理していた「相模原畑地灌漑土地改良区」が解散し通水終了。『座間の地名』p25
- ^ 『座間広報』第84号 昭和40年7月5日発行p2に「座間町水道事業のあらまし~給水開始は昭和30年1月※原文ママ」と記述。『座間広報』第134号 昭和44年6月1日発行p3に「15年を迎えた町水道事業~座間町営水道は昭和28年8月22日創設認可を得て、ただちに工事に着手、昭和30年1月1日給水開始※原文ママ」と記述。
- ^ 『座間広報』第66号 昭和35年7月20日発行p8『工場設置の状況』に記述あり。
- ^ 座間中学校が建設されたときに公募によって座間中学校の生徒が命名したものを選定。『座間の地名』p124
- ^ 『座間広報』第77号昭和39年3月31日発行p1に「昭和38年7月、行政道路の中央部から南側へ小池の一端にかけ用地約15万坪売買契約締結、昭和39年1月農林省の転用認可も交付され、昭和39年3月12日会社側で地鎮祭執行」との記述あり。
- ^ 『座間広報』第77号昭和39年3月31日発行p1
- ^ 『座間広報』第77号昭和39年3月31日発行p1
- ^ 例 旧表記・厚木xx番→新表記・0462-21-00xx。※厚木局管内市内局番:厚木・海老名21。昭和43年11月海老名電話交換局・有馬電話交換局開局に付き、海老名31、有馬38に変更。
- ^ 座間町(相模台の町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部・新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年当時。『相模原津久井・町田の電信電話史』p56・p139
- ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx。『座間広報』第82号 昭和40年5月20日発行p3
- ^ 『座間広報』第149号 昭和46年1月1日発行p3に「大字明王が誕生~飛び地番の混在を解消~昭和43年から施行していました、明王土地区画整理事業の工事が完了しました。町では将来の字区域などの整理を考慮して、この区域を明王と大字変更することになりました。」と記述あり。
- ^ 1998年(平成10年)8月3日、緑ケ丘へ移転、座間緑ケ丘郵便局と改称。
- ^ 『広報ざま』第25号 昭和48年11月1日発行p2に「本市には10の大字がありますが~地域によっては数個の大字が入り乱れており日常生活に多くの支障をきたしています。~消防車救急車、医師などが一刻を争うとき、なかなか目的地に到着できなかったり、郵便物、電報等が遅れたり、建物や人を探すのにむだな時間を費やしたりすることがあります~市では字名を全市的に統一する計画を進めておりますが、その最初の区域として特に大字が入り乱れている相武台地域を選び、昭和49年1月1日から実施することになりました。~なお地番については町名の整理が時宜を得た時点で年次的に整理していく計画ですので、当分の間は現在の地番をそのまま使用することになります。※原文ママ」と記述あり。
- ^ 緑ヶ丘土地区画整理事業換地処分公告があった日(1992年12月15日)の翌日。
- ^ ここで言う「帰農」は、戦後、軍属を解かれた者、退役軍人や復員除隊した者、陸軍士官学校の陸士生、外地からの引揚者が農業へ回帰することを言う。この周辺では旧陸士演習場払下げ地である相模原市南区新磯野・相模台・麻溝台を帰農と言う。
- ^ 『麻溝台地区の生い立ち』p83 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
出典
関連項目
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