相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名は、相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。
地理
神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し、街路網自体は直線的である。
町名の紆余曲折
当区域は元々相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、座間村・新田宿村の草刈場とされていた。それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった[注釈 1]。
江戸末期の嘉永6年(1853年)[注釈 2][注釈 3]にこの入会地が分割され、相模が丘は座間村・新田宿村・四ツ谷村に組み込まれた[7][注釈 5]。
旧地籍は、高座郡座間町の内、
大字座間北広野・中広野の各小字全域・南広野・元広野・元広野窪の行政道路以北(相模が丘一丁目〜四丁目)。
辰街道[注釈 6]を境界に大字新田宿飛地見分塚の大部分(相模が丘五丁目)。
江戸街道[注釈 7]を境に新田宿飛地見分塚の残り部分と新畑全域・大字四ツ谷飛地二ツ塚の行政道路以北(相模が丘六丁目)。
以上の各大字小字・飛地である[注釈 8][8]。
敗戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間字北広野、大字新田宿飛地をはじめとした相模が丘の宅地化が進行し、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)[注釈 9]、1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した[注釈 10][注釈 11][9]。
相模原市は1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目の町丁を起立し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町丁が起立されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台が隣接して併存することとなった。
1971年11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れること12年後1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際[10][注釈 12]、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目を起立し町丁に改編した。
歴史の時系列と詳細
この地は既に1880年、高座郡座間村字北広野(相模が丘一丁目)、新田宿村飛地字見分塚(相模が丘五丁目)、上鶴間村(相模原市南区南台五丁目)、新戸村(相模原市南区相模台二丁目)、各村の境界域(小田急相模原駅北口付近)[注釈 13]に中和田新開[注釈 14]が開墾され、上鶴間村分には人が住み着いて耕作していたが、1894年になって中和田新開の座間分に座間中宿出身者1人が居を構え入植に加わる[注釈 15]。1901年には開拓者たちは次々と府中道(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た[注釈 16]。
1919年には14戸にまでなった中和田新開は府中道(行幸道路旧道)と辰街道[注釈 17]の交差する未開地の中に小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の原点となった[注釈 18]。
1937年9月30日、市ヶ谷より陸軍士官学校がキャンプ座間の地に移転すると、1938年から高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院、陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・麻布大学ほか)が開設され、当時陸軍は小田原線・江ノ島線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区相模大野・東林間・旭町・豊町・栄町・南台・相南・松が枝町)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台)磯部(現・相模原市南区相模台・相模台団地・桜台)、座間町新田宿飛地見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)・座間字北広野・座間字中広野(現・座間市相模が丘一丁目~三丁目)の地域を原町田の一部としてまとめて扱うことが多く、電信電話は町田郵便局の管轄であった。相模が丘の大部分が相模原MAであるのはその名残である[注釈 19][注釈 20]。
大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院[11][注釈 21]の進出である。1938年3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、中和田新開を通過していた小田原線上の座間町と大野村の行政界に相模原駅[12][13][注釈 22][注釈 23]を開業し、同駅と同病院を結ぶ街路[注釈 24]周辺が市街化する契機となった[注釈 25]。
新田宿飛地(相模が丘五丁目・六丁目)は、他の地域同様、江戸時代末期文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成したが[14]、本村から遠く、通いでの耕作は大変であったので、所有者は畑に植林して松林とした[注釈 26]。小田急線が開通して4年後、1931年に長野県から移住した人[15]を皮切りに、旧陸軍士官学校ほか軍用地買収[16]が1936年6月から行われ建設が始まった1937年から1943年にかけて、新田宿飛地見分塚(相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。東京市三河島から陸軍関係施設の建設に従事した人[17]、神田の青果問屋の番頭だった人[17]、練馬の大地主で漬物屋だった人は陸軍に土地を買収されたため相模が丘に移ってきた[17]。東林間水道新開から移住した人、様々な理由・所縁で相模が丘に移住して来た[18]。皆、昭和十八年までにこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[19]。戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅一帯を相模台と呼んでいた[20]。
戦前・戦中・戦後にかけて、相模が丘・広野台・小松原は幸い軍用地の買収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[21]。
敗戦後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 27]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 28]。その政策に基づき農業集落として「相模台」とされた[22][23][24]。
この地は地下の水脈が約25mと深く、その上関東ローム層という火山灰土の不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので主に桑園として利用され、麦・陸稲・甘藷・大根なども栽培した[注釈 29][注釈 30]。戦後の1949年に県営相模原畑地灌漑事業が着工され、1953年、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[注釈 31][注釈 32]。1955年に町営水道が完成、1958年には相模が丘六丁目に小田急住宅が開発分譲され[25]、市街地化。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え、1969年度の年度末、1970年3月に通水を終了した[注釈 33]。
年表
- 江戸時代
- 明治
- 昭和(戦前・戦中)
- 昭和(戦後)
- 平成
- 2000年:電話番号逼迫に伴い相模が丘の一部、市外局番(0427地域)が042へ3桁化。(東京23区03・川崎044・横浜045と違い桁ずらし3桁化)。0427-44-xxxx→042-744-xxxx。
- 2001年:電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化。(東京23区03・川崎044・横浜045と違い桁ずらし3桁化)。0462-51-xxxx→046-251-xxxx。
- 2010年4月1日:相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。
世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 |
世帯数 |
人口
|
相模が丘一丁目
|
2,644世帯
|
4,529人
|
相模が丘二丁目
|
1,928世帯
|
3,478人
|
相模が丘三丁目
|
1,622世帯
|
3,033人
|
相模が丘四丁目
|
1,906世帯
|
3,520人
|
相模が丘五丁目
|
2,655世帯
|
4,822人
|
相模が丘六丁目
|
1,728世帯
|
3,820人
|
計
|
12,483世帯
|
23,202人
|
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[71]。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[72]。
丁目 |
事業所数 |
従業員数
|
相模が丘一丁目
|
130事業所
|
1,711人
|
相模が丘二丁目
|
73事業所
|
420人
|
相模が丘三丁目
|
55事業所
|
291人
|
相模が丘四丁目
|
72事業所
|
642人
|
相模が丘五丁目
|
151事業所
|
784人
|
相模が丘六丁目
|
58事業所
|
1,374人
|
計
|
539事業所
|
5,222人
|
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
交通
鉄道
町内に鉄道駅はない。
バス
- 座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線
- Bコース(小松原・病院経由コース)
- Cコース(相模が丘コース)
道路
施設
総本山別院寺院
その他
日本郵便
参考文献
- 『座間市史第4巻』
- 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
- 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』発行:昭和61年
- 『座間むかしむかし第1集』発行:昭和32年10月15日 発行者:座間町教育委員会
- 『座間むかしむかし第3集』発行:昭和49年5月20日 発行者:座間市教育委員会
- 『座間むかしむかし第6集』発行:昭和57年1月16日 発行者:座間市教育委員会
- 『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会
- 『広報ざま縮刷版 第1巻』
- 『広報ざま縮刷版 第2巻』
- 『相模原市史第2巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和42年3月
- 『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日
- 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著
- 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行
- 『鶴間新町のルーツを探る座談会』大和市市史編さん事務局
- 『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行
脚注
注釈
- ^ 狭義には、座間村で古くから入会地としていた相模が丘・広野台・相模原市南区相模台を、広義には座間野九ヵ村(磯部村・新戸村・座間宿村・座間入谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】・四ツ谷村・新田宿村)の入会地を「芝原」と言う。『座間の地名』15頁、『座間むかしむかし第3集』字名の起こり4頁
- ^ この年から芝原の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し座間村・新田宿村・座間入谷村・四ツ谷村の各戸に平等に分割され耕作が始まった。栗原村域の開墾は慶応4年(1868年)にはじまった。『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』 60頁・61頁、『座間の地名』18頁、『座間むかしむかし第1集』18頁芝原の開墾、『座間むかしむかし第3集』字名のおこり4頁、『座間むかしむかし第3集』17頁~19頁・相模台の昔、『座間むかしむかし第3集』巻末 座間市略年表
- ^ 「小池窪」(現・座間市相武台二丁目)東方に広がる台地で辰街道までを「広野(ひろの)」言う。芝原の一部で「広野」は明治初年につけられた地名である。昭和3年刊行の土地宝典には東半分の北から「北広野」「中広野」「南広野」(以上相模が丘一丁目~四丁目)、西半分の北から「元広野久保」「元広野」(広野台一丁目)以上の小字がある。『座間の地名』89頁
- ^ 当該地域は1951年1月に統合され高座郡相模原町大字新磯野が起立した。
- ^ 小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村、新戸村、座間村北広野、新田宿村飛地見分塚の各村が境界を接する区域となり、やがて1889年の明治の大合併により高座郡大野村大字上鶴間<現・相模原市南区南台>、新磯村大字新戸・大字磯部[注釈 4]<現・相模原市南区相模台>、座間村大字座間字北広野・大字新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘>となった
- ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近→相模原市役所本庁の近所→弥栄→相模原ゴルフクラブの中→麻溝台一等三角点の傍→国立病院機構相模原病院の敷地内→国立病院通り→小田急相模原駅の南側→相模が丘・小松原→大和市上草柳を通って藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)向かっているからとも、また慶安3年の中和田村と座間村との境争論の絵図(『相模原市史第2巻』 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図)にも描かれてるように、相模川流域の村々と境川(高座川・たかくらがわ)流域の村々との領分を二つに分ける境界として、相模野台地の真ん中を「断ち割る」ようにして走る道だからとも言われている。明治期の篠原新開や中和田新開、下溝新開などの開墾入植は、すべてこの道路沿いで行われている。国立病院機構相模原病院より以北は、陸軍演習場の開設により、道筋の痕跡はなくなっているが、昭和11年までは地域の人々にとって重要な道路であった。引用元:『麻溝台地区の生い立ち』10頁・11頁 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会、『座間の地名』15頁・16頁
- ^ 相武台前駅踏切を渡り相模が丘に向かう道。相模野小学校下、元広野と元広野窪の境界道である小池窪の坂を直進し農道(現・座間街道)を渡り、相模が丘中部(三丁目と四丁目の境界道路・五丁目と六丁目の境界道路)を縦貫し、東海大学付属相模高等学校・中等部と相模カンツリー倶楽部の間の道を通り、八王子道(滝山道)を渡り、大和市下鶴間公所(ぐぞ)、鶴間村町谷原(町田市南町田の町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿で大山街道(矢倉沢往還)に合流し江戸三宅坂へ向かい日本橋に通ずる道。『座間むかしむかし第25集』相模が丘(芝原)の移り変わり 3街道の移り変わり5頁・6頁
- ^ 『座間の地名』付録 昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」
- ^ 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』 第2部-1、相模が丘・広野台68頁
- ^ 『座間広報』第64号 昭和34年7月15日発行1頁に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。※原文ママ」と記述あり。『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』64頁。
- ^ 『座間の地名』26頁・付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」
- ^ 不動産登記法に基づく地番は、1959年4月20日に高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設した際、新たに付け直した地番のまま。
- ^ それらの村は1889年の明治の大合併により同郡座間村(大字座間字北広野、大字新田宿字飛地見分塚)、大野村(大字上鶴間)、新磯村(大字新戸、大字磯部)となった。
- ^ 座間分の本村である座間村や座間入谷村、新田宿村、四ツ谷村、栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集』4頁字名のおこり。中和田新開の詳細は南台の頁を参考されたし。
- ^ 『座間の地名』20頁①中和田新開・『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)
- ^ 1901年は入植者が新たに6軒加わった。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)、『座間の地名』20頁①中和田新開
- ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近→相模原市役所本庁の近所→弥栄→相模原ゴルフクラブの中→麻溝台一等三角点の傍→国立病院機構相模原病院の敷地内→国立病院通り→小田急相模原駅の南側→相模が丘・小松原→大和市上草柳を通って藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)向かっているからとも、また慶安3年の中和田村と座間村との境争論の絵図(『相模原市史第2巻』 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図)にも描かれてるように、相模川流域の村々と境川(高座川・たかくらがわ)流域の村々との領分を二つに分ける境界として、相模野台地の真ん中を「断ち割る」ようにして走る道だからとも言われている。明治期の篠原新開や中和田新開、下溝新開などの開墾入植は、すべてこの道路沿いで行われている。国立病院機構相模原病院より以北は、陸軍演習場の開設により、道筋の痕跡はなくなっているが、昭和11年までは地域の人々にとって重要な道路であった。引用元:『麻溝台地区の生い立ち』10頁・11頁 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会、『座間の地名』15頁・16頁
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 31頁◇軍都計画。『相模原津久井・町田の電信電話史』69頁・70頁
- ^ 1965年5月30日、座間電報電話局開局の際、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。『相模原津久井・町田の電信電話史』56頁・139頁。『座間広報』第82号 昭和40年5月20日発行3頁。
- ^ 高座郡大野村上鶴間と新磯村磯部字大野に跨っている。昭和4年刊行『土地宝典』高座郡新磯村地番反別入図。『座間広報』20号昭和26年3月10日発行2頁に「国立相模原病院 所在地:相模原町上鶴間4719番地」と記載。
- ^ もう一つには、同じく病院前駅として開業、翌昭和14年3月14日、臨時東京第三陸軍病院天皇陛下行幸につき相模原駅と改称という記述あり。引用元:原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、80頁。
- ^ 1941年3月1日小田原急行鉄道は小田急電鉄と改称、同年4月5日に小田急相模原駅と改称。
- ^ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(国立病院通り)。往時は高座郡座間村大字座間字北広野・大字新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘>、大野村大字上鶴間<現・相模原市南区南台>と新磯村大字新戸・大字磯部<現・相模原市南区相模台>の境界となっていた。
- ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 33頁◇臨時東京第三陸軍病院)、『麻溝台地区の生い立ち』10頁・11頁 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
- ^ 『座間むかしむかし第25集』 相模が丘(芝原)の移り変わり1はじめに1頁・2頁
- ^ ここで言う「帰農」は、戦後、軍属を解かれた者、退役軍人や復員除隊した者、陸軍士官学校の陸士生、外地からの引揚者が農業へ回帰することを言う。相模台・新磯野・麻溝台など帰農と名の付いている農業集落は旧陸士演習場払下げ地である。
- ^ 『麻溝台地区の生い立ち』83頁 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
- ^ 『座間の地名』89頁、『座間むかしむかし第25集』相模が丘(芝原)の移り変わり2頁・3頁
- ^ 座間の翁が青年時代、広野台の一番高い所である行政道路(座間街道)相武台跨線橋で詠んだ句「麦青し見えるところに牛つなぐ」『座間むかしむかし第25集』戦前から戦後のまちの様子 3小田急線開通当時から戦後までの相武台19頁
- ^ 新田宿・座間・座間入谷の三地区には水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である。栗原は用水組合に加入したため、ひばりが丘二丁目~四丁目全域・五丁目の大部分、東原、さがみ野ほか栗原全域で灌漑用水を利用できた。『座間むかしむかし第25集』相模が丘(芝原)の移り変わり5食糧難と畑地灌漑8頁~11頁
- ^ 以下、相模原市相模台の項~しかし水路に当たる畑の所有者は、苦労して入手した畑だったが喜んで提供した。東西二本の幹線水路を、きれいな相模川の水が勢いよく流れた。夏の作業の終わり土と汗で汚れた身体をこの水で洗った時の気持ち良かったこと。陸稲の畑に水を流した。昔は豊作で三俵くらいしか穫れなかった米も、六俵の収穫があった。長い間望んでいた、豊かな農地が生まれた。引用元:『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 48頁 畑地灌漑事業の完成◇四・終戦~再び開拓。
- ^ 1970年3月、用水を管理していた「相模原畑地灌漑土地改良区」が解散し通水終了。『座間の地名』25頁
- ^ 相模野は全体で2000町歩(約2000ヘクタール)の広さを有しているが、この地は関東ローム層という火山灰土で地味も悪く、その上、地下の水脈が約25mと深く農地に適さないので原野のままになっていた。しかしこの原野には屋根を葺く茅・燃料になる雑木や葉・牛馬の飼料になる雑草・農作物の堆肥となる雑草や落葉などが豊富なので、周辺の村々は入会野として利用した。座間村でも古くから相模野の内、相模が丘・広野台・相模原市南区相模台などを入会野としていた。『座間の地名』15頁
- ^ 慶安2年(1649年)4月幕府が裁定を下し①北の境※は百八ツの供養塚を潰し百六の塚とし、南の境は水郷(みずのごう・大和斎場付近)とした。※上鶴間村中和田(相模原市南区南台五丁目)・新戸村(南区相模台二丁目)・座間村(座間市相模が丘一丁目)の境界点、辰街道と府中道旧道が交差する所。『座間むかしむかし第六集』15頁~23頁 夏草騒動・『相模原市史第2巻』第2章第2節 秣場争い238頁・『相模原市史第2巻』 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図・『東林間開発百年のあゆみ』 昭和62年11月3日発行 71頁 五・相模野の秣場争い◇二・地域の風土・歴史。②今まで分かりにくかった境界に幅3.6mの道路(都市計画道路相模原二ツ塚線 通称・東海相模通り)を造り、辰街道と境界道路(東海相模通り)を結ぶ接点に目印として(東海大学付属相模高等学校・中等部の西側、扇の要にあたるところ)検(見)分塚(高さ2~3mの塚)を築いた。③座間側の主張である徳川家康入国当時の境界線を認めた。以上『座間の地名』15頁・16頁。
- ^ 前年の正保3年(1646年)にも座間村と上鶴間村中和田地域とで境界争いが紛糾した。『相模原市史第2巻』第2章第2節 秣場争い238頁・『座間の地名』 執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行 15頁・『東林間開発百年のあゆみ』 昭和62年11月3日発行 71頁 五・相模野の秣場争い◇二・地域の風土・歴史
- ^ 分村の際、境域については元は一つの村であったので<田畑・山林等犬牙錯雑して区別すべからず>と達しがあり、入り組んだものが後世に残ることになった。座間の地名38頁
- ^ 中和田野(上鶴間村中和田持)、谷口野(上鶴間村谷口持)、宇野森野(鵜野森村持)、木曽野(淵野辺村・武蔵国多摩郡木曽村・武蔵国多摩郡根岸村三ヵ村入会)、矢部野(上矢部村・上矢部新田村二ヵ村入会)、九沢野(小山村・橋本村・上相原村・下九沢村・上九沢村・大島村・田名村・津久井郡上川尻村・津久井郡下川尻村九ヵ村入会)、溝野(上溝村・下溝村・当麻村三ヵ村入会)、座間野(磯部村・新戸村・座間宿村・座間入谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】・四ツ谷村・新田宿村九ヵ村入会)、柏谷野(柏ヶ谷村・深見村・深見新田・草柳村・栗原村内小池地区)、鶴間野(下鶴間村・公所村)の10区画。『座間の地名』16頁・『相模原市史第2巻』第2章第2節 相模野の入会とその開発229頁
- ^ 座間野は新戸村・磯部村・座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】の9ケ村の入会野で、その野元権は座間宿村と座間入谷村が持っていた。『座間の地名16頁』
- ^ 広野台の元広野・元広野窪、相模が丘の一丁目~四丁目(北広野・中広野・南広野)は元禄年間に座間宿村分とされた。『座間の地名』89頁
- ^ 座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村・磯部村・新戸村に分割した。
- ^ 栗原分の開墾は慶応4年(1868年)に始まった。引用元:『座間の語り伝え 村制編1・村の起こり 』 60頁・61頁、『座間の地名』18頁
- ^ 座間宿村は1868年に座間村になった。『座間の地名』18頁
- ^ 現・明王 『座間の地名』68頁
- ^ 『座間の地名』20頁①中和田新開・『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)
- ^ 鉄道省監督局「地方鉄道、軌道事業の現況並に異動」『電気協会雑誌』第196号、日本電気協会、1938年4月、附録4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 1941年4月5日に小田急相模原駅と改称。
- ^ 旧道路法からの引継路線(神奈川県)昭和28年2月10日。告示第54号
- ^ 『相模原市史第4巻』655頁には7,608人と記述あり。
- ^ 『相模原市史第4巻』650頁には「昭和16年4月29日天長節の佳日、二町六か村は合併し、ここに面積108.71平方キロメートル、人口45,482人の町としては日本最大の相模原町が誕生した。※原文ママ」の記述あり。
- ^ 日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、この時点で一部地域を除き、ほぼ全ての日本軍の戦闘行為が停止された。『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
- ^ 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行82頁【米駐留軍の陸士接収】には「昭和20年9月5日、米陸軍第一騎兵師団第四平站廠として米軍進駐」とある。
- ^ 『鶴間新町のルーツを探る座談会22頁「行政道路(座間街道)の工事」大和市市史編さん事務局』・『座間市史第4巻』 272頁基地の町の実情・501頁米軍移駐にともなう交通対策につき陳情・『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』69頁
- ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日に市制施行し人口約8万人の相模原市が発足した。
- ^ 完成は1963年度の年度末である1964年3月。
- ^ 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効し、第二次世界大戦終結(日本の降伏)の1945年(昭和20年)9月2日以降、連合国軍占領下により停止状態にあった日本の主権が回復した日付に基づく。
- ^ 相模が丘の元の大字である座間と新田宿は用水組合に加入しなかったため用水を利用出来なかった(※新田宿・座間・座間入谷の三地区には水田があり困らないこと、工事負担金と使用量が相当高額になってしまうことが理由である)引用元:『座間むかしむかし第25集』 相模が丘(芝原)の移り変わり 5食糧難と畑地灌漑8頁~11頁。
- ^ 以下、相模原市相模台の項~しかし水路に当たる畑の所有者は、苦労して入手した畑だったが喜んで提供した。東西二本の幹線水路を、きれいな相模川の水が勢いよく流れた。夏の作業の終わり土と汗で汚れた身体をこの水で洗った時の気持ち良かったこと。陸稲の畑に水を流した。昔は豊作で三俵くらいしか穫れなかった米も、六俵の収穫があった。長い間望んでいた、豊かな農地が生まれた。引用元:『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著 48頁 畑地灌漑事業の完成◇四・終戦~再び開拓。
- ^ 1969年度の年度末1970年3月、用水を管理していた「相模原畑地灌漑土地改良区」が解散し通水終了。『座間の地名』25頁
- ^ 路線認定告示で用いられる整理番号38。
- ^ 『座間広報』第66号 昭和35年7月20日発行8頁「工場設置の状況」に記述あり。
- ^ 『座間広報』第64号 昭和34年7月15日発行1頁に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。※原文ママ」と記述あり。
- ^ 町田市(柿生郵便局管内の三輪町を除く)、相模原市上鶴間・麻溝台・鵜野森全域、大沼の大部分、磯部・新磯野・古淵の一部、座間町相模台の大部分※1960年6月19日当時。
- ^ 旧相模原電報電話局、後の橋本分局。市外局番027・市内局番7 『相模原津久井・町田の電信電話史』48頁。
- ^ 市外局番0274市内局番なし 『相模原津久井・町田の電信電話史』43頁。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁。1961年11月5日の全国ダイヤル自動即時化まで、市外局番:東京23区03、川崎04、日吉046、中原047、溝ノ口048、登戸049、横浜05、藤沢066、武蔵野三鷹022、武蔵府中0236、調布024、立川025、八王子026、青梅028,町田0274、相模原(旧相模原電報電話局、後の橋本分局)027、川口082、浦和086、市川073、松戸0739、船橋074、千葉072、野田0712、柏0716、大阪06。名古屋は交換手扱い。
- ^ 経済復興にともない加入申し込みは増加する一方で、電話の架設が追いつかない状況、すなわち〈積滞〉が深刻化していた。この時町田局管内は1000回線を超え、小田急相模原駅周辺には既に1000番台が割り当てられており新たに4000番台が、原町田区域・相模大野駅周辺区域には2000番台・3000番台が割り当てられた。市外局番設定0274、市内局番なし 小田急相模原駅周辺・例①旧表記・町田1xxx番→新表記・0274-1xxx、例②旧表記・町田xxx番→新表記・0274-4xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶旧表記・町田xx番→新表記・0274-20xx、例❷旧表記・町田xxx番→新表記・0274-2xxx、例❸旧表記・町田xxx番→新表記・0274-3xxx。『相模原津久井・町田の電信電話史』43頁
- ^ 1961年11月5日、全国ダイヤル自動即時化に際し、都内除く南関東地区に04が当てられた<日本における市外局番の変更>。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』51頁 川崎044(1974年2月23日市内局番3桁化21→211、28→288、72→722、82→822、91→911)、日吉0446(1966年7月10日044-61に変更→1990年10月1日、現行の045-561に変更)、中原0447(1966年12月4日044-72に変更)、溝ノ口0448(1964年10月25日044-82)に変更、登戸0449(1963年12月8日044-91に変更。1965年12月12日柿生交換局開局につき自動即時化044-98、1965年11月26日登戸局百合丘分局開設につき自動即時化044-96)、横浜045、戸塚04692(手動即時、1962年3月11日自動即時化045-88に変更)、武蔵野三鷹0422、田無0421、武蔵府中04236、調布0424、八王子0426、青梅0428、町田04274、相模原(後の橋本分局)0427、小田原0465、国府津04650(※1963年10月1日、0465-47に変更)、箱根0460、湯河原04606、厚木0462(※1963年12月5日ダイヤル自動即時化)、大和0462(※1964年2月23日ダイヤル自動即時化)、煤ヶ谷046288(手動即時)、藤沢0466、鎌倉0467、茅ケ崎04670、横須賀0468、三浦04688、逗子04693、大磯・二宮・秦野0463、西秦野0463-01、平塚0463(※1964年5月31日ダイヤル自動即時化)、川口0482、浦和0486、越谷0489、市川0473、松戸04739、船橋0474、千葉0472、野田04712、柏04716、名古屋052、大阪06となった。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁 小田急相模原駅周辺・例①04274-4xxx、例②04274-1xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶04274-20xx、例❷04274-2xxx、例❸04274-3xxx。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』57頁 特殊番号(非自動化地域への通話)103・108(受話器を取り103ないし108をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、電話を切らずに待つ・手動即時通話)、106(受話器を取り106をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、一旦電話を切って待つ・手動待機通話)
- ^ 例①旧表記04274-4xxx→新表記0427-22-4xxx、例②例旧表記04274-1xxx→新表記・0427-22-1xxx、例③旧表記04274-20xx→新表記0427-22-20xx、例④旧表記04274-2xxx→新表記0427-22-2xxx、例⑤旧表記04274-3xxx→新表記0427-22-3xxx。
- ^ 『相模原津久井・町田の電信電話史』50頁 相模原市の町田局管内を除く、旧・相模原局(後の橋本分局・市外局番0427)外、各手動式交換局を統合した新・相模原電報電話局開局につき市内局番設定(52<中央、相模原、清兵衛新田、淵野辺、矢部、上溝・大沼の一部>・62<上溝、田名、大島>・72<橋本、相原、下九沢、上九沢>・78<当麻、下溝>)。同時に町田局市外局番04274を相模原局と同じ0427に変更、市内局番22を設定。相模原局‐町田局間、準市内扱いで単一料金にて通話可能となる。※1964年1月30日当時。
- ^ 例①0427-22-4xxx→0427-44-4xxx、例②0427-22-1xxx→0427-44-1xxx、例③0427-22-20xx→0427-42-20xx、例④0427-22-2xxx→0427-42-2xxx、例⑤0427-22-3xxx→0427-42-3xxx ※1969年2月当時。
- ^ 座間町(相模台の町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部・新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年当時。『相模原津久井・町田の電信電話史』56頁・139頁
- ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx。『座間広報』第82号 昭和40年5月20日発行3頁
- ^ 1972年4月栗原駐在所と共に、相模台派出所・栗原派出所に昇格。『座間広報』第5号 昭和47年3月1日発行1頁
- ^ 2025年2月27日、橋梁に刻印確認。
出典
関連項目