毛利元徳
毛利 元徳 / 定広(もうり もとのり / さだひろ)は、江戸時代末期から明治時代の大名、華族。位階・勲等・爵位は、従一位勲一等公爵。毛利氏28代当主で長州藩14代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。 生涯長州藩の支藩である徳山藩8代藩主・毛利広鎮の十男として生まれる。母は三宅才助の娘で側室の多喜勢(滝瀬)。広鎮は還暦を迎えた2年前の天保7年(1837年)に隠居し、すでに成人していた七男(元徳の異母兄)の元蕃が藩主を継いでいた。元徳の兄には他に福原元僴(越後、長州藩家老・福原家を継ぐ)、秋元志朝(山形藩主、のち館林藩主)らがいる。徳山毛利家は長州藩の藩祖である毛利輝元の男系の血筋を伝える毛利家の分家であったが、広鎮の曾祖父・毛利元次(輝元の孫)が毛利家の後継候補から外されたことが元で、長州藩内に確執を生んでいた。輝元直系の長州藩主は、4代吉広以来となる。 嘉永5年(1852年)2月27日、長州藩主・毛利慶親(のちの敬親)に嗣子がないため、その養子となる。はじめは広封(ひろあつ)と名乗るが、安政元年(1855年)2月18日、養父・慶親の嫡子となった。同年3月9日、従四位下侍従・長門守に叙任する。また、13代将軍・徳川家定から偏諱(「定」の一字)を受けて定広(さだひろ)と名乗った。 安政5年(1858年)、長府藩主・毛利元運の次女である銀姫(安子)と婚儀を挙げる。銀姫は元徳と前後して慶親の養女となっていた。 元治元年(1864年)7月14日、禁門の変に際し三条実美らをともない、兵を率い京都に向かう。だが7月21日、禁門の変の敗北を知り、山口に引き返す。8月22日、幕府により官位を剥奪された。また、「定」の字を召し上げられて広封に戻す。明治維新後に元徳と改名する。 元徳は慶応4年(1868年)2月に上洛し、3月には議定に就任する。明治2年(1869年)6月4日、敬親の隠居で跡を継ぎ、従三位・参議となった。就任後、まもなく版籍奉還で知藩事となった。明治4年(1871年)、元徳は廃藩置県で免官されて東京へ移り、第十五国立銀行頭取、公爵となる。帝国議会開設に伴い、明治23年(1890年)2月、貴族院公爵議員に就任した[1]。 明治29年(1896年)12月23日に薨去した。57歳没。国葬が営まれた。号は忠愛公。 栄典![]()
系譜![]()
系図実際の親子関係のみを示す。
偏諱を受けた人物元徳時代 脚註
参考文献
登場する作品
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia