浜口京子
浜口 京子(はまぐち きょうこ、1978年〈昭和53年〉1月11日 - )は、日本の女子レスリング選手。武蔵野学院大学日本総合研究所客員教授。ジャパンビバレッジホールディングス所属。日本オリンピック委員会選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。身長170 cm。血液型A型。独身。 東京都台東区出身。武蔵野中学校卒業。武蔵野高校中退。父はプロレスラーのアニマル浜口(浜口平吾)。別表記(戸籍上の表記)は濱口 京子。オリンピックに3大会連続出場した記録を持つ[1]。 来歴中学時代は水泳をやっていたが、ある時期より女子プロレスラーになることを志望。父・アニマル浜口が経営するアニマル浜口レスリング道場で父の指導のもとボディビルのトレーニングをするようになり、プロレスラー志望の男性選手に混ざって14歳からレスリングを始める[2]。 1993年、代々木クラブ所属でレスリング全国大会デビュー[3]。全日本女子レスリング選手権61 kg級、全日本女子レスリングオープントーナメント61 kg級と柔道家の宮崎未樹子(住友海上火災保険)の足技に苦戦し連続フォール負け。号泣。1996年に全日本選手権70 kg級で優勝すると、翌1997年には世界選手権を制覇。実績を重ね、2004年アテネオリンピックには女子レスリング72 kg級の日本代表として出場し、銅メダルを獲得(準決勝で王旭(中国)に敗退)。また、開会式では日本選手団の旗手を務めた。 2006年の世界選手権女子72 kg級決勝で、スタンカ・ズラテバ(ブルガリア)のバッティング(頭突き)を顔面に受け負傷。審判団に対し父が抗議をするが、ズラテバの当該行為にはペナルティが課せられないまま試合は続行。浜口は敗戦し、同選手権72 kg級2位となった。試合後、浜口の負傷は全治4か月の鼻骨骨折(4ヶ所)と判明。日本レスリング協会は、ズラテバの危険行為に関する抗議文書を国際レスリング連盟およびブルガリアレスリング協会に送付した[4](後に当該審判の降格処分が決定)。 2005年および2006年の世界レスリング選手権の決勝で敗退。最終順位は2年連続で2位。2007年5月にビシケクで行われたアジア選手権72 kg級の準決勝にて、アテネオリンピックで敗れた王旭を2対1で下し、つづく決勝ではオリガ・ジャニベコバ(カザフスタン)を2対1で下して優勝した。同年9月に世界レスリング選手権2回戦で、因縁となるズラテバと対戦。今度は技の掛け合い(攻防)の際の微妙な状況でズラテバにのみポイントが加算されるという事態が発生した。これに対しスコアボードを叩いて抗議する浜口であったがビデオ映像のチェックは行われないまま試合は続行。結果はズラテバの勝利に終わり、敗戦した浜口はこの大会では北京オリンピック出場権を得ることはできなかった。これについて、日本レスリング協会は誤審だとして、国際レスリング連盟に対し審判に制裁を科すよう抗議した(後に、当該チェアマンが処分されている)。 2008年のアジア選手権72 kg級で優勝して出場権を得た北京オリンピックでは、準決勝で中国の王嬌に敗れたものの、2大会連続で銅メダルを獲得した。 2011年には、全日本選手権で男女を通じ歴代最多となる15度目の優勝を飾った[5]。 エピソード
出演番組テレビ番組
テレビアニメ
インターネット配信
出演ドラマ
出演映画
戦績
脚注出典
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia