渡辺孝一
渡邊 孝一(わたなべ こういち、1957年11月25日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(4期)。 総務副大臣、総務大臣政務官、防衛大臣政務官兼内閣府大臣政務官、北海道岩見沢市長(3期)を歴任。父は科学技術庁長官、衆議院議員を務めた渡辺省一。 概要東京都で生まれ、父・省一の故郷である北海道美唄市で育つ。北海道岩見沢東高等学校、東日本学園大学(現北海道医療大学)歯学部卒業。卒業後は歯科医院の勤務医を経て、1991年に岩見沢市で歯科医院を開業。1996年、岩見沢青年会議所理事長に就任し、岩見沢市PTA連合会会長や空知PTA連合会会長を務める。 2002年10月、岩見沢市長選挙に立候補。現職の能勢邦之岩見沢市長を4,000票超の大差で破り、初当選した。2006年、岩見沢市長再選(48年ぶりの無投票での当選であった)。2010年の岩見沢市長選では民主・自民・公明3党の与野党相乗りで3選。市長在職中は情報公開や企業誘致、医療・福祉の充実化に尽力。また市町村合併を推進し、北村・栗沢町を岩見沢市へ編入合併させた。2009年には経営破綻した岩見沢市内の大手ゼネコン・カツイの再建にも協力。一方で、市内の学校給食岩見沢共同調理所から発生した集団食中毒や、市内のごみ最終処分場の埋め立て量の改竄等を見逃した監督責任の不行き届きや対応の不手際で批判を受けた。 2012年6月、次期衆議院議員総選挙にかつて父・省一も立候補(落選)した北海道10区から立候補する意向を表明。自民党北海道連の北海道第10選挙区支部は、飯島夕雁の辞任により空席状態が続いていた同区支部長に渡辺を推薦し、党本部に公認を申請する方針を固めた。しかし、比例北海道ブロック選出の稲津久衆議院議員(公明党)も、次期衆議院議員総選挙に北海道10区から立候補する意向を表明していたため、自民党は北海道10区への候補擁立を見送る方針を決定。一方、渡辺の擁立に動いた自民党所属の北海道議会議員らは再度渡辺の公認を求め、自民党から公認が得られない場合は無所属で立候補する渡辺を支援する方針を固めた。 しかし、その後の党本部による調整により、北海道10区からは稲津が立候補し、渡辺は比例北海道ブロック単独1位での立候補が内定した[3]。2012年7月、岩見沢市議会議長に辞職願を提出し、市議会で辞任が了承された。同年12月の第46回衆議院議員総選挙で初当選。なお、当選後に入居した衆議院第1議員会館の部屋番号はかつて父・省一が衆院議員在職中に入居していた部屋番号である。 2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で再選。 2017年10月の第48回衆議院議員総選挙で比例区単独1位で3選[4]。11月1日の首班指名選挙では安倍晋三に投票したが[5][6]、投票用紙に自身の氏名を書き忘れたため無効票となった[7][8]。 2021年10月、第1次岸田内閣において総務大臣政務官に就任[9]。 同月の第49回衆議院議員総選挙で比例区単独2位で4選(前回2位だった鈴木貴子と順位入れ替え)[10]。 2023年9月、第2次岸田第2次改造内閣において総務副大臣に就任[11]。 2024年9月12日、自民党総裁選挙が告示され、旧岸田派からは林芳正と上川陽子の2人が立候補した。渡辺は林の推薦人に名を連ねた[12]。投票日前日の9月26日22時半頃、産経新聞は、麻生太郎が1回目の投票から高市早苗を支援するよう自派閥の議員に指示を出したとスクープした[13]。9月27日朝、岸田文雄首相は高市が決選投票に残る可能性が高いと踏み、「決選は高市氏以外。党員票が多い方に投じてほしい」と旧岸田派のメンバーに一気に指示を下ろした[14]。高市は1回目の議員投票で、報道各社の事前調査での30~40票を大きく上回る72票を獲得した[15]。党員数と合わせた得票数は1位だったが、決選投票で石破茂に敗れた。渡辺は1回目の投票では林に投じ[16]、決選投票では石破に投じた[16]。 2024年10月の第50回衆議院議員総選挙でも比例区単独で立候補したが、過去4回とは異なり比例順位の優遇措置がとられず、小選挙区候補者より下位の12位とされたため、落選した[17]。なお、この措置に対して一部の自民党支持者の離反を招いたと見られ、10区から立候補した公明党の稲津久も僅差で立憲民主党の神谷裕に敗れ、落選している[18]。 政策
発言
不祥事
所属団体・議員連盟選挙歴
脚注
外部リンク
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