第2次パーマストン子爵内閣![]() 第2次パーマストン子爵内閣(英語: Second Palmerston ministry)は、1859年6月から1865年10月まで続いた自由党党首第3代パーマストン子爵ヘンリー・テンプルを首相とするイギリスの内閣。結党されたばかりの自由党による最初の政権である。 歴史1851年、当時のジョン・ラッセル卿の第一次内閣において外務大臣を務めていた第3代パーマストン子爵ヘンリー・テンプルがラッセルによって外相を解任されて以来、ラッセルとパーマストンはホイッグ党内を二分して対立を続けた。しかし1859年6月2日、少数与党政権の保守党政権を打倒しようという機運が野党ホイッグ党内で高まる中、パーマストンがロンドン郊外リッチモンドにあるラッセル邸を訪問する形で両者は和解した。そして同年6月6日、ロンドンのティールームのウィリシズ・ルームズにおいてホイッグ党、ピール派、急進派の3野党が結集し、正式に自由党の結党が行われた[1]。 自由党は、翌6月7日にも保守党政権に内閣不信任案を提出して10日に可決させた。これに対して保守党政権の首相第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーは後継首相を指名せずに内閣総辞職した。自由党が結党されたばかりで党首も決まっていないためだった[1]。 パーマストンとラッセルはヴィクトリア女王から組閣の大命を受けた方を自由党の党首とすることで合意していた[1]。しかしパーマストンもラッセルも嫌っていた女王は、第2代グランヴィル伯爵グランヴィル・ルーソン=ゴアに組閣の大命を与えた。グランヴィルはホイッグ党2巨頭を差し置いて自分が組閣することは不可能と心得ていたので、パーマストンとラッセルから協力を取り付けられることを条件として組閣の大命を受けると女王に約束した。グランヴィルからの要請に対してパーマストンは協力を了解したが、ラッセルはかつての部下グランヴィルの下で働くことを拒否した。そのためグランヴィルは大命を拝辞することになった。これを知った女王はラッセルに怒り、パーマストンに組閣の大命を与えた[2]。 こうして1859年6月12日にパーマストンが2度目の首相就任を果たした。以降1865年10月18日に首相在職のまま死去するまで、6年以上にわたってパーマストンが首相を務めることになる。 閣僚(閣内大臣)
全大臣脚注注釈出典参考文献
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