船浮臨時要塞![]() 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 ![]() 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 船浮臨時要塞(ふなうきりんじようさい)は、かつて沖縄県西表島西部に設置された大日本帝国陸軍の臨時要塞である。 概要1919年(大正8年)頃から、有事の際は北海道・台湾・南西諸島に臨時要塞を建設することになり、1922年度(大正11年度)から中城湾(沖縄本島)、狩俣 (宮古島)、船浮(西表島)の臨時要塞建設計画などが作成された。 しかし、ワシントン条約廃棄後もこれらの施設は着工されず、ようやく開戦直前の1941年(昭和16年)7月に中城湾及び船浮の臨時要塞建設命令が発せられ、8月に着工し10月に工事を終了した。中城臨時要塞及び船浮臨時要塞には1941年(昭和16年)9月要塞司令部、要塞重砲兵連隊、陸軍病院などの編成が下令された配備につくことになった[1]。 このように、船浮要塞の建設は、1944年(昭和19)3月の第32軍創設から始まる沖縄戦準備とは性格の異なるものである。 船浮湾は、その深い入江が艦隊の前進基地として適地であることが早くから注目され、1882年(明治15年)から3度にわたって来島した農商務省・田代安定、1886年(明治19年)に視察した内務大臣・山県有朋、1904年(明治37年)年連合艦隊司令官・東郷平八郎などが視察し、「我が国の南門」として要塞または軍港としての整備の必要性が報告されていた[2]。 さらに、海軍も同様に南西諸島の戦略的地位を考えていた。 その一つは、艦隊の前進基地としての役割であった。大正期の海軍は、太平洋を横断してくるアメリカ艦隊の要撃集結地として奄美大島[注釈 1]を既に艦隊泊地整備していた[注釈 2]。また、沖縄島の中城湾と膨湖島は、対比島作戦部隊の発動基地として考えられていた[注釈 3]。 今一つの役割は、海上交通上の要地という考え方である。南西諸島は、南方からの重要物資の輸入や、補給作戦などにおいて、南方航路の哨戒や護衛のための中間基地として重要であると考えられていた。 特に海上交通の要地としての防備の必要性は、アメリカの反攻が強まる中で、南西諸島の防備対策という形で強化され、(1) 離島に対する防備、(2) 対潜水艦の護衛作戦・対潜作戦、(3) 米軍の攻略に向け陸軍部隊の増強を含めた防衛措置[3]と変遷することになった。 このような背景の中、船浮要塞は地理的位置ならびに港湾としての適性から、臨時要塞建設計画の候補となった。陸軍兵器本廠の作成した「昭和11年度要塞所要 (増加配属)兵器整備計画二関スル報告」によれば、「父島・奄美大島が要塞所要兵器、厚岸・宗谷・室蘭・中城湾・船浮・高雄が臨時要塞所要兵器、東京湾・由良・豊予・下関・佐世保・対馬・長崎・壱岐・舞鶴・津軽・永興湾・鎮海湾・旅順・基隆・影湖島が要塞増加配属兵器」[4]とランクを分け、配備計画したい大砲等の種類や砲弾の量・各地までの所要日数を報告している。具体的な砲台の設置場所などの基本的性格は既成であったことが窺える。 その後、「昭和15年臨時要塞建設二関スル件」からは、参謀総長と陸軍大臣との臨時要塞建設に関するやりとりが、「昭和十五年度 幌筵[注釈 4]・宗谷[注釈 5]・根室[注釈 6]・室蘭・中城湾・狩俣及船浮臨時要 塞建設要領書別冊ノカロク定メ照會ス迫テ異存ナクハ関係ノ向二連相成度又別冊ハ用済後返戻 相成度」[5][注釈 7]とあり、南北の国境地帯の沿岸を中心に要塞が建設されていったことが窺える。このように、船浮要塞は、太平洋戦争へのプロセスにおける陸軍の作戦の中に位置付けられる。 年譜
主要な施設船浮の海軍部隊船浮集落には要塞の部隊とは別に日本帝国海軍石垣島警備隊指揮下の海軍部隊が配備され、海底通信施設、特攻艇格納庫、弾薬倉庫等が設けられた[7][16]。 ※ 船浮臨時要塞の施設が置かれたのは船浮湾周辺の祖納、内離島、外離島、サバ崎であって、船浮集落には施設は設けられていない。 人事
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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