観音寺 (桜井市南音羽)
観音寺(かんのんじ)は、奈良県桜井市南音羽、音羽山の中腹標高600メートルに位置する融通念仏宗の寺院で山号は音羽山。音羽山観音寺と称される[1]。 寺号はたびたび変わり善法寺(ぜんぽう-)、興法寺(こうほう-)または香法寺、音石寺(おとわ-)または音羽寺とも称し、俗に「音羽の観音」といわれた。古くは法相宗、その後は天台宗の寺院であった[2][3]。 石畳参道の傍らには十三重石塔(鎌倉時代後期)、宝篋印塔(鎌倉時代末期)、永禄5年(1562年)銘の九品町石のうち4基などがあり、また参道の入口から石畳下まで十七町石が揃って残っている。境内の「お葉つきイチョウ」は奈良県指定天然記念物。本堂東方の経ヶ塚山への登山路下に「音羽の滝」がある。滝水は眼病に霊験があることで古くから知られる[2][3]。 歴史『音羽山略縁起』などの寺伝によれば、定慧が妙楽寺(多武峯寺、後の談山神社)をつくるにあたりその鬼門除けとしてこの寺をつくり、藤原鎌足作の梅木の千手千眼十一面観音像を安置したのに始まり、のち大同年間に子嶋寺の延鎮が堂舎を建てたという。ただし、定慧創建、延鎮堂舎建立の伝説に確証はない。『多武峯略記』末寺章には、音石寺は法号善法寺で旧記には天平勝宝元年(749年)に心融が建立し後に安倍氏に譲ったとあることを伝える。またある記では願主は安倍中納言国香で天長年中の建立ともいい、桧皮葺の房舎20宇が上院と下院に分かれていたと往年の隆盛を伝える[3]。 中世の寺史ははっきりしないが、寛政6年(1794年)、住僧浄観法印の時に堂宇を改築、文政年間に白空鶴順、文久のころに梵応心音が住し再興に尽くした[3]。 里から離れた山中にある檀家を持たない寺で近世は廃寺寸前であったが、1980年代末に後藤密榮(密栄)が寺に入る。後藤密榮は高野山で修行した尼僧で真言宗僧侶の資格は持っていたが、融通念仏宗の僧として一から修行し住職となり、本堂や本尊を修復した[4]。2016年からは寺の日常がテレビ番組『やまと尼寺 精進日記』で紹介され話題となった[5]。また、2021年から奈良新聞(ならリビング)に「音羽山観音寺後藤住職の花だより」が連載されている[6]。 沿革(この節の主要な出典[7])
堂宇・什宝等
年中行事
宿坊・精進料理所在地奈良県桜井市南音羽832 近隣情報観音寺を舞台とした作品
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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