長浜八幡宮
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 長浜八幡宮(ながはまはちまんぐう)は、滋賀県長浜市宮前町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。日本三大山車祭の「長浜曳山祭」で有名である。 祭神歴史源義家は、前九年の役の際に陸奥国の安倍貞任・宗任兄弟征討の祈願を弘仁5年(814年)に空海によって創建されたという新放生寺にて行った[1]。その後、安倍兄弟を討伐した義家は祈願の功があったとして[1]延久元年(1069年)に後三条天皇から新放生寺に勝軍山の勅号を賜わる[1]と同時に勅願を受けて、石清水八幡宮より祭神を分霊し[2]、神仏習合により新放生寺の境内にその境内社として社が創建された[1]、それが当宮の始まりであるという。 当宮の当初の名称は勝軍山新放生寺八幡宮の他、坂田八幡宮あるいは坂田別宮八幡宮ともいい [3]、新放生寺と合わせて社坊三百あまりを数え[1]、本宮の石清水八幡宮をも凌ぐほどであったといわれる[2]。 室町時代には室町幕府第6代将軍足利義教によって社殿が修補され、新放生寺に三重塔が建立されたり、太刀、神馬などが奉納されている[3]。また、天文5年(1536年)には後奈良天皇より社領三千石を賜わり[1]、小谷城主の浅井氏からも社領、太刀、神馬などが寄進されている[3]。 しかし、元亀年間(1570年 - 1573年)に行われた織田信長と浅井長政との戦いに巻き込まれてしまい、新放生寺と当宮はほとんど焼失して衰退したが、天正2年(1574年)に長浜城城主として羽柴秀吉が長浜に来ると、秀吉は新放生寺と当宮の荒廃を惜しみ[2]、寺社領七十石が寄進され[3]、堂舎、社殿の再建がおこなわれて天正19年(1591年)[1]に新放生寺と当宮の社殿は再興された。この史実は長浜曳山祭の起源ともいわれている[2]。 秀吉が再興をはかり新放生寺の塔頭・妙覚院や学頭寺・舎那院をはじめ二十余坊が新放生寺と当宮の周囲に再建され[3]、やがて七十坊となったが、慶長から寛永年間(1596年 - 1645年)には三十余坊、天和年間(1681年 - 1684年)には二十一坊と次第に衰えていった[1]。 明治時代になると神仏分離によって新放生寺とその塔頭は廃寺とされたが、学頭寺の舎那院のみは残され、新放生寺や塔頭の仏像や資料等が全て移された[1]。また、当宮は名称を長浜八幡宮と改めている。 1885年(明治18年)に雷火によって本殿が焼失したが、1889年(明治22年)に再建されている。1895年(明治28年)には県社に列せられている[3]。 2006年(平成18年)に神社本庁の別表神社に加列されている。 当宮の東隣に舎那院がある。 境内
摂末社
文化財滋賀県指定有形文化財
長浜市指定有形文化財長浜市指定名勝
祭事前後の札所所在地
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