「青い目の人形」(日本の皇室 に献上されたとされるアメリカ各州の代表人形の一部)
アメリカに送られる日本の人形(後述の「青い目の人形」に対する各地域の代表の答礼人形とは異なる)
青い目の人形 (あおいめのにんぎょう、英 : American Blue-eyed Dolls )は、1927年 (昭和 2年)に、アメリカ合衆国 から日本 に両国間の親善を目的として贈られた人形 (Friendship Dolls:友情人形 (ゆうじょうにんぎょう)またはAmbassador Dolls:人形使節 (にんぎょうしせつ))の日本における通称。本記事では日本より当時のアメリカへ返礼のために贈られた人形(Japanese Friendship Dolls:答礼人形 (とうれいにんぎょう))についても解説する。
概要
日米の人形交換を進めた渋沢栄一 と「青い目の人形」写真は渋沢史料館 所蔵
明治時代 末期の日露戦争 終結により日本 が満州 の権益を獲得する情勢になると、予てから中国進出を画策していたアメリカ合衆国との間では日本との政治的緊張が高まるようになっていた。また、アメリカ本国においても、日系移民が大量に移住 することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人によって、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、既に根付いていた人種的偏見等も相俟って(アメリカ合衆国の人種差別 )、1913年 のカリフォルニア州 議会による「外国人土地法(外国人土地所有禁止法)」の制定[ 1] や1924年 にアメリカ議会で「ジョンソン=リード法(通称・排日移民法 )」が成立した事もまた、日本国内での反米 感情を煽ることになり[ 2] 、両国民の対立を深める一因になった。
そのような情勢下で日米の対立を懸念し、その緊張を文化的に和らげようと、アメリカ人宣教師 のシドニー・ギューリック 博士(1860年 – 1945年 )が「国際親善、人と人との理解は大人になってからでは遅い。[ 3] 」と子供の世代からの国際交流を重視すべく「世界の平和は子供から」をスローガンとして掲げ[ 4] 、1925年 2月に「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を結成し、その第一事業として1927年 (1927年)3月、子供同士の友好親善に代わって、廉価の人形を通じての日本との親善活動が行われた[ 5] [ 注釈 1] 。予てからギューリックと親交があり、近代日本財界の重鎮であった渋沢栄一 (1840年 – 1931年 )も、1902年 から続いたアメリカへの度重なる渡航を通じて徐々に悪化していく日米関係を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担った。これに伴い日本側も渋沢を代表とした「日本児童親善会」を結成し、アメリカから贈られる人形の授受や諸手続きの事務処理を行い、文部省 や外務省 にはそれぞれ全国の児童たちへの人形の配布、関税に対しての優遇措置を依頼し、経費の方は渋沢関連の団体が大部分を負担する形を取った。この「人形計画」に対し、幼稚な発想だとか日本人への侮蔑を意識した冷笑的な向きもあったが、「生来子どもの心に偏見はなく、友情にあふれているもの、子ども世代から親善と理解を育てたい」の理念を掲げ、全米にこの運動を呼び掛けた。
1926年の夏にはアメリカから日本との親善活動の一環として子どもたちのサマースクール 、教会の日曜学校 、社交団体の参加者によって人形の洋服の製作が行われ[ 7] 同年10月-12月には全米より人形が集められた。翌年のひな祭り の日である1927年3月3日に間に合う様に日本郵船 等5社(他に大阪商船 (現・商船三井 )、Dollar Steamship Company(現・アメリカンプレジデントラインズ )、Kawasaki Roosevelt Line(現・川崎汽船 )、China Mutual Steam Navigation Company(現・ブルー・ファンネル・ライン (英語版 ) )[ 8]
)の前橋丸、アングル丸など12隻[ 9] に分乗し日本の子供に12,739体[ 注釈 2] の「青い目の人形」が、遅れて鳥羽丸 で各州代表の人形48体[ 注釈 3] と「ミス・アメリカ」及びワシントンD.C.が贈られた[ 10] 。
12,739体の「青い目の人形」はニューヨーク やサンフランシスコ を出港し、1927年1月17日に横浜港 へ到着したサイベリア丸をはじめ、次々に人形を乗せた船便が横浜 ・神戸 に着いた後、子どもたちへの人形に対する興味を通じて友情や平和への関心を導くために予め東京市内の有名デパートをはじめ、大阪など地方の会場での「青い目の人形」の展示会が催されたうえで、1927年3月3日 に東京の日本青年館 や大阪の大阪市中央公会堂 で歓迎式典が行われ[ 11] [ 12] 、全国各地の幼稚園・小学校等に配られて歓迎された(但し、数が限られていたこともあり[ 注釈 4] 、全ての小学校・幼稚園など(1927年当時:小学校25,546、幼稚園1,182、盲・ろう・養護学校118、高等女学校898、合計27,744(文部省管轄。これに保育所300余りも加わる)[ 14] [ 15] [ 注釈 5] )に配布されたわけではなく、大阪府のように抽選で決められた地域もある[ 16] [ 17] )。道府県ごとの人形の分配については均等とは限らず、文部省の基準により、師範学校の附属校や道府県庁所在地及び主要都市ならびに外国人の多く滞在する地区の幼稚園・学校などから優先されているが、あくまでも目安であり、あとは自治体の判断に委ねられることになった[ 18] [ 19] 。また、一部の人形は個人にも配布された。
「ミス・アメリカ」及びワシントンD.C. と48体の各州代表人形は天候不良による遅延のため、1927年(1927年)3月14日に到着し、3月18日に天洋丸 の船室で児童の出迎えを受け、横浜の本牧小学校で歓迎式典を開かれた後、皇室 に献上される為同月26日に東宮御所 に運ばれた(48体の各州代表人形は後に香淳皇后 より、内帑金(ないどきん)が下賜され、子供たちの利用が多い東京博物館(現国立科学博物館 )の上野別館に建てられた人形の家 (檜 材の5分の1の模型で1階は和室、2階が洋間のしつらえになっていて、庭には遊具が備えられていた[ 20] )にて、同数の日本人形と共に6/11~7/31の会期中に『全国学校科学教育展覧会』[ 21] で展示されていたが、1945年(19270年)1月の空襲による爆撃に伴う混乱によりそのほとんどが行方不明となった[ 22] 。)。
返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会による呼びかけで、人形が贈られた幼稚園・小学校等の児童から集められた募金を元に製作された「答礼人形」と呼ばれる市松人形 58体(「ミス大日本」及び1道3府43県や主要6都市・統治していた外地4箇所の名を冠した人形)が同年11月に天洋丸で日本からアメリカ合衆国に渡り、全米の児童たちの歓迎を受けたうえで各地の博物館・美術館などに寄贈された。
日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争 (第二次世界大戦 )中は、アメリカを敵視する風潮[ 注釈 6] の下で、敵性人形としてその多くが処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が非国民と思われる覚悟で人形を奉安殿 備え付けの棚や天井裏、床下、物置、石炭小屋、教員の自宅などに匿い、戦後に相次いで発見された。現存する人形は2024年8月現在、346体にすぎないが、日米親善と平和を語る資料として大切に保存され、学校の教科書[ 24] 、絵本や小説・アニメなどの題材にもなっている。答礼人形の方も不明になった人形があるものの、大半の人形が今もアメリカの各公共施設で保管されており、互いに人形の里帰りや「新・友情人形」寄贈などのイベントといった形で現在も子供同士の交流が行われている。
人形計画自体は当時の移民問題の解決に直結することはなかったが、戦争を挟んで人形を通じての文化的な交流を続けるうえでの一つのきっかけにはなったとも言える。
人形について
青い目の人形
寄贈の経緯
青い目の人形「エレナ」(横浜人形の家 ・レプリカ)
「青い目の人形」は、シドニー・ギューリックが1888年 に日本を訪問して以来、布教や教育活動を行う一方で日本の人形に関する古来の文化を知ってきた経験から[ 10] 、日本との親善を目的として「日本の雛祭り に人形を送ろう」と呼びかけたことによって全米から集められたものである[ 25] [ 26] 。この友情人形は前述の日米間の友好の他にも、先年の関東大震災 で人形を失った少女たちを慰める意味を持っている[ 27] 。
ギューリックらによって結成された世界児童親善会は、人形を日本に贈るプロジェクトに先んじて、まず友情人形を募るポスターや手引きの冊子"DOLL MESSENGERS OF FRIENDSHIP"を配布し、この内容に沿って人形を集めて贈るための指南を行った(これは後に「可愛いお人形が親善のお使(かわいいおにんぎょうがしんぜんのおつかい)」の題で日本語に翻訳され、日本の小学校や幼稚園などに配布された)。前述の冊子に記された内容を元に、人形を贈るための役割の分担が行われた。男の子達は後述の「友情表示人形」をお金を集めて(バザーや野外劇などを開いて資金を集めたケースもあった[ 28] )購入し、日本へ送るための旅券の手配や事務・会計を行い、女の子達や母親は、人形の衣装や付属品を手作りした。教師らは人形交流の意味を児童たちに理解してもらうために、日本へ行き着くまでの道のりや日本の文化などを紹介することを教育の一環とした[ 29] 。人形には独自の名前が付けられ、友情の手紙や手荷物が添えられたうえで、幼稚園や小学校などで各々の人形の送別会が催された。世界児童親善会は人形旅行局を特設し、地方委員会を設け、友情人形を日本に贈るための手続きの代行を行った。このプロジェクトに携わったアメリカの児童ならびに保護者、教師、関連団体等は凡そ260~270万人と言われている[ 30] 。人形を贈った州はオハイオ州 の2,283体が最多で、次いでペンシルベニア州 の1,935体、ニューヨーク州 の1,436体、マサチューセッツ州 の966体と続く(日本人が多く住む一方で、日系移民の排斥運動が盛んなカリフォルニア州 からも461体が贈られた)[ 31] 。人形の凡そ8割が東部の州から贈られたという[ 19] 。州ごとに集められた人形は、新聞社等によって構成された委員会による選考により、代表人形として各1体が選抜され、さらにそれらの中から「ミス・アメリカ」が選ばれることになった。
人形の特徴
当時のアメリカでは人形の量産体制が築かれており、アメリカの世界児童親善会が ジェニウィン社 、エファンビー社 、ホースマン社 に発注し、衣装を着ていない状態の裸人形を「友情表示人形」として1体3ドル(地方委員会を通じて購入すると送料無料、3体のセットで1体あたり2ドル90セント、1ダース以上では1体当り2ドル75セント。着衣の人形になるとさらに各1ドルかかる)で斡旋した。頭から肩までひとつづきのショルダーヘッドタイプのボディに、胴体は綿を詰めて布でくるんだ構造になっており、背中にはメーカーの刻印(ジェニウィン社:"GENUIE MADAM HENDREN DOLL (数字) MADE IS USA"、エファンビー社:"EFFANBEE ROSE MARY WALK TALK SLEEP MADE IN USA"、ホースマン社:"E・L(C)HCO EL HORSMAN"。メーカー名の刻印が後述の学校の人形名になっているケースもある。)が押されている[ 28] 。人形の中には瞼を開閉したり(スリーピング・アイ)、体を起こしたり腹を押すと鳴いたりするカラクリ 仕掛けとなっているものもあった(「ママー」と泣くものが証言に多く見られる[ 注釈 7] )。友情人形には説明書きとして、取り扱い方や遊び方が残されているものもある[ 32]
ちなみに、「青い目の人形」は一体ごとに衣装や体形などデザインが異なっていた(大半は人形旅行局で用意した前述の3社の人形を元に児童たちがカスタマイズしたものである一方、一部手持ちの人形を差し出した例もあった。そのため、メーカーの規格(1フィート5インチ:40cm前後[ 28] )に当てはまらない人形も散見する(現存の人形でも30〜60cm、後述の関東州に送られた「メリー・マーガレット」の90cmの例もある))。
人形に添えられたギューリックの手紙では「友情の人形」と呼称されており[ 25] 、贈り主側が「青い目の人形」と名付けたわけではない[ 注釈 8] 。野口雨情 が「青い眼の人形 」の詩を発表したのは1921年 (大正10年)10月のことで(童謡雑誌『金の船』1921年12月号)[ 33] 、人形交換よりも数年さかのぼる。これに本居長世 が作曲したのが童謡「青い眼の人形」で、1923年 にはアメリカでも関東大震災の義援金を集める目的[ 34] で演奏され、好評を博していた[ 注釈 9] 。「青い目の人形」との呼称は、これに因んで付けられたと思われる。贈られた人形はメーカー製から個人寄贈まで様々で、必ずしも青い目をしているものではない。
アメリカから贈られてきた友情人形は野口の詩にあるセルロイド 製ではなく、多くが前述メーカー既製品のコンポジション・ドール (英語版 ) (パルプやおが屑・土を練り混ぜた上で精製し、乾燥させて糊やグリセリンなどを混ぜたものを仕上げ塗りし、顔を描き入れた人形)[ 注釈 10] であり、ドイツ 製などのビスクドール (素焼き の人形)もわずかに含まれている[ 注釈 11] [ 36] 。
「青い目の人形」は、前述の冊子に記されたように雛祭りに合わせて女児に贈られることを前提としたため、大半は女の子の人形としての顔立ちや着飾りであったが、愛知県新城市立東陽小学校に贈られた「ノルマン」のような男の子の人形も少ないながら見受けられる[ 37] 。
日本への寄贈とその後
アメリカから送られた「青い目の人形」と歓迎のための日本人形。鴻巣雛 の産地で知られる鴻ノ巣町にて。(1927年)
当時の日本では前述の童謡『青い眼の人形』でも歌われたようにアメリカ人形が珍しがられたことや、大正天皇 崩御 が直前にあったことから主な行事を自粛しつつも、友情の人形が贈られることを心待ちにしていた雰囲気もあって、寄贈先の小学校や幼稚園などでは、アメリカから日本の児童たちに対して純真な好意と友情とを伝えるべく[ 29] 、遠路はるばる旅行してきたという名目で寄贈されたうえでの慰労のために、日本人形に囲まれての盛大な歓迎式が行われた[ 38] 。返礼として後述の答礼人形の他にも人形の贈り主に対し、お礼の手紙などもアメリカへ贈られた[ 39] 。また、「青い目の人形」の人気にあやかって、元の人形をコピーしたもの等も販売されていた[ 40] [ 注釈 12] 。
人形には本体に付随してパスポート や旅券・切符(経費としての1ドル(1体につき)のうち、1セントはパスポートの発行手数料、あとの99セントが人形の贈り元から日本の各地方の児童たちへ渡されるまでの旅費一括を特例として充てられた。なお、友情人形に対しての関税は免除されている[ 41] )が用意され、パスポートには名前や発行番号、出身地などが記載されている(例:千葉県・成東小学校の「アリス・プレーブル」 - Alice Preble、No.860、Portland,Maine [ 42] )。日本には前述の通り1万2千体以上の人形が贈られているが、中には発行番号が左記の数字よりはるかに大きいもの(例:島根県・今福小学校の「キャサリン」のNo.48129や茨城県・常陸大宮市歴史民俗資料館の「クリッシー」のNo.45857[ 43] 、広島県・鞆幼稚園の「ドロシー・フィリップス」のNo.45645)もある[ 注釈 13] 。現存している「青い目の人形」の中にはパスポートが失われ、本名・番号・出身地が不明のものも多く、戦後にギューリック3世 (英語版 ) に再発行してもらったケースもある。
パスポートは日本に人形が輸入された際に児童向けに翻訳されたものもある[ 44]
(第一面)
VISE 人形査證
日本への親善旅行であることを証明する ニューヨーク 日本総領事 サイトウ・ヒロ
(印)CONSULATE GENERAL of JAPAN・NEW YORK
No.xxxx 特別旅行免状 子どもの世界親善協会(ワールド フレンドシップ アマング チルドレン)の依頼により発行
(第二面)
日本の少年・少女の皆様へ
この旅行証は、誠実で温良なアメリカ市民「xxxx」をあなたがたに紹介するものです。
彼女は、1927年3月3日、親善使者として日本を訪問、ひなまつりを見に行きます。
この使者は、アメリカの少年・少女を代表し、彼らのあいさつと親善のメッセージを運んでいます。
どうぞ日本にいる間「xxxx」の世話をし、必要なお手伝をお願いします。
彼女はあなたの国のすべてのおきてやきまりに従います。
皆様の幸せを願って ”アンクル サム ”(サム伯父さん)[ 注釈 14] xxxxxxxx.xx 1927.
人形説明書(鼻や唇の特徴は省略されているが、英語原文のみに記載)
名前 xxxx
目の色 ※青、茶色など
髪の色 ※金色、褐色など
出生地 xxxxxxxx
参考のために、戦後発行されたパスポートについても記載する。
United States of America Passport
※右欄には人形の写真(Photograph)が貼られている。
Name : (人形の名前)
Eyes(Color) : (目の色)
Hair(Color) : (髪の色)
Date of Birth : (誕生日)
Place of Birth : (出生地)Adelphi (英語版 ) , Maryland, USA
Date of issue : (発行日)
Date of expiration : Never(有効期限、不定)
Passport Number : (パスポートの番号)
Signature of guardian : Sidney L.Gulick,3d(署名)
贈られた人形たちには生徒らによって名前(パスポート記載の名前または愛称)がつけられ、文部省 通達によって学校の備品と同等の丁重な扱いを受けたうえに[ 2] 、ガラスケースなどに入れられて学校の昇降口や校長室の前に飾られていたという。アメリカ人形だけでは淋しいと日本人形と一緒に飾られた事例もある[ 45] 。学芸会や運動会、遠足などの学校の行事に人形を参加させたケースもある[ 46] 。尋常小学校の国語の教科書にも『お人形の歓迎會』として掲載されたこともあった[ 2] 。雛祭りでは雛人形 と共に飾られたこともあり(前述の冊子には雛祭りについて紹介し、人形が贈られる3月3日に「青い目の人形」が飾られることを念頭に置かれた記述がある)、戦後も一部の小学校や幼稚園でこの形式の雛祭りが催されている。
しかし、今日において学校や博物館などで大事に保管されている「青い目の人形」がある一方で、人形に関するエピソードが語られることもなく、時代の経過とともに忘れ去られた人形も数知れない。
「青い目の人形」の歓迎から年月が経って、1931年 (昭和6年)には渋沢栄一 も死去し、さらには人形寄贈当時の児童や教員らも卒業などで学校を離れていったことや、人形をあてがわれた子供も成長するにつれて、平和を愛でる純朴な心に対する教育の面でのフォローがなされなくなったこともあり、友情人形や人形交流への関心は次第に希薄になってしまった[ 注釈 15] 。「青い目の人形」を通じての交流に尽力したミネット・ビー・ムーアは、1935年 (昭和10年)に博物館に展示されていた人形がネズミにかじられたりなど朽ちている様子を見て嘆いていた[ 47] 。
第二次世界大戦に入ると、日本人のアメリカへの憎悪の念は人形にも向けられ、「青い目の人形」を含むアメリカ人形の多くは竹槍 訓練の標的にされたり焼却されたりなどして滅失し(現在残っている「青い目の人形」の中には当時暴行を受けた痕跡が見られるものもある)、あるいはアメリカ軍 による空襲 ・原子爆弾投下 といった戦災 や災害[ 注釈 16] で失われたり、戦後、校舎改築等の際に発見されても、寄贈された経緯を知らずに古い人形として廃棄されたと思われるものも少なくない[ 48] 。
こうした受難があったにもかかわらず、残っていた人形が後にテレビ等で紹介された事と共に、地方に残る「青い目の人形」の再発見や、人形親善の継続としてアメリカから(ギューリック3世らから)の学校などへの新しい人形(新・青い目の人形 )の寄贈が行われるようになった。戦時中に処分された人形や、アメリカへの里帰り(1989年 (平成元年)10月〜12月にかけてワシントン 、ボストン 、ロサンゼルス 、サンフランシスコ を廻り日本国内の「青い目の人形」92体を展示[ 49] )の最中に盗難に遭った人形(後述)[ 注釈 17] に対しても、代替の人形が贈られている。
答礼人形
贈呈の経緯・人形の特徴
インディアナポリス に贈られた答礼人形(「ミス島根」。台座に「島根縣(県)、MISS SHIMANE」と記されている。)
アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた後、日米関係委員会委員の渋沢栄一 が外務省 から依頼され、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された市松人形がアメリカ に送られた。この際は、雛祭りに送られた人形への答礼として「日本からもクリスマス に人形を送ろう」というコンセプトのもとに送られている[ 25] [ 26] 。これは、「青い目の人形」が「単なる人形ではなく本当に生命を持った使者」として日本に派遣されたことに対して答礼人形を贈ることが「美しい礼儀」であることの姿勢でもある[ 29] 。
当初はギューリックは「青い目の人形」の贈答に対し、日本国内の経済事情[ 注釈 18] を鑑み返礼は無用と断っているため、代案として贈られた人形の相当数のプレゼント[ 注釈 19] ではなく、少数の精巧に作られた人形を以って返礼を行うこととした[ 50] 。
答礼人形に関しても冊子『答礼の使者として米国へ人形を送りませう(とうれいのししゃとしてべいこくへにんぎょうをおくりましょう)』が各小学校・幼稚園などへ配布され、これに基づいて人形作りのための寄付や、答礼人形の送別式が実施された[ 50] 。
「青い目の人形」が送られた各学校・幼稚園等の児童から1人1銭(例外として、答礼人形への寄付の他に、日米親善の意味で日本人形を「青い目の人形」と並べて飾る目的で購入するために各1銭ずつの2銭募金を行ったケースもある[ 51] 。)の募金を行い、そのお金(約261万人の児童の寄付[ 52] など29,000円程[ 53] 。「ミス大日本」には皇后より千円が下賜された[ 54] )で東京雛人形卸商組合傘下の東京の人形師たち(平田郷陽 、滝沢光龍齊ら十数名)によって製作された100体以上の人形(背中に作者の銘が貼り付けられた)の中からコンテストで51体を選出[ 2] 、「ミス大日本」(又は「ミス・ジャパン」。別称の「倭日出子」は渋沢栄一が自ら名づけた)ならびに主要都市(東京市、横浜、名古屋、京都市、大阪市、神戸)の計7体は京都の大木平蔵商店(現・丸平大木人形店)に依頼して創られた[ 55] [ 56] 。総じて日本国際児童親善会を通じてアメリカへ贈られた答礼人形は58体(このほかに、付き添いの人形数体も加わる)になる。
「青い目の人形」がメーカーの指定した人形の他に個別に持ち込んだものも含まれ、身長や身なりが不揃いであったこととは対照的に、答礼人形の背丈は概ね二尺七寸(約81cm(ミス大日本は90cm程[ 57] ))、桐塑 製(桐のおが屑と正麩のりを混ぜ込んだものを乾燥させたもの。但し、「ミス大日本」他6体は桐素材の丸彫り)の生地に胡粉 [ 注釈 20] を塗り上げた本体に、有名デパート(三越 、白木屋 、髙島屋 、松屋 、松坂屋 )[ 2] 特製の友禅 縮緬 と本金の帯、外国へ旅立っても恥をかかないようにと素足に両国 の職人に作らせた足袋[ 2] を履かせ、コンビネーションの洋風肌着を着せられた[ 60] 。
答礼人形の選別から漏れた人形に関しては秘かに地方で処分されたと言われているが、ごくまれに店頭で販売されていて、1929年(昭和4年)にある店で平田郷陽作の人形を80円で購入し、「さくら」と名付けて戦後まで保存されていたというケースなどもある[ 61] 。
アメリカへの寄贈と経過等
地域の名を冠した人形は各道府県に送られ、それぞれの道府県の学校で(但し外地へは地理的な関係上、答礼人形は送られず、それぞれの外地の名を冠した答礼人形は東京博物館で展示されることになった[ 62] 。)送別式を開いた後、再び集められた上、1927年11月4日に日本青年館で壮行会が開かれて[ 56] [ 63] 、アメリカに渡ることとなった。それぞれの人形は、地域名を冠した名前が呼びづらいことに配慮して、台座に記された名前の地域名を取って「ミス○○」と呼ばれた。
人形本体とは別に、アメリカに渡る際は人間と同様に、パスポート[ 注釈 21] 、客船の一等切符なども用意され、草履、駒下駄、傘、鏡台や箪笥などといったお道具も含めたものとして作られている。製作費用は、人形本体約150円、衣装約150円、お道具約50円、計1体あたり約350円(アメリカからの友情人形が一体3ドルだったのに対し、一式で当時のレートでは150ドルと50倍の費用がかかった[ 54] 。2010年現在の貨幣価値で約260万円 - 280万円程度。当時小学校の教員の月給の平均は56円で墨田区の一戸建て(12坪=39.67m2 )が600円で購入できた。なお、当時の日本人形は一般では最低で1円位から高くても5~6円、極上の人形でも70・80円もするものもあった[ 65] )であったという[ 1] [ 2] [ 25] [ 26] 。児童が書いた手紙以外にも、「ミス大阪市」が日本から持参した煎餅 の入った菓子缶[ 66] や、地方ゆかりの品々を手土産として添えられた人形もある(「ミス奈良」:鹿の置物、「ミス高知」:珊瑚の細工物[ 67] 、「ミス静岡」:煎茶道具一式[ 注釈 22] など)。
人形たちは1927年11月10日に天洋丸で横浜を出港し、アメリカに送られた後はすぐに各州に届けられるのではなく、1927年11月19日ハワイ のホノルル に到着し、同11月25日のサンフランシスコ 到着を振り出しに[ 68] 長期にわたりアメリカ各地をまわって紹介された(まずは2グループに分かれ、「ミス大日本」ら17体はロサンゼルス などの陸路を経て12月15日 にシカゴ 、12月20日にワシントンD.C. 、12月28日にニューヨーク に到着[ 69] 。残りの41体はパナマ運河 を経由[ 注釈 23] し、1928年1月4日にニューヨークで合流。1月6日にボストン で歓迎会が行われた[ 71] 。その後は人形は世界児童親善会に託され、10体ずつのグループに分散して1月〜7月[ 71] にかけてアメリカの479の都市(「青い目の人形」を寄贈した都市数とほぼ同じ。ちなみにニューメキシコ州 は「青い目の人形」の贈り元のリストに入っていない[ 31] )にて千回以上の歓迎会が行われ、展示された後に再びニューヨークで合流した[ 72] )。答礼人形は美術品としての価値があるため、個人・法人から買い取りたい、引き取りたいとの申し出もあったが、各州の博物館や美術館などの公共施設に預けられることになった[ 注釈 24] [ 71] 。
こうして引き取られた人形の中には、道中での移動展示を行っていくうちにその都度人形と台座を取り外す必要があった経緯もあったため[ 2] 、各地をまわる間に人形本体と台座が入れ違いになっていたものもある(人形自体には地域名の旨が書かれておらず、着物に描かれた家紋や市章といった絵柄や、日本で送別会が行われた当時の写真との違いや参加者の証言などから後年に判明したものがほとんど)。人形のその後は、来場者に見られないように隠蔽されたり売却されたりして存在が忘れられたり、災害に遭ったケースもある[ 73] が、一方で日本と比べると戦時中も比較的大切にされていたものが多く、48体(うち出所不明3体)が現存している。
答礼人形本体も長年収蔵された結果、各部に劣化が見られたこともあり、多くの人形が一旦日本へ送られ、職人たちにより修復されていった。この外、人形交流の一環として日本に里帰りした人形が送別会が行われた故郷の博物館やデパートなどで展示され、「青い目の人形」と同様、新たに日本人形がアメリカへ贈られている(後述)。
これらの人形とは別に、自治体独自で「ミス岡崎 」(1928年 。現在はニュージャージー州 ニューアーク市の個人所有[ 74] )、「ミス福江渥美 」(1927年 。児童らの一銭募金によって製作された人形ではなく、個人から寄贈されたもの。現在はロサンゼルス郊外のフラートン 市のメイン図書館所蔵[ 75] )等も寄贈されている[ 76] 。
青い目の人形が送られた学校・幼稚園など
ここに挙げる一覧は、日本国内の各都道府県及び第二次世界大戦終戦前の外地において「青い目の人形」が現在保存されている、もしくはかつて寄贈された学校・幼稚園などの施設を示す(統廃合や改名があった場合は寄贈当時の校名・園名も記す)。この他、博物館などの公共施設に保管されている場合や個人の所有については以前の贈り先も併せて記述する。各地域の人形が贈られた体数は特記を除き、『各県別・各船舶別人形配布割当表』(1927年(昭和2年)・渋沢史料館蔵)に基づく。なお、戦後に贈られた、いわゆる「新・青い目の人形」は特記を除き割愛する。
(凡例)
太字 は1927年当時の「青い目の人形」が現存する学校・幼稚園など(後に保管先が変わった場合も含まれる)。()カッコ内は贈られた当時の人形の名前他。カッコがないものは未詳または不明、あるいは戦後に命名された人形。
太字以外は、1927年当時の「青い目の人形」をかつて所持していた記録(人形の所持品や手紙、学校日誌や写真、沿革、新聞記事、博物館調査資料など)がある、もしくは掲載されている学校・幼稚園など。
P:パスポートが現存する(符号については人形が贈られた1927年当時のものに限定。戦後に再発行されたパスポートに関しては特記のみの記述とする。)[ 2]
†:パスポート番号の記録のみ残されているが実物が現存しないもの。
☆:ビスクドールであることを示す(部分的にビスクが使われているものも含まれる)
北海道地方
北海道
643体が寄贈され、27体が現存。
石狩振興局 (旧・石狩支庁)
※札幌市 - 19体が寄贈された[ 78] 。
※札幌市以外
当別町立弁華別小学校 (エリザベス・アーン):2016年3月をもって閉校。現在は当別町学習交流センターにて保管。当別町 には他にも当別小(弁華別小の統合先)、東裏小へ寄贈されている[ 81] 。
渡島総合振興局 (旧・渡島支庁)
檜山振興局 (旧・檜山支庁)
せたな町立太櫓小学校 (ルイーズ・アルコット)P(No.9559):マサチューセッツ州コンコードが誕生地とされている。人形名はルイーザ・メイ・オルコット (『若草物語 』の作者)に因んだ[ 89] 。せたな町有形文化財[ 90] 。なお、せたな町には4体の人形が贈られている[ 91] 。1980年頃には、当時の北桧山町 が『青い目の人形フェスティバル』にて、「ミス北海道」が保存されているアイオワ州ダベンポートのパットナム博物館に「ミス北桧山」を寄贈している。
北村立北村中央小学校(リラ):クリーブランドより贈られた。東京書籍 発行の中学3年生の英語のテキスト"New Horizon"にも"A Doll with Blue Eyes"として紹介されたことがある[ 92] [ 93] 。
北村立豊正小学校(ヘンリー)
後志総合振興局 (旧・後志支庁)
- 小樽市 - 1927年4月28日 に小樽市役所で16体の人形を迎えての式典が催された(人形は現存せず)[ 94] 。
- その他地域
空知総合振興局 (旧・空知支庁)
美唄市立中央小学校 (メリー):旧・沼貝小学校。現在は美唄市郷土史料館にて保管。史料館には「エレーン」の名前で展示されている。美唄市には他に我路小学校(沼東小学校と統合の後、廃校)、沼東小学校、茶志内小学校へ寄贈されている[ 96] 。
南幌町立南幌小学校
栗山町立角田小学校 :名称不明だったが、後に「マリー」と命名された。栗山町にはその他、栗山尋常小学校、阿野呂尋常小学校(南学田小学校、マルサ・ジャン・ローウェル)、二岐尋常小学校(日出小学校)に寄贈されている。[ 97]
※砂川地区には下記の4体が寄贈されている[ 98]
上川総合振興局 (旧・上川支庁)
留萌振興局 (旧・留萌支庁)
天塩町立天塩小学校 (カーラル)P(No.6336):レイクウッド ヘイジ小学校より。現在は天塩町郷土資料館にて保管。
宗谷総合振興局 (旧・宗谷支庁)
オホーツク総合振興局 (旧・網走支庁)現存なし
胆振総合振興局 (旧・胆振支庁)
日高振興局 (旧・日高支庁)
十勝総合振興局 (旧・十勝支庁)
※旧・河西支庁 - 45体が寄贈された[ 104] 。
釧路総合振興局 (旧・釧路支庁)現存なし
根室振興局 (旧・根室支庁)現存なし
千島(参考)
旧・根室支庁に所属する千島列島 にも人形が贈られている(人形の配布先としては、外地ではなく北海道に含まれる)[ 118] 。
内訳:択捉3体(留別、紗那、蘂取)、国後2体(国後、乳呑路)、色丹1体(色丹)、歯舞2体(珸瑤瑁、華岬)
東北地方
青森県
220体が寄贈され、10体が現存。寄贈先は出典[ 119] を参照。
以下に現存の人形がある地域と送られた数(寄贈当時)を示す。東津軽郡 25体、青森市 15体、北津軽郡 26体、下北郡 12体は現存せず。
※弘前市 - 12体
弘前学院聖愛中学高等学校 (エリザベス・ハットン):弘前学院聖愛幼稚園にあった人形。1958年(昭和33年)に愛光幼稚園が若葉幼稚園と合併し、1995年(平成7年)をもって休園。2体の人形を所有していたが、若葉幼稚園から譲り受けた人形(アメリカ人形だが友情人形ではない)の方は消息不明。
☆弘前市養生幼稚園 :戦時中は処分されることを危惧して一度地中に埋められた[ 120] 。「メリー」は後日に命名されたドイツ製の人形[ 121] 。
※南津軽郡 - 33体
※中津軽郡 - 19体
※三戸郡 - 37体
※西津軽郡 - 22体
※上北郡 - 19体
岩手県
263体が寄贈され、18体の現存が確認されている。寄贈された地域の内訳は出典[ 40] を参照[ 注釈 25] 。
※盛岡市 - 11体
※岩手郡 - 20体
※紫波郡 - 13体(現存なし)
※稗貫郡 - 14体
※和賀郡 - 15体
※胆沢郡 - 13体
※江刺郡 - 12体
※西磐井郡 - 14体(現存なし)
※東磐井郡 - 16体
※気仙郡 - 16体
※上閉伊郡 - 16体(現存なし)
- 釜石市 :釜石小学校 他3校に寄贈された[ 135] 。
※下閉伊郡 - 16体(現存なし)
※九戸郡 - 14体(現存なし)
※二戸郡 - 13体
※贈先不明
ベス・メッシンガー(No.9942†):1927年3月3日付の岩手日報に掲載された人形(出身地:ボストン)[ 129] 。
宮城県
221体が寄贈され(内訳:(師範学校)附属小学校(2)、盲唖学校(1)、公立小学校(195)、幼稚園(13)、保育園など(10)[ 136] )
、10体が現存。出典[ 2] も参照。
※仙台市
※その他市部
※町村部
秋田県
190体が寄贈され、11体が県内に現存し、他1体は福島県にて保管。
山形県
205体が寄贈され、13体が現存。出典[ 145] [ 146] も参照。
配布内訳(両羽朝日新聞1927年3月23日付(括弧内は日刊荘内1927年4月1日付)):山形市11、南村山郡10、東村山郡12、西村山郡12、北村山郡12、最上郡12(11)、米沢市12(11)、南置賜郡8(9)、東置賜郡12、西置賜郡11、東田川郡11(13)、西田川郡13(12)、飽海郡15(14)、鶴岡市7、計158(157)。
※山形市
※鶴岡市
※米沢市
※酒田市 13体が寄贈された(旧飽海郡 のうち遊佐町 を除く)。
※その他地域
福島県
323体が寄贈された。19体が県内に現存(秋田県からの人形1体を含む)し、1体が大阪府にある。出典も参照[ 151]
人形の配分については次の通り(寄贈当時の行政区分による)。会津地方(若松市:5、北会津郡:10、南会津郡:7、耶麻郡:15、河沼郡:10、大沼郡:10)、中通り(福島市:5、郡山市:5、信夫郡:18、伊達郡:30、安達郡:21、安積郡:11、岩瀬郡:12、東白川郡:13、西白河郡:20、石川郡:10、田村郡:30)、浜通り(岩城郡:45、双葉郡:11、相馬郡:20)、幼稚園:15[ 152]
- 会津地方
-- 会津地方振興局管内
個人所有 :寄贈先は不明。会津若松市内の元教師より譲り受けた。名称も判らなかったため、「青い目の人形」は「ジュリー(沢田研二 の愛称から名づけたという)」、箱に一緒に入っていた日本人形は「ヨッちゃん」と命名された。現在は大阪府高槻市 の自宅にて保管[ 153] 。
若松第一幼稚園(ベレー)[ 153]
若松幼稚園(ベルフェルト)[ 154] :第二幼稚園または第三幼稚園に寄贈されたと思われる。
個人所有 (アンナ)P(No.3248):坂下幼稚園(旧・茂原幼稚園)より譲り受けた。寄贈元はニュージャージー州ブルームフィールド[ 155] 。
-- 南会津地方振興局管内
- 中通り
-- 県北地方振興局管内
-- 県中地方振興局管内
-- 県南地方振興局管内
- 浜通り
-- 相双地方振興局管内(現存なし)
-- いわき地方振興局管内
関東地方
茨城県
茨城県には246体が寄贈され、11体の現存が確認されている。
栃木県
213体が寄贈され、6体が現存する。
群馬県
県内には142体が寄贈され、19体現存する。
-中部地域
-西部地域
-東部地域
-利根沼田地域
沼田市立利根東小学校 (メリー)
第二次世界大戦中、人形をどう処理するかで職員会議でも取り上げられたが、当時の教頭の一存で校舎の誰にも見られない場所に隠したとのこと。1967年 に校舎の建て替えの際に発見され、1973年 (昭和48年)3月15日にNHK のテレビ番組『スポットライト 』の『人形使節メリー』で紹介されたことにより、「青い目の人形」の全国的な関心を高める運動のきっかけとなった[ 191] 。後に「新・友情人形」の「エリカ」が寄贈され、返礼として日本人形の「あずまちゃん」がカリフォルニア州のスリーピーハロー小学校に贈られた[ 192] 。2016年3月をもって他2校と統合し、現在は沼田市立利根小学校[ 193] 。
沼田市立白沢小学校 (キャサリン)
利根郡川場村尋常高等小学校(メリーチャン):歌人の江口きち は、在校中に「青い目の人形」を受け取る役を務めた[ 194] 。
-吾妻地域
埼玉県
178体が寄贈され、12体が現存。12体中5体が日本人形と対で保管されている。こちらの出典も参照[ 198] 。
※浦和市 - 5体が寄贈された(人形は現存せず)[ 186] 。
※川越市 - 11体が寄贈された(小学校10体、幼稚園1体。人形は現存しない。)[ 199]
※北足立郡 - 27体が寄贈された(人形は現存せず)[ 186] 。
-鴻巣市 - 旧・鴻巣町 。20体程の「青い目の人形」が寄贈された(上記画像参照)。
※入間郡 - 28体が寄贈された。
-所沢市 - 5体が寄贈された。
三ヶ島小学校 (ミルドレッド・ルシール)P(No.9354):パスポートの"Mildred Lucille"は長年「ミルドレッド・ルーチェル」と呼ばれていたこともあり、最近は両方使っているようである。市内には他にも所沢・吾妻・小手指・富岡の各学校に贈られた[ 27] 。
-飯能市
※北埼玉郡 - 20体が寄贈された(人形は現存せず)[ 186] 。
※秩父郡 - 16体が寄贈された(前述の旧・坂石小学校も含まれる)[ 202] 。
-秩父市
秩父こども園 (ヘレン)P(No.4426):旧・秩父幼稚園。ペンシルベニア州ボイヤータウン (英語版 ) より寄贈。
秩父市立影森小学校 (マリー・ルイズ)
秩父市立大滝小学校(アネット(Annett))P(No.9113):平成31年3月31日閉校。パスポートや写真などの資料が多く保管されている。秩父市立図書館 蔵。
-町村部
※児玉郡 - 9体が寄贈された。
※大里郡 (1927年当時) - 10数体が寄贈されている[ 209] 。
※南埼玉郡 - 15体が寄贈された。
-越谷市 - 6体が寄贈された[ 213] 。
大沢小学校 (ワーテラ・ヘズ)P(No.4869):ニューハンプシャー州の少女から贈られた手紙を持っている。パスポートや手紙には"Martha Heath"と書かれており、後年「マーサ・ヒース」が正しい読み方であるとの指摘を受けたが、パスポートについては"Watera Hayes"[ 215] とも読めるために贈られた当時は「ワーテラ・ヘズ」で呼ばれており、映画などでもこの名前が使われた。
-久喜市
久喜市立江面小学校 :江面第一小学校より統合。人形を抱えた少女の写真が残されている。1976年に旧校舎が解体するまで人形はあったとのこと。
※北葛飾郡 - 14体が寄贈された(人形は現存せず)。
千葉県
214体が寄贈され、11体が現存。寄贈先の学校は出典を参照。
出典
毎日新聞 1937年 3月19日 ・4月9日 発行記事
千葉県小学校変遷一覧(千葉県立中央図書館 編)
※葛飾郡 - 30体(現存なし)
※印旛郡 - 23体
※香取郡 - 25体
※千葉郡 - 10体(現存なし)
※千葉市 - 5体(現存なし)
※市原郡 - 13体(現存なし)
※海上郡 - 12体
※長生郡 - 11体(現存なし)
※山武郡 - 17体
成東小学校 (アリス・プレーブル)P(No.860):メーン州ポートランドより。1987年3月5日に市の有形文化財に指定[ 222] 。
※匝瑳郡 - 7体(現存なし)
※君津郡 - 21体
※安房郡 - 24体
※夷隅郡 - 16体(現存なし)
東京都(東京府)
568体(うち東京市 へは293体(市立小学校201、同幼稚園15、私立小学校22、同幼稚園55)[ 225] 。この外「ミス・アメリカ」など50体の各州代表人形[ 226] )が寄贈され、12体が都内に現存。
※東京都内
各州代表人形たち
国立科学博物館 「ミス・アメリカ」
東京博物館上野分館で空襲の爆撃を受け、焼け跡から発見された唯一の代表人形。一時「青い目の人形交流会」が所有[ 227] 。元々の「ミス・アメリカ」か、他の州の代表人形かは不明。現在は台東区の個人所有[ 186] 。
1989年には「青い目の人形交流会」に新「ミス・アメリカ」(☆マージィ)が寄贈されている[ 228] 。
旧「ミス・アメリカ」(アンネシレー、もしくはアンネミレー[ 229] )(†No.3297):ニューヨーク州出身[ 注釈 26] 。
「ミス・カリフォルニア」(絵葉書には「カリフォルニア嬢」と記されている):各州代表人形の1つ。ウェディングドレスを着ていた[ 231] [ 注釈 27] 。花嫁の姿をしていた故にふさわしい贈り物として、皇族から嫁入り道具一式を献上されたとのこと[ 226] 。
マルタ・ワシントン :ウトストンサレン(原文ママ)出身の州代表人形の一体。照宮 によく遊んでもらったため、立派なおもちゃ箱をいただいたとのこと[ 226] 。ワシントン州かワシントンD.C.代表なのかその他州かは不明。
「ミス・ニュージャージー」 - 「青い目の人形」の寄贈に携わったミネット・ビー・ムーアの姪が可愛がっていた人形[ 232] 。
各地域の「青い目の人形」
※東京都外から譲り受けた人形
株式会社 吉徳 (名称不明、後に「アニー」と命名される)
三重県伊勢市 の中島幼稚園→保母の自宅→吉徳という経緯で、1992年12月以降は東京の吉徳に保管されている。服は1992年8月に自宅から中島幼稚園に返す際に新調された。元々の名前が不明だったが、1993年に当時上演されたミュージカルならびに同名の主人公の名前からとって「アニー 」と名付けられた[ 248] 。
個人所有 (グレンデール):世田谷区 在住の方の所有。楠渓幼稚園(樺太)より。
神奈川県
166体が寄贈され、12体が現存。
※横浜市 - 60体以上の人形が寄贈された[ 249] (現存する7体のうち4体は市内。他の3体は市外より寄贈)。
西前小学校 (ポーリン、マーリン):「マーリン」(名称不明のため、戦後に命名された)は1947年に西戸部小学校の統合の際譲り受けた。[ 249] なお、「横浜人形の家」の山下公園 側にはポーリンの銅像が飾られた「ポーリン橋」が架かっている。
戸部小学校 (メリー・ジェン)
宮谷小学校 :日本人形と一緒に飾られていたが戦時中に消失。2009年8月にはギューリック3世より「新・青い目の人形」の「メアリー・スー」が贈られた[ 250] 。
磯子小学校 (ウール):答礼人形「ミス横浜」に添えられた手紙に記述がある。[ 251]
横浜人形の家 :以下の4体を所蔵(特別展示を除き、通常はレプリカを展示)。
ブロッソン :本町小学校 より[ 252] (『横浜人形の家』開館以前の1980年 に横浜市に移管[ 253] 、同校には1996年 にレプリカが寄贈されている[ 254] )。
ネリー :旧・木花幼稚園(静岡県)より。※詳細は後述
マージェリー・ルスムーア :東京都内のある幼稚園に贈られた人形。1997年に台東区の個人より寄贈[ 255] 。
エリーネ・ジェーン・プーリッジ (P※ギャラリー参照):旧・菊水幼稚園(兵庫県)に贈られた人形。1998年に三木市 の個人より寄贈。通称「エレナ」。
※横須賀市 - 22体が寄贈された(人形は現存せず)[ 256] [ 257] 。
※その他地域
中部地方
新潟県
418体(船便による398体と後に追加された20体)[ 266] が寄贈され(新聞で公表された内訳はこちら[ 267] )、12体が現存(この他県外より1体が移された)。下記に1927年当時の人形が配られた地域、個数を示す。
※新潟市 - 21体
新潟市二葉幼稚園 (クレア)P[ 268]
万代小学校 (サラ)P(No.3609):キャピタル・オブ・ユーエス(ワシントンD.C)出身。
※長岡市 - 11体(現存なし)
※上越市 (旧・高田市 ) - 6体(現存なし)
※北蒲原郡 - 31体
※中蒲原郡 - 30体
※西蒲原郡 - 30体
※南蒲原郡 - 17体(現存なし)
※東蒲原郡 - 10体(現存なし)
※刈羽郡 - 25体
柏崎市立柏崎小学校 (ミルドレッド)P(No.2945):マサチューセッツ州より寄贈。戦時中に処分されることを危惧した一収集家が校長に嘆願し、アメリカの「捕虜」という名目で保護された[ 271] 。現在『痴娯の家 』所蔵。
柏崎市柏崎幼稚園 (ナオミ・ルース・シェラブラ)P(No.2138):同上。コネチカット州ハートフォードのケネディミッションスクールの教授婦人より寄贈[ 271] 。現在は『痴娯の家』所蔵。
※古志郡 - 25体(現存なし)
※三島郡 - 18体(現存なし)
※中魚沼郡 - 19体(現存なし)
※北魚沼郡 - 15体(現存なし)
※南魚沼郡 - 21体(現存なし)
※中頚城郡 - 42体(現存なし)
※東頚城郡 - 12体(現存なし)
※西頚城郡 - 17体
※岩船郡 - 16体(現存せず)
村上市立塩野町小学校 (メアリー・ジェーン)P:パスポートのみ現存。メリーランド州フレデリックより寄贈[ 272] 。2019年3月末に廃校になり、村上市立朝日さくら小学校に統合。
※佐渡郡 - 22体
※県外から移された人形
富山県
150体が寄贈され、7体が現存[ 274] 。1927年当時の寄贈先は富山市 29体、高岡市 10体、市部幼稚園12体、旧上新川郡 12体、中新川郡 17体、下新川郡 13体、旧婦負郡 7体、旧射水郡 15体、旧氷見郡 8体、旧東礪波郡 12体、旧西礪波郡 15体[ 275] 。
石川県
205体が寄贈され、3体が現存。
- 金沢市 :人形に関する記録が残されているのは下記の通り。
福井県
152体が贈呈された。1体のみ現存。出典を参照[ 281] 。
山梨県
山梨県では129体の人形が寄贈され、第一便の前橋丸 の100体と第七便のりすぼん丸 の29体の[ 285] 人形が割り当てられた。人形は1927年 (昭和2年)3月14日の甲府市 の春日小学校で歓迎会、展覧会が行われ、県内の幼稚園や小学校などへ配布された。
戦時下では多くの人形が処分され、1945年 (昭和20年)7月6日・7日の甲府空襲 の戦災で焼失したものも多く、現在では進徳幼稚園 (甲府市)所蔵の「イヴァンヂリーン」P(No.11358)[ 80] 、相川小学校 (甲府市)所蔵の「ジェネラ[ 注釈 28] 」(ニューヨーク州ロチェスターより寄贈)、河口小学校 (富士河口湖町 )蔵の「ジェニサガ」P(No.2275。ニューヨーク州ロチェスター市のジェニサガクラブより寄贈。日本人形の「河口玻留子」と並べて保管。)、増穂町民俗資料館 (増穂町 。富士川町立増穂南小学校より譲り受けた。増穂町には増穂小学校にも「ドーリー・マジソン」が寄贈されたが現存せず[ 288] )蔵の「ヘルン・モナー」、谷村第一小学校 (都留市 )蔵の「メリー」(戦後、校舎改築の際に焼却処分される寸前に救出された[ 289] 。)、個人所有 (甲斐市 、県内の知人より譲り受けられたという[ 290] )の計6体が現存し、一部の人形にはメッセージが添えられた「パスポート」も付属している。
また、日本側からアメリカへ送られた答礼人形のなかには市松人形 の「山梨富士子さん」が含まれ、現在はワイオミング州シャイアンの博物館に所蔵されている。現在では人形が現存する学校において日米交流や教材として利用されている[ 291] 。
長野県
286体(船便による内訳は前橋丸147体、ライン丸78体、りすぼん丸61体)[ 292] [ 293] が寄贈され(当時の新聞に公表された内訳は出典[ 294] を参照)、28体が県内に現存(他1体は名古屋市の個人宅にて保管)。1970年8月に篠ノ井市立南部図書館(現・長野市立南部図書館)で戦後初めての「県内青い目の人形展」が催された[ 295] 。
- 北信地域
-- 飯山市
-- 中野市
-- 下高井郡
- 長野地域
-- 長野市 :10体が寄贈されている。[ 298]
-- 須坂市
-- 千曲市
-- 上高井郡
-- 埴科郡
- 佐久地域
-- 小諸市
-- 佐久市
佐久市立泉小学校 :旧桜井小学校より譲り受ける。パスポートを紛失したため、人形名は学校で独自に「メアリー・ヘンドレン・イズミ」と名づけ、パスポートも再発行してもらった[ 300] 。
-- 北佐久郡
- 上田地域
-- 上田市
上田市立第四中学校 :川辺小学校より譲り受ける。ちなみに人形を授かった当時は小県郡川辺村に属し、上田市に編入されるのは1954年 (昭和29年)になる。なお、1927年当時の上田市には以下の5体(「トリイン」のみ男の子の人形)が寄贈された[ 298] が、現存が確認されているものは一つもない。
-- 東御市
-- 小県郡
- 松本地域
-- 松本市
-- 東筑摩郡
- 木曽地域 (木曽郡 )
- 北アルプス地域
-- 北安曇郡
- 上伊那地域
-- 上伊那郡
- 南信州地域
-- 飯田市
個人所有 :飯田市の2家で保存されている[ 308] 。
1体は答礼人形をアメリカへ贈る際に、児童代表として挨拶をした人物が謝礼として受け取った「青い目の人形」であり、結婚を機に飯田市へ送られた。「マチコ」と名付けられている[ 292] 。
他の1体(メリー)は飯田市立上郷小学校から譲り受けている。
高松学園慈光幼稚園:1947年 (昭和22年)の飯田大火 により焼失[ 308] 。
-- 下伊那郡
- 諏訪地域
-- 諏訪市
-- 茅野市
-- 諏訪郡
-贈先不明
(参考)個人所有 :長野県内の学校で教員を務めていた方が県内の実家で保管し、千葉市 稲毛区 に移った後に「青い目の人形」と分かってから、地元の長野市立博物館 に寄贈されることになった[ 310] 。ただし、来歴に関係する資料がなく、友情人形との断定には至っていない[ 311] 。
岐阜県
235体が寄贈された。うち2体が現存。
※出典参照[ 73] [ 312] [ 313]
※岐阜市 :19体が寄贈された(いずれも人形は現存せず、写真が残されている学校もある)。
※その他地域
静岡県
253体が寄贈され、県内に6体が現存(この他1体は神奈川県にて保管)
愛知県
1927年3月1日に最初の201体が名古屋駅 に到着。ドロシー、バーバラ、イリーヌ(いずれも贈先不明)が代表人形として登場した[ 327] 。
349体(船便による内訳はリンコルン丸206体とプレジデント・ピヤス号143体)[ 328] が寄贈され、現存するのは9体(+県外より1体)。
※東三河地区
西郷小学校 (コネタ)P(No.6178):「コネタ」はオハイオ州のウォーパコネータ (英語版 ) という町の名から来ている[ 329] 。後に2体のレプリカが作られ、一体はオハイオ州のノースリッジ小学校に寄贈され、もう一体は学校の授業の教材として使用されている。
御津南部小学校 (ヘレン):戦時中でも乱暴に扱われることなく校内に飾られていた[ 330] 。豊川市内には他に豊川、千両、牛久保、国府、一宮西部、小坂井東小学校に人形が贈られた記録がある[ 331] 。
☆田原中部小学校 (マーシャル・セントラル)P(No.3085):ドイツ製の人形。カンザス州マリースビルより寄贈。渥美郡には17体、うち田原町には田原南部小学校にも寄贈された[ 332] 。
田原市立福江小学校 (エスター・カリフォルニア):寄贈当時は福江町 だったが、1955年 に現在の田原市へ編入される。初代の人形は現存せず、2007年にギューリック3世より新・友情人形の「カレン」が寄贈された[ 333] [ 334] 。なお、前述の答礼人形「ミス福江渥美」を送り出した学校でもある[ 75] 。
細谷小学校 (エセル・ディーン)P(No.9090):旧・二川町南部尋常高等小学校。ネブラスカ州リンカーンより寄贈。
東陽小学校 (ノルマン):旧・鳳来町立能登瀬小学校より譲り受ける[ 335] 。
田峯小学校 (グレース・A・グリーン)P(No.1022):オハイオ州デイトン市 のノーマル・トレーニング・スクールより寄贈。「青い目の人形」発見をきっかけとして、国際交流に役立てている事例(アメリカへの里帰り及び奉納歌舞伎の公演)[ 336] 。
※西三河地区
- 岡崎市 :小学校へ6体、幼稚園へ3体が寄贈された。後に市内の各校の寄付金により答礼人形「ミス岡崎」が製作され、ニュージャージー州ニューアークへ贈られた[ 74] 。
宮崎小学校 (コルマ・デル)※但し、寄贈当時は宮崎村 (後の額田町 )で、岡崎市域には含まれない(岡崎市に編入されるのは平成18年1月1日)。
- その他地域
吉良中学校 :横須賀尋常高等小学校に贈られ、後に公民学校を経て現在の中学校へ移された。新校舎へ移転する際に処分されかかったところを、卓球部の顧問をしていた教員に拾われ、ギリシャ神話 の勝利の女神にちなんで「アテナ 」と名付けられた[ 337] 。
幸田小学校 (グレース・エッサ):島原藩 主をつとめた深溝松平家 ゆかりの地として、長崎県島原市立第一小学校保存の「リトル・メリー」と姉妹関係を結んだ[ 338] 。2018年には、同様に松平家と縁のある京都府 福知山市 に保管されている「ヘレン・ウッド」を通じ、3姉妹構想を思いつくことになった[ 339] 。
※尾張・知多地区(現存なし)
※名古屋市 (市内へは101体の人形が寄贈されたがいずれも現存せず、現存は県外から移された1体のみ。他にも市内の小学校のうち、2校に人形に関する記録が残されている。[ 342] )
近畿地方
三重県
三重県には194体の人形が寄贈され、県内の小学校や幼稚園に配布された。戦時下で多くの人形が処分され、現存しているものは県内に8体あり、1体が東京に保管されている[ 25] 。ソース[ 345] [ 346] も参照。
・北勢
※桑名市
※桑名郡
※いなべ市
※員弁郡
※四日市市
※三重郡
※鈴鹿市
※亀山市
・中勢
※津市 :74体が届けられた[ 350] 。
※松阪市 :18体が寄贈された。
※多気郡
・南勢
※伊勢市
※鳥羽市
※志摩市
※度会郡
・伊賀
※伊賀市
※名張市
・東紀州
※北牟婁郡
※尾鷲市
※熊野市
※南牟婁郡
滋賀県
135体が寄贈され、4体が現存。
※ 大津市 :20体が配布された(小学校16体、幼稚園4体)[ 358] 。
※ その他地域
京都府
262体が寄贈され、8体が現存。失われた人形の中には宝鏡寺 で供養されたものもあった[ 365] 。
※京都市
※舞鶴市 :11体が贈られた。[ 372]
※その他地域
大阪府
429体が寄贈され、4体(このほか県外より1体)が現存する。
兵庫県
373体が寄贈され、11体が現存するほかに、県外から移された1体も含まれる。
朝来市 立 山口こども園 (メリー):但馬 地方で唯一現存する人形。戦中に焼却処分の直前に教員により匿われて、昭和48年にその存在が明らかになった。変遷:(旧山口村立山口幼稚園→旧朝来町 立山口幼稚園→朝来市立山口幼稚園→朝来市立山口こども園)[ 379] 。
神戸市甲南幼稚園 (ローズ、名称不明):後者の人形は、戦後までに寄贈されていたと思われ、2015年に友情人形と判明したもの[ 380] 。ギューリック3世により「キャシー」と命名された[ 381] 。
親和女子高等学校
神戸市千鳥幼稚園 (メリー)[ 379]
高砂幼稚園 :2体あるうち1体は高砂小学校 にあったもの。パスポートが失われて名前が不明だったため、「エリカ」「ヘレン」と命名された[ 379] 。
ベイカ保育園 (ローズマリー):現・幼保連携型認定こども園ベイカ(姫路市 )。
赤穂幼稚園 (ローズマリー)
播磨町立播磨小学校 (メリー):旧・阿閇尋常小学校。
旧・神戸市兵庫区菊水幼稚園 (エリーネ・ジェーン・プーリッジ)P(No.5220):三木市 内個人所有。通称「エレナ」。現在は『横浜人形の家』にて所蔵[ 379] 。
多可町立中町南小学校 (メリー):初代の人形は現存しないが、1995年 1月27日 にカリフォルニア州のミッドタウンから2代目の「メリー」が同校に寄贈された[ 382] 。
※県外からの人形
神戸大学 発達科学部 (マダリン・エリザベス):児童の村小学校(東京都)より譲り受ける。
奈良県
144体が寄贈(男女師範学校に各1、小学校131、幼稚園11)され、4体が現存する。
和歌山県
寄贈された177体のうち、1体のみ現存。
出典:『和歌山県教育史』編さんだより No.4(平成14年7月) (アーカイブ)、わかやま発見 (和歌山県教育委員会HP)
中国地方
鳥取県
107体が寄贈され、3体が現存する。出典[ 393] を参照。
島根県
182体が寄贈され、2体が現存する。
岡山県
238体が寄贈され、3体が現存する。
鶴鳴保育所 (アンナ)
金光学園幼稚園 (ベッシー)
岡山市立加茂小学校 (ロイズグット・ウィル):津山市 在住の個人より2009年に津山郷土博物館 へ寄贈[ 404] 。
贈先不明:岡山県に届けられた『平和の使靑い眼のお人形繪葉書』にある人形たち(パスポート†No.37501も写されている)。岡山水野写真館による撮影[ 266] 。
広島県
326体が寄贈され、5体が現存する。
山口県
200体が寄贈され、5体が現存。
四国地方
※愛媛県以外には1体ずつしか残っていない。
徳島県
152体が寄贈された。
神領小学校 (アリス・ジョンストン)P(No.1573):ペンシルベニア州ウィルキンスバーグより寄贈[ 413] 。人形名は贈り主に由来する。2011年11月18日に地方指定文化財となる[ 414] 。「青い目の人形」の国際交流をきっかけに町おこしに役立てている事例[ 415] 。名西郡 には「アリス」を含む6体が割り当てられた[ 416] 。
香川県
108体が寄贈された(うち船便により102体。内訳は幼稚園21、小学校74、女学校13)[ 417] 。
[ 418]
以下に贈られた地域と体数を記す[ 18] 。
※三豊市 - 14体
※高松市 - 39体
※その他地域
多度津町立白方小学校 :1927年、人形が寄贈された後、アメリカへ届けられた児童からのお礼の手紙がギューリックの手記にて紹介されている[ 420] 。後にこの出来事に基づき、「新・青い目の人形」の「リサ・レネイ」が送られた[ 421] 。
小豆島町立安田小学校 (エリザベス・フルトン)。
丸亀市西幼稚園(キューピー)
愛媛県
214体のうち、6体が現存。出典[ 422] 。
高知県
187体が寄贈された。出典[ 432] を参照。
九州地方
福岡県
250体が寄贈され、福岡玉屋 で展示された[ 433] 。3体の現存が確認されている。
佐賀県
寄贈された98体のうち、現存は次の1体のみ。
長崎県
214体が寄贈され、2体が現存。出典[ 1]
内訳:師範学校4、長崎市29、佐世保市13、西彼杵郡17、東彼杵郡16、南高来郡18、北高来郡16、北松浦郡18、南松浦郡15、壱岐11、対馬14。
熊本県
241体が寄贈され、2体が現存。かつてギューリック博士が熊本に滞在していた縁で、1988年3月に人形が現存している学校などに4体の「新・青い目の人形」が寄贈された。その後、答礼として、同年6月に「阿蘇鏡子」「阿蘇健太郎」の2体の人形がアメリカのルイジアナ州に送られた[ 445] 。
大分県
182体が寄贈され、4体が現存。
宮崎県
131体[ 451] (船便では124体)が寄贈され、1体のみ現存。県内に配られた人形は次の通り。
宮崎市:3、都城市:3、宮崎郡:14、南那珂郡:19、北諸県郡:16、西諸県郡:11、東諸県郡:8、児湯郡:15、東臼杵郡:20、西臼杵郡:11、師範附属学校:2、幼稚園:8[ 452]
鹿児島県
209体が寄贈されたが、現存が確認されていない。
沖縄県
65体[ 458] が寄贈されたが、現存が確認されていない。配布の内訳は以下の通り[ 459]
沖縄県師範付属校・女子師範付属校各1体、那覇市11体、首里市3体、島尻郡18体、中頭郡11体、国頭郡12体、宮古郡4体、八重山郡4体
旧外地
旧外地 へは内閣拓殖局へ319体が割り当てられている[ 9] 。
樺太
樺太 には20体が寄贈された[ 39] 。出典[ 464] も参照。
大泊楠渓幼稚園 (グレンデール):現在は東京都の個人が所有。外地に贈られた「青い目の人形」の唯一の現存例。
鵜城郡のある小学校(ヘンドリック)[ 465]
豊原幼稚園(グレース)
落合小学校(ワーレス・ウェード)
本斗小学校(パトリシアン)[ 466] 。
贈先不明(ジョン・ウェスリー、ローズメアリー、ローズバット、セルマ、ジョアン、チェリーブラッサム)
台湾
日本統治下の台湾 には93体が寄贈され、88体が役所・学校などに贈られた。出典はこちら[ 467] 。
※内訳:台北州20、新竹州8、台中州17、台南州24、高雄州12、台東庁2、花蓮港庁3、澎湖庁2(日本統治時代の台湾行政区分 による)
朝鮮
日本統治下の朝鮮 には193体が寄贈された[ 39] 。
大邱公立高等女学校:2体の人形が寄贈されている[ 468] 。
慶尚南道河東小学校(クララ・エルアンダーマン)[ 469] :ペンシルベニア州カナダウンシスより寄贈(パスポート:†No.12989)。
慶尚南道統営小学校(エリザベス・ミッチエル)[ 469] :フロリダ州より寄贈。
木浦公立尋常小学校(現:儒達小学校):人形の歓迎会の写真が残されている[ 470]
京城日出小学校[ 471]
個人所有:大阪朝日主催の人形歓迎歌の応募で一等を獲得した驪州公立普通学校の少女が賞品として受け取った人形。[ 12] [ 242]
中国(関東州)
日本の租借地 ・中国関東州 には10体が寄贈された(大連3体、旅順2体、他5体[ 472] )[ 39] 。
贈先不明
"DOLLS OF FRIENDSHIP"(参考資料)に掲載された人形たち。
スーザン・パルマー:ペンシルベニア州パーマトン (英語版 ) のパルマートン博愛社より寄贈された双子のうち、富山県の伏木保育園に送られた「ステファン・パルマー(現存)」の相方のほう[ 477] 。
ニュージャージー州 のフレンズ小学校から贈られた人形のうち、八王子市立第八小学校(現存、戦後「メアリー」と命名された)の他に贈られたと思われる2体[ 239] 。
1927年1月17日 に横浜港に到着したサイベリア丸で秩父宮 と共に乗船した300体の人形のうち、当時の新聞で紹介されたもの[ 478] 。
メリーアーン:アイオワ州 デスモイス市 の個人より。
メリー・ベス:オクラホマ州 ダーラント市のキリスト教会の児童より。
アン:マサチューセッツ州より。化粧道具や着替え、1ドル札入りの財布を所持していた。
『アサヒグラフ 』第8巻第10号「人形大使歓迎号」(1927年(昭和2年))に掲載された人形。
ルス(ウィッテリア村より寄贈)、ロレナ(贈元不明):お人形さんの手紙(和訳)より。
答礼人形が送られた施設他
答礼人形を日本から送り出す際は、「筑波かすみ」や「東京花子」などのように郷土にちなんだ名前が名づけられ、アメリカでは郷土名を取って「ミス○○」といった形で呼ばれている。但し、既に説明の通り、台座と人形が入れ替わってしまっているものがあり、これに気づいたのは後年であるため、長い間、台座に記された名前が贈り元だとして扱われてきた[ 479] 。例えば、「ミス三重」は「三重子」(元々の人形が三重県)ではないことが判明しているが、「三重から送られた人形」として扱われている[ 25] [ 26] し、「ミス広島」のように一度里帰りした後に、元の人形が発見されて別々の施設に同じ「ミス広島」という人形が展示されているようなケースもある。里帰りについては送り元の都道府県・都市に戻った時期を示し、国内での展示会や修繕のためだけに戻ったものは含まれない(1988年 の里帰り展(国内のそごう 10店舗)には現存の25体中19体が参加しているが、送り元の都道府県に里帰りしたのは4体だけ[ 480] )。
なお、1928年当時の48州及びワシントンD.C.のうち、オクラホマ州 及びニューメキシコ州 には答礼人形は贈られていない(うちニューメキシコ州には後に「ミス山口」が移されている)。
受取先:出典[ 481] を元に記述。
太字 は取り違えがないまま現在に至っている人形[ 479] 。
人形の名前
昭和3年の受取先
所蔵施設等
里帰り
備考
ミス大日本 [ 注釈 31] 倭日出子(やまとひでこ)
ワシントン市国立博物館
ワシントンD.C. スミソニアン国立自然歴史博物館
1983年 [ 483] 1986年 1988年[ 480]
付き添いの人形共に保管。1986年(昭和61年)、修繕のために日本へ戻った際、松乾斉東光により男子人形の「倭富士男(園田天光光 により命名された)」が製作され、共にワシントンへ送られた[ 57] 。
ミス北海道 北海花子(ほっかいはなこ)[ 484]
アイオワ州ダベンポート市公立博物館
アイオワ州 ダベンポート パットナム歴史自然科学博物館
1988年[ 480]
「北海花子」は北海道帝国大学 教授の西村真琴 により命名された[ 484] 。人形自体は元々「ミス福岡」。1988年に札幌そごう(7/8~7/13)にて里帰り展示。
ミス青森 青森陸奥子/睦子[ 130] (あおもりむつこ)
ニューヨーク州ロチェスター市立博物館
マサチューセッツ州 個人所有
未
1963年にマサチューセッツ州ダートマス のアンティークショップで購入[ 485] 。
ミス岩手 岩手鈴子(いわてすずこ)
アラバマ州バーミングハム公立図書館
アラバマ州 バーミングハム バーミングハム公立図書館
2015年 2017年 -2018年
人形は元「ミス大分」。岩手県立博物館 にて2015年12月24日〜翌年3月6日まで里帰り展示[ 486] 。2017年には陸前高田市 コミュニティーホールにて東日本大震災の津波の被害に遭った市立気仙小学校の青い目の人形「スマダニエル・ヘンドレン」と共に12月8~10日の会期内に展示される他、岩手県内の各地域で3月頃までに展示された。[ 138]
ミス宮城
カンザス州トピカ市 マルヴェーン博物館
カンザス州 個人所有(普段はミズーリ州セントジョセフ博物館にて保管)[ 138]
2003年 2015年[ 487] 2017年
収蔵していた博物館は、1966年の竜巻で倒壊[ 2] 。後にカンザス州在住の人物が1982年にオークションで入手した人形が、1998年にミス宮城であることが判明(但し、人形本体は元々「ミス北海道」)[ 2] 。 2015年には2度目の里帰りを果たし、5月1〜6日に仙台市歴史民俗資料館で展示され、[ 487] 2017年7月30日より「青い目の人形」寄贈90周年を記念して3度目の里帰りとして、同館にて県内の「青い目の人形」10体と共に10月1日まで展示された[ 488] 。
ミス秋田 秋田蕗子(あきたふきこ)
ミシガン州デトロイト市児童博物館
ミシガン州 デトロイト デトロイト児童博物館
未
人形は元「ミス石川」。1990年 には「ミス秋田」を所有しているデトロイト児童博物館に横手 ユネスコ協会より友情人形の「横手雪子」が寄贈された[ 489] 。1988年に一旦帰国しているが、秋田県への里帰りは実現していない[ 480] 。
ミス山形 山形千歳(やまがたちとせ)
メイン州オーガスタ市 州立博物館
メイン州 州立博物館
未
人形自体は「ミス沖縄」。寄贈された当初の着物の褪色が甚だしかったため、後に別の着物に着せ替えたとのこと。元の「ミス山形」は行方不明。1988年に一旦帰国しているが、山形県への里帰りは実現していない[ 480] 。
ミス福島 福島絹子(ふくしまきぬこ)
テキサス州 ハウストン 市美術館
モンタナ州 個人所有
2008年
台座、お道具、人形が取り違われ、福島出身の人形である「福島絹子」がどこにあるのかは判明していない[ 490] 。
ミス茨城 筑波(つくば)かすみ
ウィスコンシン州ミルウォーキー市公立博物館
ウィスコンシン州 ミルウォーキー ミルウォーキー公立博物館
2007年
人形は「ミス栃木」(「ミス茨城」の人形の方は不明)。
ミス栃木 日光幸子(にっこうさちこ)
ウェストバージニア州 チャールストン市 州立博物館
行方不明(台座)
日光幸子は中禅寺湖 が明治天皇 により「幸の湖」と呼ばれたことから命名された[ 179] 。
ミス群馬 上野絹子[ 484] (うえのきぬこ)
ニューヨーク州 ブルックリン 博物館
個人所有→フロリダ州 デルレイビーチ モリカミ博物館
2016年
長年所在が不明であったが、2009年にマレーシアで発見され、アメリカの人形研究家が数年前に入手(台座は「ミス群馬」であるが、人形の方の出自は「ミス鳥取」)。修復もかねて2016年7月23日〜8月21日にかけて前橋文学館 で展示された[ 491] 。2017年に博物館に寄贈。
ミス埼玉 秩父嶺玉子(ちちぶねたまこ)
サウスカロライナ州チャールストン市チャールストン博物館
サウスカロライナ州 チャールストン博物館
1988年[ 480] 1997年 [ 492]
博物館に展示されているのは、1927年当時の「ミス台湾」[ 493] 。1988年に19体の答礼人形と共に初の里帰りを実現している(大宮そごう:8/12~17)。2020年11月13日 には、埼玉県さいたま市 岩槻区 の人形職人により、当時の「ミス埼玉」が復元され、2021年3月23日から同5月16日にかけて、埼玉県立歴史と民俗の博物館 にてNHK大河ドラマ 特別展『青天を衝け ~渋沢栄一のまなざし~』で、県内の12体の「青い目の人形」などと共に展示された[ 494] [ 495] 。
ミス千葉 千葉子(ちばこ)・房子(ふさこ)[ 496]
カリフォルニア州 リバーサイド ミッション・イン
行方不明
房子は千葉子の侍女[ 497] 。
ミス東京府 東 京子(あづまきょうこ)
バージニア州 リッチモンド市 図書館児童室
行方不明
ミス東京市 東京花子(とうきょうはなこ)
ニューヨーク州ニューヨーク市博物館
行方不明
ミス神奈川 神奈子(かなこ)
オレゴン州ユーゼン市 オーナー東洋博物館
行方不明(台座)
人形は「ミス奈良」、所持品は「ミス福岡」のもの[ 498] 。
ミス横浜 横浜浜子(よこはまはまこ)
カリフォルニア州サンフランシスコ市市立図書館
コロラド州 デンバーミニチュア・人形・玩具博物館[ 499]
1988年(後述)
台座の方は不明。
ミス新潟 新潟雪子(にいがたゆきこ)
コロラド州 デンバー市公立図書館
行方不明
未
デンバー公立図書館で長年、「ミス新潟」として展示されていたが、1988年の里帰り帰国の際に「ミス横浜」と判明した[ 72] 。人形の方は行方不明。
ミス富山 八重桜(やえざくら)
ケンタッキー州ルイビル市J.B.スピード記念博物館
ケンタッキー州 ルイビル スピード美術館
1995年
1937年の洪水で流失したものとされていたが、その後、1992年に博物館の奥底に眠っているのを発見され、1995年に修繕を兼ねて里帰りを果たした。
ミス石川
モンタナ州ヘレナ市州立博物館
モンタナ州 ヘレナ モンタナ歴史協会
未
人形は元「ミス秋田」。1988年に一旦帰国しているが、石川県への里帰りは実現していない[ 480] 。
ミス福井
ユタ州 ソルトレイクシティ 州立博物館
オハイオ州 クリーブランド クリーブランド美術館
「ミス岐阜」として展示されていた[ 500] 。台座は紛失(写真でのみ確認)。
ミス山梨 山梨/甲斐[ 497] 富士子(やまなし/かい ふじこ)
ワイオミング州シャイアン 市州立博物館
ワイオミング州 ワイオミング州立博物館
未
1996年に横浜市で展示会が開かれたが、山梨県への里帰りはまだ実現していない[ 501] 。
ミス長野 長野絹子(ながのきぬこ)
ロードアイランド州 プロヴィデンス市 ロジャー・ウィリアムス公園博物館
デラウェア州 ウィルミントン デラウェア歴史協会(人形)
2004年
ロードアイランド州の博物館に寄贈された人形は現存せず、長いこと行方不明になっていたが、後の調査で「ミス樺太」として展示されていた人形が「ミス長野」であることが判明[ 292] 。
ミス岐阜 ギフ子(ギフこ)
オハイオ州クリーヴランド公立図書館
オハイオ州 クリーブランド クリーブランド美術館 (従来のミス岐阜として展示)
1995年
里帰りの返還の際、妹人形として「あゆ」が合わせて寄贈された。また、クリーブランド市からは「セーラ」が、ギューリック三世からは1996年に「新・青い目の人形」の二代目「マリリン」(後に2003年 にはカンザス州の女性から「スーザン・ギブソン」他3体の「新・青い目の人形」[ 73] )が岐阜市立明徳小学校 に寄贈されている。 人形の出自は後の調査で「ミス福井」であることが判明している[ 500] 。
ミス静岡 富士山三保子(ふじやまみほこ)
ミズーリ州カンザス市公立図書館
ミズーリ州 カンザスシティ博物館
2016年
着物は全米を巡回しているうちに傷み、「ミス神戸(人形は消息不明、素材は「ミス静岡」と異なる)」の着物を着せられたという[ 502] 。2016年2月21日より、静岡市 のグランシップのほか、沼津市 、浜松市 の会場にて里帰り展示が行われ、4月から5月にかけて県内を巡回展示。人形本体の修復作業や寄贈当時の赤の地色に似せた着物の新調が行われたうえで、12/3〜11に静岡県立美術館 でお披露目展示が行われた後、アメリカへ帰国した[ 503] 。
ミス愛知
テネシー州 ナッシュビル 美術館
ミネソタ州 個人所有
2017年
2010年にロードアイランド州 プロヴィデンス で発見[ 504] [ 505] (平田郷陽・作、個人所有)され、収集家が所有していた人形が2013年の調査により、本物の「ミス愛知」と判明した[ 506] 。なお「ミス愛知」はオークションでの落札当時日本髪になっておらず、洋服を着せられていたため、元の姿に修復する作業が施された[ 507] 。2017年夏に里帰りし、愛知県内の各地域にて7月19日~9月10日にかけて、現存する県内の「青い目の人形」と共に展示が行われた[ 508] 。
ミス名古屋
ジョージア州アトランタ市高等美術館
ジョージア州 アトランタ アトランタ歴史センター
1985年
「おんなと太平洋戦争展」(中日新聞社)にて里帰りの際に着物を修復。[ 509]
ミス三重 三重子(みえこ)
ネブラスカ州リンカーン 州立博物館
ネブラスカ州 ネブラスカ大学
2009年 2017年
実際には「ミス三重」の台座に乗っている人形は三重子でない(「ミス宮崎」。なお、元「ミス三重」は「ミス兵庫」として展示)ことが判明しているが、三重を故郷として、2009年の夏に里帰りし、2017年の7月11日~9月3日に再び里帰り展示が行われた[ 25] [ 26] [ 510] 。
ミス滋賀 近江滋賀子(おうみしがこ)[ 497]
フロリダ州 マイアミ市 フレグラー図書館
行方不明
図書館は後に閉館し、人形の消息も不明[ 511] 。
ミス京都府 京都宮子(きょうとみやこ)
マサチューセッツ州ジャマイカ・プレーン・ボストン子ども博物館
マサチューセッツ州 ボストン ボストン児童博物館
1985年
ミス京都市 [ 366] 山城/平安京子(やましろ/へいあん きょうこ)[ 497]
アーカンソー州リトルロック市 アーカンソー博物館
アーカンソー州 アーカンソー歴史博物館
2012年 [ 366]
ミス大阪府 鞠子(まりこ)[ 512]
オハイオ州コロンバス市 州立博物館
オハイオ州 オハイオ歴史協会
1989年
人形は「ミス大阪市」と入れ違い。
ミス大阪市 ミス浪速(なにわ)[ 497]
ニュージャージー州ニューアーク市ニューアーク美術館
ニュージャージー州 ニューアーク ニューアーク博物館
1989年
人形は「ミス大阪府」と入れ違い。弟人形共に保管。大阪市制百年を記念して、「ミス大阪府」とともに展示された。
ミス兵庫
ミズーリ州セントジョセフ児童博物館
ミズーリ州 セントジョゼフ博物館
1997年
台座の人形は元「ミス三重」。人形は行方不明。
ミス神戸
コネチカット州スタンフォード市 ラーネット私立公開博物館
行方不明
1981年登録抹消後、売却される。寄贈時の着物のみ「ミス静岡」に着せられた形で現存する。
ミス奈良
アイダホ州ヴォイス市 州立博物館
アイダホ州 アイダホ歴史博物館
1994年 [ 409]
人形は「ミス神奈川」のもの。里帰りの際に、ネ・ペルセ族 の民族人形も県へ寄贈された[ 513] 。
ミス和歌山
ネバダ州リノ市 州立博物館
ネバダ州 ネバダ歴史協会
未
後の調査で判明するまでは「ミス奈良」として展示されたことから、本来の「ミス奈良」と同一視された経緯もある[ 409] 。1988年に一旦帰国しているが、和歌山県への里帰りは実現していない[ 480] 。
ミス鳥取
サウスダコタ州ピール市州立博物館
サウスダコタ州 サウスダコタ州立歴史協会(台座) フロリダ州デルレイビーチモリカミ博物館(人形)
1989年 [ 514]
1989年の里帰りの時に、日本人形のミスター鳥取「はなふさ」が寄贈された[ 515] 。後にマレーシア在住の人物より落札された人形が元々の「ミス鳥取」と判明した。現在展示中の「ミス鳥取」の出自は「ミス宮城」と思われる[ 516] 。
ミス島根
インディアナ州インディアナポリス子ども博物館
インディアナ州 インディアナポリス児童博物館(台座) コロラド州個人所有(人形)
未
博物館の方の人形は「ミス和歌山」。
ミス岡山 岡山桃子(おかやまももこ)[ 130]
ノースダコタ州ファーゴ市 メイソン図書館
ノースダコタ州 ノースダコタ州立大学 織物コレクション
2001年
2013年、「ミス岡山」が里帰りしてから10年経った記念として、倉敷市 児島 の住民がノースダコタ州に雛人形を贈ったお礼に、2016年5月30日にギューリック3世夫妻から味野幼稚園に「ジーニー」が寄贈された[ 517] 。
ミス広島 広子[ 497] (ひろこ)
メリーランド州ボルティモア美術館
メリーランド州 ボルチモア美術館(台座)バージニア州 ノーフォーク バリー美術館(人形)
1974年 1988年[ 480]
ボルチモア美術館の方の人形は「ミス山口」。答礼人形の中では最も早い1974年に里帰りを果たしている。1988年には他の答礼人形と共に二度目の里帰り(広島そごう:5/13~5/18)。1997年に元の「ミス広島」が発見され、のちにバリー美術館に寄贈(台座の方は新調)[ 518] 。
ミス山口
イリノイ州シカゴ美術館児童部
ニューメキシコ州 サンタフェ 国際民俗芸術博物館
人形の方は「ミス佐賀」。1951年 に現在地へ移動。
ミス徳島
ワシントン州スポーケン市 博物館
ワシントン州 スポケーン ノースウエスト美術文化博物館
1988年[ 480] 、2010年
人形は元「ミス岐阜」。1988年に他の答礼人形と共に初めての里帰り(徳島そごう:5/20~5/29)を果たした。2010年には県内唯一の青い目の人形「アリス・ジョンストン」共に里帰り展示が行われた。
ミス香川
ノースカロライナ州ラレー市 州立博物館
ノースカロライナ州 ノースカロライナ州立自然科学博物館
1998年
真珠湾攻撃 による日米開戦の際にも、かつての人形を交えての友好を忘れない旨のメッセージを添えて、人形を展示し続けていた[ 519] 。里帰りの際、「かおり」「さくら」「かこ」の3体の妹人形が寄贈された[ 520] 。
ミス愛媛
ミシシッピ州ガルフポート公立図書館
ミシシッピ州 ガルフポート公立図書館 (後に行方不明)
未
初代が1969年8月のハリケーン 「カミーユ 」、2代目「ミスえひめちゃん」(1988年寄贈)[ 521] が2005年8月の「カトリーナ 」により喪失。これら2体の失われた人形の絵が3代目として寄贈されることになった[ 422] [ 522] 。
ミス高知
ペンシルヴェニア州ピッツバーグ市カーネギー自然歴史博物館
ペンシルバニア州 ピッツバーグ カーネギー自然史博物館
1993年
博物館に展示されているのは、旧「ミス埼玉」[ 493] 。元のミス高知は行方不明。
ミス福岡 (通称不明)[ 497]
未定[ 523]
オレゴン州 ユージーン ジョーダン・シュニッツァー美術館
1993年[ 524]
2000年 に美術館改修の際に発見される。人形は元「ミス群馬」、持ち物は「ミス神奈川」の所持品[ 498] 。
ミス佐賀 鍋島肥佐子(なべしまひさこ)
ペンシルバニア州 フィラデルフィア市 商品陳列館
行方不明
閉館後の人形(当時は「ミス東京府(写真でのみ確認)」)は消息不明だったが、「ミス山口」として展示されていた人形が後に「ミス佐賀」と判明した。
ミス長崎 長崎瓊子(ながさきたまこ)
未定[ 523]
ニューヨーク州 ロチェスター 市立科学博物館
2003年 2007年
「ミス青森」として保管されていた人形が、「ミス長崎」であることが2000年に判明。 2003年の里帰りの際、妹人形として鶴子(武文子・作)が合わせて寄贈された。 2007年の「青い目の人形と長崎瓊子展」では日本国内の「青い目の人形」など180体余りと共に展示された。
ミス熊本
ルイジアナ州 ニューオーリンズ市 州立博物館
行方不明
ミス大分
マサチューセッツ州スプリングフィールド市博物館及びウースター 市美術館
マサチューセッツ州 スプリングフィールド スプリングフィールド科学博物館
1996年
人形は元「ミス岩手」。1996年8月、大分県立芸術会館 で里帰り展示が行われた[ 525] 。
ミス宮崎 日向瓊子(ひゅうがたまこ)
ミネソタ州 ミネアポリス市 美術館
ミネソタ州ヘネピン中央図書館
未
人形自体は「ミス徳島」[ 526] 。元のミス宮崎は現「ミス三重」。
ミス鹿児島 薩摩昭子(さつまあきこ)
アリゾナ州フェニックス市アリゾナ博物館
アリゾナ州 フェニックス フェニックス歴史博物館
2002年
鹿児島市 金生町 の山形屋 にて12月5〜10日に里帰り展示が行われた。[ 527]
ミス沖縄 沖縄球子(おきなわたまこ)[ 528]
オハイオ州シンシナティ美術館
オハイオ州 シンシナティ シンシナティ美術館
未
元の人形は「ミス樺太」。1988年に一旦帰国しているが、沖縄県への里帰りは実現していない[ 480] 。
ミス樺太 樺太華子(からふとはなこ)[ 62]
デラウェア市博物館
デラウェア州 ウィルミントン デラウェア歴史協会(台座)
(旧外地)
近年「ミス長野」と判明するまで「ミス樺太」として展示されていた。人形は「ミス沖縄」として展示。
ミス台湾
カリフォルニア州ロサンゼルス市博物館
ロスアンゼルス ロスアンゼルス国立自然史博物館
(旧外地)
台座の人形の方は出自不明。
ミス朝鮮
コネチカット州ハートフォード市児童博物館
コネチカット州 コネチカット科学協会 → インディアナ州ヴァルパレーゾ 大学ブラウア美術館
(旧外地)
ミス関東州 満州子(ますこ)[ 62]
ニューハンプシャー州 マンチェスター市 美術館及びバーモント州 セント・ジョンスペリ・フェアバンクス博物館
ワシントン州ロザリー・ワイエル人形アート博物館(台座) ニュージャージー州ストラッドフォード個人所有(人形)
(旧外地)
人形の方は1998年10月ニュージャージー州の骨董店にて購入。博物館の方は元の人形の出所は不明[ 529] 。
青い目の人形を題材にした映画・テレビ番組等
(参考)『青い眼の人形 』 - 1926年の日本映画。但し、同名の楽曲からタイトルを取ったにすぎず、「青い目の人形」との関連はない。
『Doll Messengers of Friendship[ 530] 』 - 1927年に制作された「青い目の人形」をはじめとした日米人形交流の当時の記録映画。日米同時に上映されたが、日本側のフィルムは現存せず、アメリカで2016年に発見された。現在は渋沢史料館が所蔵している[ 531] [ 532] 。
『青い目の人形[ 533] 』 - 1982年のアニメ映画。東映教育映画部制作。
『青い目の人形物語~平和の使者~ 』 - 1995年制作。埼玉県越谷市立大沢小学校 の青い目の人形「ワーテラ・ヘズ」をモデルにした作品[ 534] [ 535] 。埼玉県平和資料館 で毎日上映を行っている。
映画制作 - 株式会社アスパクリエイト
主な声役 - 丹下桜 (主人公:和寺千夏)
『ジュリーの海&空 』 - 2011年上映。香川県内に唯一現存する「アナマ・ジュリー」をモデルにした映画。さぬき映画祭 2011出展、審査員特別賞受賞。
『太平洋にかける虹 』(アーカイブ) - 1992年3月20日[ 536] 。制作:シナノ企画 ・東映アニメーション 、原作:池田大作 。1987年発表の小説[ 537] をもとに制作されたアニメ。中国人の少女が「青い目の人形」を通じて勇気を学ぶ物語。
『スポットライト 』 - NHKテレビ。1973年3月15日放送の『人形使節メリー 』にて「青い目の人形」が取り挙げられ、後年の人形にまつわる運動へとつながった(関連番組:『歴史への招待 』 - NHKテレビ。『青い目をした人形大使 知られざる移民哀史』(1982年2月6日放送))。
『ウルトラマンレオ 』 - TBSテレビ 系列。第45話『恐怖の円盤生物シリーズ!まぼろしの少女』(1975年2月14日放送)に青い目のフランス人形が登場し、童謡『青い眼の人形』が歌われるシーンもある[ 538] 。
『Gメン'75 』 - TBSテレビ系列。第299話『青い目の人形バラバラ殺人事件』(1981年2月28日放送)に、戦前に日本に贈られたとされる青い目の人形(ニューヨーク州ロチェスターから贈られた「ルーズ・ナオミ」)が登場する。ちなみにこのストーリーは『特救指令ソルブレイン 』(テレビ朝日系列 )の第15話『人形は平和の使者』(1991年4月28日放送)でリメイクされている。
『青い目をしたお人形は 』 - TBSテレビ系列。1983年11月12日放送。昭和初期、「青い目の人形」を受け取った女性と後の時代における人形との関わりを描いたドラマ。原作:武田英子 。出演:広瀬珠実 、藤谷美和子 、南田洋子 (それぞれの時代のヒロイン役)ほか。撮影当時現存の「青い目の人形」109体もドラマに出演している[ 539] 。
『中学生日記 』 - NHK名古屋放送局 制作。1993年10月3日放送回の『青い目の人形』[ 540] には、愛知県・田峯小学校の「グレース・A・グリーン」が登場する[ 541] 。
『先生の秘密 』 - NHK松江放送局 制作。2007年8月5日放送。島根県で見つかった青い目の人形「キャサリン」を扱ったテレビドラマ。
この外にも、「青い目の人形」に関するドキュメンタリー番組(自主制作を含む)や小説、絵本や紙芝居、演劇、楽曲も発表されている(外部リンクも参照)。
その他
大木ヘルスケアホールディングス が『大木合名会社』時代に昭和10年頃に掲載した幼児向けの化粧品『オーカ』の新聞広告には、「お人形のやうに、可愛らしいお子様のお肌は、お人形の肌のやうに、滑らかでなくてはなりません。」と、「青い目の人形」などの人形のイラストが描かれている[ 542] 。
1989年 6月2日 、ふるさと切手 の神奈川県版(62円・タイトル:「青い目の人形」、発行枚数1,250万枚[ 543] 、モデルの人形は横浜市立本町小学校の「ブロッソン」と思われる)として発行された[ 544] 。
2014年 2月、JR深谷駅 北口に、渋沢栄一没後80年を記念して「からくり時計 」が設置された。時計には「青い目の人形」や答礼人形のイメージも盛り込まれている[ 545] 。又、野口雨情 ゆかりの北茨城市 の磯原駅 東ロータリーにも同様のからくり時計が設置されており、『青い眼の人形』などのメロディと共に「青い目の人形」のオブジェが出現する[ 546] 。
2008年3月18日、愛媛県の「青い目の人形」の「フランセッタ」「ノーマ」「ピッティ」の3体に、2010年12月5日には兵庫県播磨町 の「メリー」[ 547] 、2016年3月12日には長崎県島原市 の「リトル・メリー」[ 548] に特別住民票 が交付されている。
「青い目の人形」の身体的特徴や歴史的背景などから時々鑑定品を扱うテレビ番組 や怪談 の題材として取り上げられることもある。
ギャラリー
青い目の人形 ローラ・マーガレット(Laura Margaret)(石川県 白山市立鶴来図書館夏季展示 2015年夏)
青い目の人形「エレナ」(横浜人形の家所蔵・実物)
青い目の人形「エレナ」のパスポート(横浜人形の家)。時々、新潟県柏崎市の『痴娯の家』に保管されている「ミルドレッド」のパスポート(No.2945)の複製も展示されている。
ギューリック3世より寄贈された新・青い目の人形「ジェニファ」(横浜人形の家)
横浜市内に残る「青い目の人形」たち(横浜人形の家、2016年6月3日の特別展示にて。)
脚注
注釈
^ ギューリックらによって結成された世界児童親善会は日本に限らず、1928年にはメキシコ へ30,000個の学校かばん、1929-30年にはフィリピン へ28,000個の親睦宝石箱、1931年にプエルトリコ へ6,000個の親睦宝石箱、1932年に中国 へは20,000個の親睦ホルダーを友好の証として寄贈している。出典:To Clear up a Cloud Hanging on the Pacific Ocean: The 1927 Japan-U.S. Doll Exchange - Rui KOHIYAMA・著 、武田・1985年 p.231、'Messengers of Goodwill': America’s Tokens of Friendship and Power 。この手段は、当時の国際状況において外国の子供同士が直接触れ合う機会がない中での、自国内で量産できる人形などを象徴として、メッセージを互いに交換しあうことによって成立するものであると考えられた。その見返りも日本の答礼人形以外に、メキシコ の手工芸品の展示やフィリピン からの子供用ラジオによる演説といった形で実現された。
^ 寄贈された人形の個数は資料により異なる。本記事にある12,739体は渋沢史料館提供の『青い目の人形にはじまる人形交流展(横浜人形の家 ・刊)』に記載された数であり、American Blue-eyed Dolls Locations には12,294体、"Dolls of Friendship"(1930年刊)にはアメリカ各地より贈り出されたのが11,276体(武田・1985年 pp.233〜238)、『渋沢栄一伝記資料第38巻』には13,357体(破損6)と記されている。この他、個人篤志家からの157体や各州代表人形も贈られている[ 1] 。出典:親善人形の会ニュース第190号 (SWFファイル) 2015年6月6日閲覧。又、後述の参考資料の"WELCOME TO THE AMERICAN DOLL MESSENGERS"によると、世界児童親善会から贈られた12,739体のうち諸事情により不適当となった704体を除き、日本側が受け取った人形の数は12,035体であり、そのうち破損した62体を除いた11,973体が分別され、10,761体が日本国内の学校や幼稚園などへ寄贈された。他の1,212体は文部省のストックとして保管され、外地の分を含めて分配された他、修繕した62体を含めたものが国内の学校などへ追加配分された(長嶺 pp.256・257)。こうした「青い目の人形」が贈られた体数は文献によりまちまちであるため、本記事では広く用いられている冒頭の出典の12,739体のケースを適用する。
^ アラスカ とハワイ は当時は含まれていない。それぞれ1959年 に州に昇格。
^ ギューリックの意図では子供たち一人一人に人形が配られることを望んでいたのに対し、全米から集められた人形が相対的に少なかったことから学校単位で配られることにより、児童全員に人形を紹介してもらうことで本来の目的を果たそうとしたのだろう[ 13] 。
^ 雛祭りが女の子のお祭りという性質上、旧制中学校には贈られず、高等女学校にも配布されたと思われる。
^ もっとも、当時の人形に対する処分が実際に対米政策として、軍の命令や文部省の通達によるものだったのかは、今となっては確証がない[ 23] 。
^ 「ママー」の機能は、童謡『青い眼の人形』でも歌われているように、日本に送られながらホームシック になり、故郷にいる母親を想う一方で、日本の児童たちに母親代わりに可愛がってもらう意図があると思われる。
^ みやぎ青い目の人形を調査する会ニュース No.11 2002.12.20 によれば、「青い目の人形」の表現は特定の人種や身体的特徴を指す場合があるため、ギューリックも現在の3世に至るまで「青い目の人形」とは呼んでいない。実際、大半は白人の人形が贈られているが、中には黒人(愛知県田原中央小学校(青い目の人形HP) )やアメリカ原住民[ 1] の人形が贈られたケースもある。これは、日本からの答礼人形を一部で「黒い目の人形」と呼ぶことに関しても同様といえる。
^ 「青い眼の人形」が流行した当時も、人形の歓送時の式典で歌われた「人形を迎える歌」「人形を送る歌」を始め、「青い目の人形」のブームにあやかって多くの楽曲やレコードが発表されたが、童謡の方の印象が大きかったせいか、多くは戦中までに忘れ去られてしまった。
^ 是沢 pp.75〜76によると、ゴムやセルロイドは輸送中の劣化や破損の恐れが高いため、コンポジション・ドールの方が壊れにくい素材として採用された経緯がある。要するに、消耗の著しい玩具として輸入される人形とは異なり、友情人形は友好の証として長く愛されることを前提としたため丈夫な素材が求められていたのである。
^ ビスクドールには次のケースが考えられる。(1)第一次世界大戦 後、ドイツの敗戦によりヨーロッパから職人がアメリカへ移住して製作された人形や、日本から輸出されたものの逆輸入、ヨーロッパから持ち込まれた個人所有のアンティックドールのようなもの (2)ヨーロッパで製作されたビスクのヘッドを輸入してアメリカで胴体や衣装などをこしらえた人形。[ 35]
^ コピーの人形のため、当然正規のパスポートは持っておらず、また友情人形にある目の開閉や「ママー」と泣く機能も付いていない(逆に加藤の著書にて友情人形の機能を備えたものも販売されていたという証言もある。おそらくメーカー仕様の人形を元に国内で拵えたものか、予め人形の身なりで独自に輸入したもの(あるいは舶来の土産物として持ち込んだ)と思われる)。
^ 前述の冊子には人形が10万体以上寄贈されることを望んでいたため(実際はその1/10程度が贈られた)、それを見込んだ数字と思われる。
^ "Uncle Sam"は頭文字が"U.S."であることから、アメリカ合衆国政府や一般的なアメリカ人を指す言葉でもある。
^ こうした時代背景から、児童の人形に対しての扱いも時勢により変化が見られ、平和や友情を携えて迎え入れられたはずの「青い目の人形」も、日米開戦時には当時の新聞記事にも見られるような「仮面の親善使」とか「敵国のスパイ」として憎しみの対象になったと思われる。
^ 戦前の日本の学校や幼稚園はほとんどが木造で災害に対して脆弱な造りだったことから、これらが起因して人形が失われたケースが戦時中同様に多かったのかもしれない。
^ 盗難に遭った人形はいずれも年代物のビスクドールだったため、希少価値があるものとしてマニアに目を付けられていた。
^ 当時は不景気で普段は小遣いがほとんどなく、祭りの日に一銭で二個の饅頭 が買える状況であったほどの欠食児童 がいた有様だった。
^ 実際は「青い目の人形」の数に相当するプレゼントを贈る動きもあった。朝日新聞 昭和2年3月11日号『日本のお人形五十萬個をアメリカから注文し來る 製造地の埼玉鴻ノ巣町大喜び 念入りに作って四月中旬発送』には、埼玉県 鴻巣市 に4月中旬発送を目指して50万体以上の人形の受注があったほか、武田・1985年 p.27によると、ギューリックの方からも友情人形に対するお礼の手紙類とは別に、児童の絵画を納めたアルバムや、「友情袋」と称した小物の詰め合わせなどを贈るアイデアも出されていた。
^ 胡粉を塗り付けた人形の肌はアメリカで歓迎を受けた際、頬ずり やキス といった現地でのスキンシップの風習で傷んだこともあり、日本人形の仕上げに関する改良の起因にもなったといわれている[ 58] 。同様に手先の可愛らしさから、握手の連続で手垢によって黒光りしたものもある[ 59]
^ 「青い目の人形」と同様に寄贈のメッセージや身分証明が書かれている。例:「ミス大日本」Name:Miss Hideko Yamato Eyes(colour):Black Hair(colour):Black Nose:Medium Mouth:Small Place of birth:Japan(ドラマ『青い目をしたお人形は』より。)。なお、パスポートは着物の袂に入れただけだったため、紛失してしまい、人形の名前が認識できないケースも多かった
^ 富士山三保子さん - すたっふどらいふblog 2016年6月25日閲覧。なお、煎茶道具等は紛失したため、2016年の里帰りの際に新調されたとのこと。煎茶道具は静岡県茶業組合より他の答礼人形にも寄付され、ミス岩手、ミス香川などの所持品としても現存する。
^ 鉄道での人形搬送は高額のためや輸送中の破損のおそれがあったことから17体までとした[ 70] 。
^ 友情人形と同じように学校単位で人形が配られず、各都市で歓迎を受けたうえで博物館などに寄贈される理由としては、多くのアメリカ人に日本の文化を知ってもらいたいという意図があったからである。[ 13]
^ 原典:『岩手日報』昭和2年3月30日付。但し誤りも一部あって、下閉伊郡(『岩手毎日新聞』昭和2年4月5日記載。)が抜けている。また、現存する人形の中にはリストにない学校も含まれている。
^ 是沢 巻中グラビア。朝日新聞 昭和2年3月17日号『皆さんこんちは きのふ箱から出た 青い眼のミス・アメリカ』によると、「これはニューヨークの”メリホレント コンミネア チャーチ”[ 230] からだしたもので最初の名は『アンナ・シェー』嬢といひ、その所持してゐる旅行免状(※現存せず)第三千二百九十七號には身長一尺二寸(約36cm)、眼は青く、髪は黄金色で鼻は大きく口は小さい(以下略)」とある。
^ 武田・1985年 巻頭口絵p.2には東京博物館展示の「人形の家」の写真(国立科学博物館所蔵)に「ミス・カリフォルニア」と思われる人形が写っている。参考URL:Doll House - Friendship Dolls
^ パスポートは紛失しているため確証はないが、日本に来た当時は、"Jennifer"[ 286] (ジェニファー)として歓迎されていたと思われ、呼びづらいせいか訛って今の名前"Ginella"[ 287] になったのだろう。
^ 本来は寄贈者の名前にちなみ、「アン・マジュリー」と呼ぶのが正しいが、埼玉県越谷市立大沢小学校の「ワーテラ・ヘズ」の例にあるように、映画などで慣れ親しんだ名称で通っている。
^ 杉村 p.19 ※注:本文中の原典の『満州日日新聞』の1927年5月10日号は人形の写真の記載であり、記事の方は5月7日号のものである。
^ 「ミス大日本」は巡回訪問に加わらなかったため、取り違えの心配はなかった[ 482] 。
出典
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参考資料
洋書
Welcome to the American Doll-Messengers (Comittee on International Friendship Among Children in Japan,August 1927 非売品:親善人形を贈られたる米国各地の関係者に対し、我が国の状況を紹介する趣旨を以って作成)
DOLLS OF FRIENDSHIP (by Sidney L. Gulick,Friendship Press,1929)
DOLLS OF FRIENDSHIP (by Sidney L. Gulick,Friendship Ambassadors Press,1997)
和書ほか
関連項目
外部リンク
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