青山学院横浜英和中学校・高等学校
青山学院横浜英和中学校・高等学校(あおやまがくいんよこはまえいわちゅうがっこう・こうとうがっこう)とは、神奈川県横浜市南区に所在するミッション系の私立中学校・高等学校。青山学院の系属校である(附属学校ではない)。 概要1880年(明治13年)10月28日[3]、プロテスタントメソジスト派のアメリカ人宣教師ハリエット・ブリテンにより、横浜山手48番にミッションスクール「ブリテン女学校」として創立。創立時は男女共学[4][5]で4人の生徒であった。1886年(明治19年)横浜英和女学校となる。1916年(大正5年)現在地の蒔田へ移転した。1996年(平成8年)、校名を「成美学園女子中学校・高等学校」から「横浜英和学院横浜英和女学院中学高等学校」に改称する。 永らく女子校として歩んできたが、蒔田移転から100年後の2016年4月、青山学院大学系属校となり、2018年度から共学となる。 青山学院とは、共にアメリカメソジスト派の宣教師によって創られた学校であり、理念を共有している。 連携事業として、大学出張講義や学問入門講座への出席、渋谷・相模原キャンパス訪問、キャリアガイダンスの実施や青山学院大学への系属校推薦などが行われている。 完全中高一貫校であり、2021年度から中学募集が120名に変更となる。青山学院横浜英和小学校から60名程[6]が進学する。 教育理念
象徴
沿革創立時の経緯1880年(明治13年)9月23日、ハリエット・ブリテンが来日する。57歳の秋であった。 彼女はニューヨークで育ったが、幼いころ転落事故で下半身付随になった。18歳でようやく健康を取り戻すにつれ、宣教師になろうと決意する。20代はアフリカで、さらにインドで20数年間伝道に捧げた。そのころ日本美普教会で日本布教が計画され、まず、エリザベス M.ガスリーが志願するが、来日の途上で亡くなった。ガスリーの遺志を継いで海を渡ったのがブリテンである。「教える者がなくてどうして聞けるでしょうか。聞かないでどうして主を信じられましょうか。主の最後の言葉は『行け』でありました」といった彼女の熱い心が横浜英和学院の礎である。 明治・大正期には校地が度々変わっている[4][5]。山手48番地に創設した後、校地を山手68番、山手120番に移し、1886年(明治19年)、男女共学を廃し、女子部は横浜英和女学校と改称して横浜居留地84番地(現:横浜市中区山下町84番地)へ移転する。1889年(明治22年)に校地を購入し再び山手244番地に移転し、27年間を同地で過ごした後、1916年(大正5年)蒔田町に移転した。 日中戦争中、校名に仮想敵国の「英」が含まれているのはふさわしくないということから、1939年(昭和14年)「成美学園」と改称する[8]。第二次世界大戦後、「元の校名に」という卒業生からの強い要望もあり、1996年(平成8年)、校名が「横浜英和女学院中学高等学校」となる。 年表
教育内容校則頭髪は、染毛・脱色・パーマは禁止している。また、携帯電話の校内での使用は禁止されている(緊急時用に通学時に所持することは許可制)。また、芸能活動に類することは一切できない[6]。 完全給食制となっている。 教育課程週5日制、50分授業である。 主要5教科は高校の内容を先取りする[2]。 土曜日午前には外部講師による「土曜セミナー」を実施しており、数学・英語を1講座70分で展開している。 高校では文系が約7割、理系が約3割となっている[6]。文理はHRクラスでの区別ではなく、様々な進路に合わせた選択科目を各自が取って学習する。 編成1クラス39〜46名[6]で、4〜5クラス編成となっている[2](2024年現在)。20年以上前から帰国子女の受け入れを行っており、現在約60名の帰国生が在籍している[6]。 進路系列への青山学院大学へは2020年度は53名が合格している。青山学院大学への推薦入学は、進学条件を満たす必要がある。進学条件(高校3年間の学業成績と学力試験、その他人物など)の細かい数字については、毎年見直しを行っていることから、入学後に公表している[6]。青山学院大学への内部進学枠が全員枠となったことから、近年人気が急上昇している[12]。 交通著名な卒業生
関連項目脚注
外部リンク |
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