高瀬将嗣
髙瀬 將嗣(たかせ まさつぐ、1957年[1]1月1日[2][3] - 2020年5月25日[4])は、日本の殺陣師、映画監督、脚本家。本名は同じ[2]。脚本家としての名義に霧分 昇(きりわけ のぼる)[5][6]。 東京都出身[2][1][3]。国士舘大学[2][1]文学部[要出典]卒業。フリーランス[7]、大鷲プロダクション[2]所属を経て、日本初の殺陣流派「芸道殺陣 波濤流 高瀬道場」主宰。日本映画監督協会、日本シナリオ作家協会会員。日本俳優連合理事[8]。 人物・経歴父親は、日活アクション全盛期に活躍し、現代アクションを「技斗」と名付けた殺陣師・高瀬将敏[9][10]。 1970年代の大学在学時から刑事ドラマ『太陽にほえろ!』『西部警察』に出演し、アクション系の俳優として活動。大学4年のときに刑事ドラマ『特捜最前線』で父の助手として現場に入る[11]。1979年、大学を卒業。卒業後はサラリーマンとして就職が内定していたが、父親の体調が悪化したことにより父の跡継ぎとしてアクション監督に[9][11][12]。1980年に日活ロマンポルノ作品『後から前から』『スケバンマフィア 恥辱』に俳優兼アクション指導として参加。1983年の映画『日本海大海戦 海ゆかば』を最後に俳優兼業をやめる。1984年の『美少女プロレス 失神10秒前』が殺陣師専業になってからの最初の作品となる[13]。 1980年代に映画『ビー・バップ・ハイスクール』やテレビドラマ『あぶない刑事』において、「体にサポーターを取り付け安全な部位には実際に当てる」というリアルファイトスタイルのアクションを確立した。特撮番組『七星闘神ガイファード』でも、スーツアクションとしては異色のリアルファイトに挑戦した[10][注釈 1]。そのほかにも『Aサインデイズ』『マルタイの女』『WASABI』など、国内外問わず様々な作品を担当。 ボディアクションの他にも時代劇の殺陣にも精通しており、2010年公開された時代劇映画『花のあと』では、主演の北川景子に6カ月に及ぶ殺陣稽古を行い、その迫真の殺陣が話題となった[要出典]。2010年6月、外務省招聘による「トルコにおける日本年」にて渡土。トルコの各都市で日本の文化である殺陣・アクションの演武を披露している。 殺陣師活動の一方、1990年には東映Vシネマ作品『極道ステーキ』で映画監督としてもデビュー。アクション作品はもとより、コメディ、任侠映画などのメガホンをとる。1996年には映画平成版『嗚呼!!花の応援団』で「インディーズ映画in横浜」グランプリ受賞。 2004年から映画専門誌『映画秘宝』にコラム「技斗番長・活劇与太郎行進曲」を連載。2011年には『技斗番長 活劇映画行進曲』(洋泉社)を刊行した。他に2013年刊行された『基礎から始めるアクション 技斗・殺陣』(雷鳥社)の著書がある。 2011年、自身の主宰する殺陣流派「芸道殺陣 波濤流 高瀬道場」は創立40周年を迎え、日本初の殺陣流派として、プロの俳優から一般、児童部などに門戸を開放。各公共団体での公演やワークショップで「文化としての殺陣」の普及に努め、演技としてのアクションを追及する一方、アクションに携わる者すべての地位向上と認知をめざし、(協)日本俳優連合・アクション部会での活動も活発に行っている。 特技は剣道(3段)[7]、古武道(2段)[7]。殺陣[2][3]、アクション[2]、技斗[3]。趣味は掃除[3]。 2018年11月、病院で診察を受けた際胃がんが発見され、すでにステージIVの転移がみられた。家族以外の関係者には一切知らせず治療を続けるも[14]、2020年5月25日、胃がんのために病没[4]。63歳没[4]。墓所は多磨霊園。 受賞歴
殺陣担当作品テレビ
映画‣ 嗚呼!!花の応援団 村上 (1976年)
オリジナルビデオ
監督作品映画・オリジナルビデオ・テレビドラマ
出演作品映画
テレビ
舞台高瀬道場
その他
著書脚注注釈
出典
外部リンク
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