1957年のテレビ(1957ねんのテレビ)では、1957年(昭和32年)の日本におけるテレビジョン放送全般の動向についてまとめる。
主なできごと
- NHKが5地域で、民放が北海道の札幌地域で初の開局。
- テレビチャンネルの割当が、最終的に12チャンネルまでに拡大
5月21日には11チャンネルに拡大され、10月15日には、12チャンネルまでに拡大された(後述)。
- 予備免許の交付が相次ぐ。
この年郵政省は、7月8日に富士テレビジョン(後のフジテレビジョン)、日本教育テレビ(後のテレビ朝日)、大関西テレビジョン放送(後の関西テレビ放送)、およびNHKの岡山、金沢、熊本、鹿児島の4局に(この時の郵政大臣は平井太郎)、10月15日にはNHK教育テレビ(Eテレ)の最初の局として同東京局が、同月22日には民放34社36局、NHK(総合)の7局(室蘭、盛岡、福島、長野、新潟、防府(山口)、高知)にテレビジョン放送の予備免許を交付(当時の郵政大臣、田中角栄による大量予備免許)。その内、年内ではNHKの岡山・金沢の2局が開局している。
- テレビ番組
- カラーテレビ実験放送
- 12月28日、NHK東京と日本テレビで、一般のテレビ放送(VHFチャンネル)を使ってのNTSC方式によるカラーの実験放送が開始。
- この年は前述の実験放送開始前の5月に、東京国際見本市で米RCA社のカラー送受装置を使ったカラーテレビ実験が公開されたり、NHK放送技術研究所で国産初のカラー受像管(19型)の試作品が完成したりしている。
できごと
- 1月
- 14日 - NHK、学校放送番組を拡充、午後の部を新設する。[1]
- 17日 - NHK、ユネスコ本部の依頼を受け、農村向けテレビ集団視聴実験番組『のびゆく農村』放送開始( - 4月11日、全13回)。これによる実験調査を、文部省と共同で全国64か所で開始。[1]
- 21日 - 郵政省、「テレビジョン放送用周波数の割当計画基本方針の修正案」を発表。テレビのチャンネルを11チャンネル制とし、教育専門テレビ局設置の方針も決定。[1]
- 30日 - NHK、南極予備観測隊の上陸成功を速報。以後越冬隊と宗谷の動きを随時放送する。[1]
- 2月
- 3月
- 4月
- 1日
- 北海道放送(HBC)、札幌地域で初のテレビ局を開局(呼出符号:JOHR-TV)[1]。民放のテレビ・ラジオ兼営局としては3社目となる。
- 日本テレビ、『婦人ニュース』放送開始( - 1969年1月17日)。[4][5]
- 3日 - 民放連、平井太郎郵政大臣(当時)に、テレビチャンネルプラン早期割り当てと民放優先免許、教育テレビ局の設置などに関する要望書を提出。席上、平井大臣は「テレビ番組に30%程度の教育番組挿入」、「ローカル番組自主制作を全然考えない地方局申請者には不許可の方針」などを表明する。[1]
- 10日 - NHK、テレビ番組改定。教育・教養番組を充実し、定時放送時間を1日平均6時間25分に増加。[1]
- 18日 - 日本テレビ、カラーテレビ実験放送の免許を郵政省に申請。[1][5]
- 21日
- 24日 - NHK、『南極観測船宗谷帰国実況』を、東京日の出桟橋から中継放送。[1][7]
- 5月
- 1日 - NHK、学校放送の午前の部の枠を増設。これで同放送は、1日3教科60分の放送となる。[1]
- 5日 - 東京国際見本市で、米RCA社のカラー送受装置を使い、カラーテレビ実験を公開する。[1]
- 12日 - 中部日本放送、カラーテレビ実験局の免許を郵政省に申請。[1]
- 18日 - 大阪テレビ放送、カラーテレビ実験局の免許を郵政省に申請。[1]
- 20日
- 21日 - 郵政省、「テレビジョン放送用周波数の割当計画基本方針」を修正、テレビのチャンネルを11チャンネル制にすることを決定。[1][5]
- 23日 - NHK放送技術研究所、国産初のカラー受像管(19型)の試作品が完成。[1]
- 29日
- NHK、松山放送局(呼出符号:JOZK-TV 出力 映像:250W)と小倉(後の北九州)放送局(呼出符号:JOSK-TV)でテレビ局が開局。[1]
- 民放連、郵政省が1月に発表した「テレビチャンネルプランおよび修正割り当て方針」について、テレビ放送の民放への優先免許等の意見書を提出。[1]
- 30日 - NHK、東京の最初のサテライト局として、長野市内に長野(善光寺平)テレビ中継実験局(出力 映像:25W)を無人で運用開始。[1]
- 6月
- 1日 - NHK、静岡放送局でテレビ局が開局(呼出符号:JOPK-TV)。
- 8日 - NHK、テレビ局を開局した地方の郷土紹介番組の放送を開始。この日は1週間前に静岡放送局が開局したことで『静岡散歩』を放送。翌9日には『松山散歩』、同月25日には『北九州散歩』をそれぞれ放送。以後、地方局制作『○○散歩』と題する郷土紹介番組多くなる。[1]
- 15日 - テレビ受信契約数50万突破。[1]
- 17日 - 民放連、テレビ早期免許と教育放送についての要望書を平井郵政大臣に再提出。[1]
- 19日 - 郵政省、11チャンネル制による「テレビジョン放送用周波数の割当計画表」(第1次チャンネルプラン)決定。 全国50地区、107局に割り当て(内教育専門局3局)。後に49地区、108局に修正。[1][5]
- 25日 - 日本テレビ、米テレビ映画(サイコサスペンスシリーズ)『ヒッチコック劇場』放送開始(途中中断時期を挟んで、1962年12月27日まで)。[1]
- 26日 - 郵政省・官庁・学会・メーカー・放送関係者で構成する「カラーテレビジョン調査会」が発足。[1][5]
- 月内 - 文部省、教育テレビ放送について、「学習指導要領に準拠した学校放送番組の制作」、「民放免許の条件として30%以上の教育教養番組編成の義務付け」、「教育放送の全国中継措置(教育の機会均等化)」の要望を郵政省に申し入れ。[1]
- 7月
- 1日 - 北海道放送、『HBC教育放送』放送開始(週3回、民放初の学校向け教育放送。1960年8月まで)。[1]
- 8日 - 郵政省、富士テレビジョン(後のフジテレビジョン)、日本教育テレビ(後のテレビ朝日)、大関西テレビジョン放送(後の関西テレビ放送)、およびNHKの岡山、金沢、熊本、鹿児島の4局にテレビジョン放送の予備免許を交付。[1]
- ▼日本教育テレビには次の条件が与えられた。[8]
- ①1週間あたりの分類別時間比が教育53%以上、教養が30%以上(一般教養、音楽舞踊とスポーツ。文芸娯楽を含む)
- ②番組編成には、一般有識者3分の2以上とする中正な審議機構を設ける。
- ③この審議機構によって、番組編成の綱領を決定する。
- ④学校向け放送には、広告を入れない。
- ⑤教養番組以外の番組も、教育目的の達成を妨げないようにする。
- ⑥他局に教育・教養番組が円滑に放送されるよう最善の努力をする。
- ⑦郵政大臣が特に必要と認めて支持する事項は尊重する。
- 10日 - 第1次岸内閣発足に伴い、郵政大臣が平井太郎から田中角栄に交代。後に10月22日のテレビジョン放送局の大量予備免許へと繋がる。
- 28日 - KRテレビ、日曜日朝の政治をテーマにした座談会番組『時事放談』が放送開始。1987年3月29日まで続く長寿番組となった。[1][9]
- 29日 - 民放連、田中郵政大臣(当時)に、テレビ・チャンネルプラン策定に当たってはラジオ・テレビ兼営を優先するよう要望。[1]
- 8月
- 9月
- 2日 - NHKと日本テレビ、第29回国際ペン大会開会式を東京・産経ホールから中継。[1]
- 3日 - 日本テレビで刑事ドラマの草分け『ダイヤル110番』放送開始( - 1964年9月6日、全364回。ヤクルト一社提供)。[1][10]
- 17日 - 民放連の足立会長、電波監理審議会主催のテレビ・チャンネルプラン修正案に対する会合で政策の一貫性を要望。[1]
- 18日 - NHK、『第1号原子炉完成式実況』を、茨城県東海村原子力研究所から中継。この模様は日本テレビへ、NHKとしては民放への初の映像分配を行う。[1]
- 20日 - 民放連、この日の同理事会にて、番組の自主規制のため「番組審議会」設置を決定。[1]
- 28日 - 大阪テレビ放送、中継番組『自衛隊の朝』を放送。ここで、日本で初めて自衛隊大型ヘリからの中継を行う。[1][3]
- 10月
- 11月
- 12月
- 6日 - 大阪テレビ放送、当時の田中郵政大臣より、朝日放送との合併促進を勧告される。[3]
- 12日 - NHK、東京で通常テレビ放送チャンネル(VHF:3ch)を使ったカラーテレビ実験局の免許を郵政省に申請。[19]
- 23日 - NHK、金沢放送局(呼出符号:JOJK-TV 出力 映像:1kW)と岡山放送局(呼出符号:JOKK-TV)でテレビ局が開局。[20]
- 26日 - 郵政省、NHKと日本テレビのVHFカラーテレビ実験局に予備免許を交付[19][21]。日本テレビでは、この日の17時から試験放送を行う[22]。
- 27日 - 郵政省、NHKと日本テレビのVHFカラーテレビ実験局に本免許を交付。[1]
- 28日 - 前述の本免許交付を受け、NHK東京(呼出符号:JOAK-TVX)と日本テレビ(呼出符号:JOAX-TVX)が、通常のテレビ放送(VHF)を使ったカラーテレビ実験放送を開始。[1][19]
- 31日
開局・放送開始
北海道放送(4月1日テレビ放送開始。写真は札幌放送会館〈1959年完成、2020年の新築移転まで使用〉)
テレビ番組
テレビドラマ
バラエティなど諸分野
参考文献
など
脚注
注釈
- ^ 1986年1月 - 1988年9月の間は御幸毛織を筆頭にした複数社提供に代わったため、タイトルは単に『野球教室』となったが、1988年10月以降は再び御幸毛織一社提供に戻り、タイトルも『ミユキ野球教室』に戻った。
- ^ 1977年4月に「全国朝日放送」に改称、2003年10月に社名を「テレビ朝日」に変更、法人は2014年に放送持株会社「テレビ朝日ホールディングス」となり、放送免許は後のテレビ朝日に承継された。
- ^ 法人は2006年に放送持株会社「フジ・メディア・ホールディングス」となり、放送免許は後のフジテレビジョンに承継された。
出典
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1952年以前 | |
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1950年代 | |
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60年代 | |
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70年代 | |
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80年代 | |
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90年代 | |
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2000年代 | |
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10年代 | |
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20年代 | |
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