Advanced Comprehensive Operating SystemAdvanced Comprehensive Operating Systemは日本電気のメインフレームおよびそのオペレーティングシステムの名称である。略称のACOS(エイコス)は、「advanced comprehensive operating system」および「advanced computer system」の頭文字に由来する[1]。 概要ACOSはNEAC-シリーズ2200の置き換えを狙って新たに開発されたメインフレームおよびOSで、1974年5月にACOSシリーズ77としてシステム200、300、400の3機種を発表、同年12月に出荷が開始された。 NEAC-シリーズ2200では処理単位は可変長なキャラクタ単位であったが、ACOSでは小型機・中型機は8ビット・バイト単位、大型機は36ビット・ワード単位に統一した。ソフトウェアで行っていた複雑な処理やハードウェアで制御していた部分はROMの中に組み込んでファームウェア化した。また、新たに仮想記憶とプロセスの概念を持ち込み、1台のコンピュータを時間的・空間的に共有するTSSを導入した(この機能はGCOSに由来する)。主記憶装置は磁気コアメモリからMOSメモリに変更し、論理素子にTTL-ICを用いることで信頼性を向上しつつ高速化と小型化を実現した。 NEAC-シリーズ2200の後継機種が長い間不在だったことやOSの開発が遅れたことにより、出荷当初の市場の反応は芳しくなかった。しかしその後、高性能機や価格性能比(コストパフォーマンス)が優れた新機種を投入して徐々に注目を集め、売り上げを伸ばしていった。そして1980年にメインフレームのメーカー別国内シェアで第3位、1986年には第2位にまで上り詰めた。 1990年代に入ってバブルが崩壊すると性能よりも価格性能比を優先する傾向が一段と強くなった。そこでNECは従来のバイポーラ素子に代わってCMOS素子を用いて演算プロセッサを1チップ化し、これを複数個用いて並列処理を行うパラレルACOSシリーズを開発。1994年5月に最初の小型機 AX7300 を発表した。パラレルACOSシリーズは現在も開発および販売が続けられている。 開発の経緯1950年代のパラメトロンコンピュータやFONTAC(富士通/沖/NEC共同コンピュータ)の流れの中、1960年代半ばに始まる通産省主体の大型プロジェクト超高性能電子計算機開発計画において、IBMなどの海外のコンピュータベンダに依らない日本独自のコンピュータシステムを構築すべく、NEC/日立製作所/富士通/東京芝浦電気(東芝)/沖電気/松下通信工業(松下)/三菱電機などに通産省の元でコンピュータシステムの開発を進めさせた。松下などは、コンピュータはまだ商売にならないと判断して早々と撤退を行ったが、それ以外のベンダはコンピュータの開発にしのぎを削っていく事になる。 その後、日本では1971年4月に米国からの圧力などで2年後のコンピュータの輸入自由化が決定された[2]。通商産業省は、当時の国内コンピュータメーカーの体力ではIBMを初めとする海外メーカーに日本市場を席巻され打撃を受けるとして、当時6社あったコンピュータ業界の再編に乗り出した。既に提携の機運のあった日立と富士通、技術供与元が共通となった(後述)NECと東芝、残る三菱電機と沖電気の3グループにまとめ(詳細は三大コンピューターグループを参照)、技術研究組合を作らせて5年間にわたって補助金を支給し、各社に「IBM対抗機」の開発に当たらせた。 それまで、NECがハネウェル社から、東芝がジェネラル・エレクトリック社 (GE) から、それぞれ技術供与を受けてコンピュータを開発していた。ところが、1971年にGEはコンピュータ事業から撤退して事業をハネウェルに売却し、ハネウェルは統合したコンピュータ部門をハネウェル・インフォメーション・システムズ社 (HIS) として独立させた。このため技術供与元が共通となったNECと東芝のグループを組むことになった。 両社は共同開発にあたり、小型機と中型機をNECで、また大型機を東芝で、それぞれ開発を分担した。中型機向けのOS ACOS-4 はHIS社から技術供与を受ける予定だったが、HIS社の度重なる計画変更や開発・改良の中止によりやがてNECが単独で小型機向けのACOS-2と共に開発を進めてゆくことになった。当初システム200にはHIS社が開発したACOS-2が使用されたが、1975年10月からNECが独自に改良したACOS-2が提供された。ACOS-4は予定通り同年10月から提供された。大型機向けのOSは東芝がHIS社から提供されたGCOS-3をACOS-6として出荷した。 その後HIS社は仮想記憶機能を持つOSの改良を中止したが、東芝はHIS社とは別に仮想記憶機能をもつACOS-6の開発を進めていた。しかし1978年2月に東芝は中・大型機から撤退することになった。このためNECはアーキテクチャが異なるOSを同時に開発・改良していくことになり、資金や技術者の不足といった問題に直面した。そこでACOS-2/4とACOS-6の両OSを共通化することで費用削減を図る一方、多くの人員を営業部門に配転し販売力を強化した。こうしてHIS社への依存から離脱して自主開発体制を確立した。 このような経緯により出荷当初の市場の反応はよくなかった。しかし、IBMのメインフレームの新機種 IBM 4331 の発表に対抗して1週間後に発表されたシステム250、当時世界最高速の15MIPSの演算能力を持ったシステム1000といった新機種を投入して注目を集め、売り上げを伸ばしていった。そして1980年にメインフレームのメーカー別国内シェアで第3位に、1981年に念願の黒字化を達成し、1986年にはシェアで富士通に次ぐ第2位にまで回復した。 ACOS-2とACOS-4はバイトマシン、ACOS-6はワードマシンと互いに大きく異なるアーキテクチャのシステムになったため、部分共通化を図った後もその差異は大きかった。それが両OS間でのソフトウェア資産の移行を難しくしたほか、ソフトウェア開発にも大きな負担をかけることになった。 ハードウェアACOSシリーズ(販売終了)
パラレルACOSシリーズ(現行機種)
IPF版ACOS2004年8月に発表されたNECのサーバ戦略によれば、ACOS-4系のCPUを独自CMOSプロセッサ(NOAHシリーズ)からIPF(インテルのItaniumプロセッサファミリ)に転換し、従来版ACOS-4のバイナリをエミュレーションにより、またItaniumネイティブのACOS-4のほか、Windows、Linux、HP-UXを実行できるシリーズを2004年度に発表した。これにより従来のACOSソフトウェア資産を生かしつつ現代の業界標準のソフトウェアに徐々に移行可能であるとしている。なお、このサーバー戦略を実現する機種として、i-PX9000シリーズを2004年10月07日に発表している。 独自プロセッサへの再転換2012年6月、NECは、大型機においてそれまでのItaniumによる実装から、独自プロセッサNOAH-6に切り替えた新モデルi-PX9800/A100を発表した[3]。 OS初期の版を発売後、版を重ねるにつれて名称の変更や派生版を生じている。
詳細はそれぞれの記事を参照。 その他以前は日電東芝情報システム(通称 NTIS)も販売していたが、東芝が提携を解消したため[4]、現在は日本電気のみが販売を行なっている。 関連項目脚注・出典
参考文献
外部リンク
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