B.J.アームストロング

B・J・アームストロング
B. J. Armstrong
サクラメント・キングス A-GM
役職 アシスタントGM
所属リーグ NBA
基本情報
愛称 The Kid
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1967-09-09) 1967年9月9日(57歳)
出身地 ミシガン州の旗 ミシガン州デトロイト
身長(現役時) 188cm (6 ft 2 in)
体重(現役時) 84kg (185 lb)
キャリア情報
高校 ブラザーライス高等学校
大学 アイオワ大学
NBAドラフト 1989年 / 1巡目 / 全体18位[1]
プロ選手期間 1989年–2000年
ポジション PG
背番号歴 10, 11, 2
経歴
19891995シカゴ・ブルズ
19951997ゴールデンステート・ウォリアーズ
19971999シャーロット・ホーネッツ
1999オーランド・マジック
1999–2000シカゴ・ブルズ
受賞歴
NBA通算成績
得点 7,320 (9.8 ppg)
リバウンド 1,321 (1.8 rpg)
アシスト 2,479 (3.3 apg)
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
代表歴
キャップ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
獲得メダル
男子バスケットボール
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
夏季ユニバーシアード
銀メダル - 2位 1987 ザグレブ

B・J・アームストロングことベンジャミン・ロイ・アームストロング・ジュニアBenjamin Roy Armstrong Jr., 1967年9月9日- )は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト出身の元プロバスケットボール選手ポイントガードとして1990年代シカゴ・ブルズの栄光を支えた。身長188cm。

経歴

地元の高校を卒業後、アイオワ大学に進学、アシスト数517は未だに歴代1位、スティール178(歴代3位)、1705得点(歴代4位)、スリーポイントシュート成功率44.3%などの記録を作っている。4年次には1試合平均18.6得点、5.4アシストを記録した。

1989年のNBAドラフトでシカゴ・ブルズから1巡目全体18位で指名されて入団。初年度から81試合に出場、チームは55勝27敗でイースタン・カンファレンスファイナルまで進出した。2シーズン目にはベテラン先発ガードのジョン・パクソンに代わって出場時間を増やしブルズがレギュラーシーズン61勝をあげてロサンゼルス・レイカーズを破りNBAファイナル初優勝することに貢献した。翌シーズンも控えとしての起用ながらプレイタイムはパクソンとほぼ同じ程度となり1試合あたり二桁得点を記録しブルズが67勝15敗で、2連覇するのに貢献した。トライアングルオフェンスにおいて、アームストロングやパクソンといったピュアシューターは貴重な存在で、オープンショットを確実に決めることで相手チームに与えるダメージは途轍もなく大きいものであった。ファンもそれをわかっており、アームストロングのベビーフェイスと、気の強いクラッチシュートはファンからとても人気で、彼がシュートを決めると会場は大いに盛り上がった。1992-93シーズンからは先発で出場するようになり、ブルズの3連覇に貢献した。この年彼は3ポイントシュート成功率リーグトップの45.3%をマークした[1]。1993-94シーズンは、マイケル・ジョーダンの突然の引退によりスコッティ・ピッペンホーレス・グラントに次ぐチームで3番目の平均得点をあげ初めてオールスターゲームに出場した[2]。チームは55勝27敗でプレイオフ2回戦でニューヨーク・ニックスに敗退した。1994-95シーズンは、再びチームで3番目の平均得点をあげ、シーズン終盤に復帰したマイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペントニー・クーコッチと共に47勝35敗で終え、プレイオフ2回戦まで進出した。

1995年、新加入のトロント・ラプターズエクスパンション・ドラフトで指名されたが入団を拒否、ゴールデンステート・ウォリアーズにトレードで移籍して2年間プレイした。

1997年、シーズン開幕後4試合プレイした後、マグシー・ボーグストニー・デルクとの交換でシャーロット・ホーネッツにトレードされた。その後1999年3月10日、グレン・ライスJ・R・リードと共にロサンゼルス・レイカーズエディー・ジョーンズエルデン・キャンベルとトレードされたがレイカーズにより即日ウェイバー公示されて3月14日にオーランド・マジックと契約を交わした。同年8月30日、彼は2度の栄光が終わり再建途上にあるブルズに復帰し1シーズンプレイした。

現役引退後、ブルズのフロントに入り、ゼネラルマネージャージェリー・クラウスの補佐をした。2003年にゼネラルマネージャーにジョン・パクソンが就任したときも、彼はチームに2年間留まり2005年に退団した。

その後彼は、ESPNでバスケットボール解説者になっている。

個人成績

略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー数  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ  *  リーグリーダー  †  優勝シーズン

NBA

レギュラーシーズン

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1989–90 CHI 81 0 15.9 .485 .500 .885 1.3 2.5 .6 .1 5.6
1990–91 82 0 21.1 .481 .500 .874 1.8 3.7 .9 .0 8.8
1991–92 82 3 22.9 .481 .402 .806 1.8 3.2 .6 .1 9.9
1992–93 82 74 30.4 .499 .453* .861 1.8 4.0 .8 .1 12.3
1993–94 82* 82* 33.8 .476 .444 .855 2.1 3.9 1.0 .1 14.8
1994–95 82* 82* 31.4 .468 .427 .884 2.3 3.0 1.0 .1 14.0
1995–96 GSW 82 64 27.6 .468 .473 .839 2.2 4.9 .8 .1 12.3
1996–97 49 17 20.8 .453 .278 .861 1.5 2.6 .5 .0 7.9
1997–98 4 0 14.8 .316 .000 .714 1.8 1.5 1.0 .0 4.3
CHA 62 0 12.5 .510 .265 .860 1.1 2.3 .4 .0 3.9
1998–99 10 1 17.8 .488 .750 .900 1.6 2.7 .3 .0 5.7
ORL 22 0 8.2 .422 .143 .818 1.0 1.5 .4 .0 2.2
1999–00 CHI 27 18 21.6 .446 .448 .880 1.7 2.9 .3 .0 7.4
通算 747 341 23.8 .477 .425 .856 1.8 3.3 .7 .1 9.8
オールスター 1 1 22.0 .556 .500 --- 1.0 4.0 .0 .0 11.0

プレーオフ

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1990 CHI 16 0 13.6 .339 .000 .917 1.3 1.8 .6 .0 4.0
1991 17 0 16.1 .500 .600 .800 1.6 2.5 1.1 .1 5.5
1992 22 0 19.7 .453 .294 .789 1.1 2.1 .6 .0 7.3
1993 19 19 33.8 .524 .512 .909 1.5 3.3 1.0 .1 11.4
1994 10 10 36.0 .519 .583 .818 2.4 2.5 .8 .0 15.3
1995 10 10 28.8 .456 .448 .818 1.8 2.7 .6 .0 10.3
1998 CHA 9 0 16.2 .381 .400 .750 1.1 2.0 .7 .0 4.1
1999 ORL 2 0 1.5 .000 --- --- .0 .5 .0 .0 .0
通算 105 39 22.5 .471 .451 .832 1.4 2.4 .8 .0 7.9

その他

  • 彼がブルズ時代に着けていた「10番」は1995年に彼が退団した後、往年のスター選手だったボブ・ラブ永久欠番となった。そのため、復帰した後は「11番」を使用した。
  • 1996/97シーズンの終盤まで577試合に連続出場、NBA史上3位の記録を作った。

脚注

  1. ^ nba.com Player bio
  2. ^ ピッペン、グラントも出場ブルズからは3人の選出となった。

外部リンク

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