佐竹氏
佐竹氏(さたけし)は、武家・華族家を出した日本の氏族。清和源氏の源義光の孫昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称したのに始まる。 概要平安時代末に平家に属して源頼朝に抵抗したので勢力を落としたが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復[4]。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国にまで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った[4]。豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで1602年に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属して戦い、維新後には侯爵に列せられた[4]。 通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜が現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。 出自佐竹氏は甲斐源氏の武田氏と同じく、源頼義の三男で源義家の末弟・源義光の子孫である義光流源氏の一族である[1]。佐竹氏の初代当主については、義光とする説、義光の嫡男で常陸源氏祖・進士判官の義業とする説、義業の子の昌義とする説があるが、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗ったことから、昌義を初代当主とする説が一般的である。家名については、昌義が佐竹郷にある佐竹寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したという話が伝わっている。 史料で確認できるところでは、『吉記』承安4年(1174年)3月14日条に「佐竹」の名が出てくるのが最古であり、それからそれ程さかのぼらない時期に佐竹氏が成立したと推測できる[5]。 平安時代から鎌倉時代平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し[1]、常陸に強い勢力を持つ常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。 治承・寿永の乱においては、佐竹氏は平家にくみしたために源頼朝によって所領を没収された[6]。後に頼朝に従って奥州合戦に加わったが[7]、近年の研究では奥州合戦の直前まで佐竹氏の抵抗が続いていたと考えられている[8]。奥州合戦の際に無地の白旗を持参したところ、頼朝の旗と等しかったことから紛らわしいとの理由で、扇を白旗の上に付けるよう命じられた[9]。この扇は月を描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いることになる[9]。 承久の乱の戦功によって佐竹氏は美濃国に所領を与えられるが、その時一族の一部が美濃に移住した。後に和泉国や土佐国に見られる佐竹氏もその末裔と推測される[8]。 鎌倉時代においては、奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごすことになる。 常陸佐竹氏南北朝・室町時代元弘の乱を経て南北朝時代になると、佐竹氏第8代当主貞義および第9代当主義篤は早々に足利氏に呼応して北朝方に属し[10]、小田氏や白河結城氏といった関東における南朝方勢力と争う。室町幕府が樹立すると、これらの功績から守護職に任ぜられ、やがて幕府の関東出先機関である鎌倉府の重鎮として活躍した。また、貞義の息子の一人である師義は足利将軍家の直属の家来である京都扶持衆に選ばれ佐竹山入家(山入流佐竹氏)を興した。 義篤の孫で第11代当主義盛の時代、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられた。以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称をもって称された。 しかし、佐竹氏は先述のように鎌倉公方を主君としたことから足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることも少なくなかった。
戦国・安土桃山時代戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた義舜が現れ[10]、佐竹山入家を討ち、佐竹氏の統一を成し遂げ久慈川以東の常陸北部の制圧に成功した。しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、更に山入家との戦いの間に独自性を強めた小場氏・宇留野氏・長倉氏などの久慈川以西の一族も叛旗を翻したが一方で宇留野方は佐竹義篤方で追討指揮を担い部垂義元討伐に加勢している(部垂の乱)[11]。また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。 義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた[10]。 甲斐武田氏と同盟し(甲佐同盟)、北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県栃木市)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で南奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力をもってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。 しかし義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。 義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行二郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪。小田原陣の頃は下総の千葉氏の傘下に転じている)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる[12][13]。 そして、水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。佐竹家は常陸水戸54万5800石で豊臣政権下で第8位の大大名となり(一門、蘆名義広4万5千石、岩城貞隆12万石、多賀谷宣隆6万石、与力、相馬義胤6万石。これらを合わせると80万石を超え、伊達氏や宇喜多氏を上回る)、徳川家・毛利家・前田家・上杉家・島津家とともに豊臣配下の六大大名家の一家に数えられた[4]。 関ヶ原の戦い慶長5年(1600年)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見をまとめられず、在国のまま観望するという中立的な態度を取った。佐竹家中や影響下にある同族大名の間では、徳川氏との接点がある父・義重、上杉領になっている会津の旧領主である弟・蘆名盛重、伊達氏に好意的な弟・岩城貞隆などが東軍寄り、石田三成との縁が深い相馬義胤や実家宇都宮家の復興を期待する結城朝勝などが西軍寄りの立場であり、自身も三成に恩義を受けている義宣は態度を一貫させることができず、東軍による佐竹領侵攻を危惧して上杉氏に接近し、西軍優位にならないと見るや上杉氏と距離をおくという形になった[14]。 戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月に義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。ところが5月8日、家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封された[15]。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためといわれている。また徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った[2]。 処遇の際、細川忠興が「大大名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言したが、家康の側近だった本多正信・正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国でよし」と決められてしまった[15]。後に政争に負けた正純が失脚したとき(宇都宮城釣天井事件)、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えたという。 江戸時代久保田藩主家![]() →詳細は「久保田藩」を参照
義宣は、慶長7年7月に出羽国に転封された後、土崎湊城に入ったが[16]、慶長9年8月には新たに築城した久保田城に入城し、土崎湊城は破却[16]。以降、佐竹家は廃藩置県まで同地に在封し、久保田藩を支配する外様大名家として続いた[17]。 転封時点で明示されていなかった石高は、第2代藩主義隆の治世も後期になった寛文4年(1664年)4月2日付で、20万5,800石と決定された(実高40万石)。うち5,800石は、慶長10年(1605年)10月17日に追加で与えられた下野国河内郡・都賀郡の飛び地11か村分である[18]。江戸期の歴代当主の官位は従四位下左近衛少将を極位極官とした[17]。 幕末明治期の当主義堯は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、奥羽列藩同盟には近づかず、朝廷に恭順するよう奥羽諸藩の説得にあたり、7月1日に城下に入った総督九条道孝に拝謁を賜った義堯は、官軍に従うことを誓った[19]。緒戦こそ仙台藩軍や庄内藩軍の侵攻を受けて領内の大半が戦場と化すなど不利な戦況だったが、官軍の援軍8000人が到着すると形勢は逆転した[19]。 この戦功により明治2年(1869年)には賞典禄2万石を下賜された[20][19]。廃藩置県直前の明治4年に秋田藩と改称[19]。維新後は、華族の侯爵家に列した(→佐竹侯爵家へ)。 分流の大名家元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の義処は弟の義長に2万石を、甥の義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)[21]。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の義堅が久保田藩第5代藩主の義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された(義堅は早世するが、その嫡男の義真が久保田藩第6代藩主となる)[22]。一方、義長を初代藩主とする久保田新田藩は、廃藩置県まで存続し、明治2年(1869年)に岩崎藩と改称している[23]。戊辰戦争では、当時の当主義諶は、宗家とともに官軍として奮戦し、その戦功により明治2年に賞典金2000両を下賜された[24]。維新後、華族の子爵家に列する(→佐竹子爵家へ)。 明治時代以降維新後、佐竹氏からは侯爵家1家、子爵家1家、男爵家5家の合計7家の華族家が出た。 佐竹侯爵家最後の久保田藩主の義堯は、戊辰戦争における戦功により、明治2年6月2日に戊辰戦功賞典表で永世禄2万石を下賜され、同月5日には歴代当主で初めて従三位参議の官位を与えられた[20]。同月27日には版籍奉還に伴って久保田藩知事に転じるとともに華族に列し、明治4年正月13日に藩名を秋田藩に改称、同年同月15日に廃藩置県に伴う罷免まで、秋田藩知事に在職した[20]。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で1万7940石[25][注釈 2]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄(実額5000石)の合計2万2940石と引き換えに支給された金禄公債の額は、31万3397円15銭(華族受給者中20位)[26]。 義尭は、明治5年8月2日に隠居し、長女雅子の夫である義脩(岩崎佐竹家の義諶の長男)が婿養子として家督した[27]。義脩の代の佐竹宗家の住居は東京府本所区中ノ郷瓦町にあった。当時の家扶は、海老原保、秋山直、岡百八、村瀬清[28]。 明治14年に義脩は佐竹宗家の籍を離れて岩崎佐竹家に復籍したので、隠居していた義尭が再家督した[29]。 明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、旧大藩知事[注釈 3]として義尭は侯爵に叙せられた[31]。 同年10月23日に義堯が死去、維新の功により正二位を追贈された[27]。長男の義生が侯爵位と家督を相続[27]。義生夫人祚子は、明治天皇の侍従長として知られる徳大寺実則公爵の次女[27]。 大正4年2月22日に義生が死去すると、長男の義春が侯爵位と家督を相続。義春夫人兼子は九条道実公爵の長女[27]。 昭和19年4月13日に義春が死去すると、義栄が爵位と家督を相続[27]。義栄夫人百合子は徳川義親侯爵の三女[27]。 昭和前期に佐竹侯爵家の邸宅は東京市麹町区富士見町にあった[32]。 佐竹子爵家明治2年5月25日に久保田新田藩主佐竹義諶が隠居し(翌年4月16日に死去)、養子の義理(相馬充胤次男)が家督相続[23]。同年6月2日の戊辰戦功賞典表で賞典金2000両を下賜された[33]。義理は、版籍奉還後の明治2年秋に雄勝郡岩崎村に陣屋を移し[24]、明治3年2月25日に岩崎藩と改名して同藩知事に任じられ、明治4年7月15日の廃藩置県に伴う罷免まで在職[24][23]。 版籍奉還の際に定められた家禄は現米で1191石[25][注釈 2]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、2万3952円79銭7厘(華族受給者中198位)[34]。 明治前期の義理の住居は東京府本所区本所番場町にあった。当時の家扶は、大崎実賢、渡致雄[35]。 明治17年(1884年)7月7日に華族令により華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 4]として義理が子爵に叙せられた[37]。義理は貴族院の子爵議員に当選して務めた他、國光生命保険会社の社長を務めた[38]。義理夫人鐶子は、宗家の佐竹義堯侯爵の次女[39]。 大正3年に義理が死去した後、長男の義種が子爵位と家督を継承。義種夫人小枝子は、蜂須賀正韶侯爵の三女[39]。義種が大正12年1月22日に没した後、宗家の佐竹義生侯爵の四男義通が子爵位と家督を相続。義通が昭和2年4月23日に没した後には、弟(佐竹義生侯爵の五男)の義勝が子爵位と家督を相続。義勝は陸軍騎兵将校であり[38]、陸軍大佐まで昇進した[39]。義勝の先妻英子は秋元春朝子爵の長女、後妻淑枝は吉澤彦次郎三女[39]。 昭和前期に佐竹子爵家の住居は千葉県東葛飾郡船橋町にあった[38]。 なお、佐竹義諶の長男で佐竹宗家の32代当主となった佐竹義脩は、佐竹本家と離縁後に岩崎佐竹家の戸籍に戻り、その後分家して華族の男爵に叙されている(→佐竹男爵家 (義脩)へ)。 佐竹男爵家(義脩)岩崎佐竹家の当主佐竹義諶の長男義脩は、宗家の佐竹義堯の養子に入っていたが、明治14年に宗家から離籍して岩崎佐竹家の戸籍に戻り、明治22年10月16日に至って岩崎佐竹家から分家。その際に父義諶の維新の功により、華族の男爵に叙せられた[40][41]。義脩は陸軍軍人となり、陸軍歩兵大尉まで昇進した[40]。 明治26年11月22日に義脩が死去すると、次女雄子の夫である義立(佐竹義理子爵の三男)が婿養子として男爵位と家督を相続[40]。義立は昭和4年12月に爵位を返上している[40]。 佐竹男爵家(南家)→詳細は「佐竹南家」を参照
秋田藩の一門家臣だった佐竹南家の明治期の当主義雄は、明治33年5月に父義隣の戊辰戦争における戦功により華族の男爵に叙された[42]。同家については佐竹南家を参照。 佐竹男爵家(北家)→詳細は「佐竹北家」を参照
秋田藩の一門家臣だった佐竹北家の義尚は、明治33年5月に戊辰戦争における戦功により華族の男爵に叙された[42]。秋田県知事の佐竹敬久は、この家の3代男爵佐竹敬治郎の長男[42]。同家については佐竹北家を参照。 佐竹男爵家(東家)→詳細は「佐竹東家」を参照
秋田藩の一門家臣だった佐竹東家の当主義準は、明治39年9月に3代前の義寿の戊辰戦争における戦功により華族の男爵に叙された[43]。同家については佐竹東家を参照。 佐竹男爵家(西家)→詳細は「佐竹西家」を参照
秋田藩の一門家臣だった佐竹西家の当主義遵は、明治33年5月に戊辰戦争における戦功により華族の男爵に叙された[44]。同家については佐竹西家を参照。 京都佐竹氏(山入家)佐竹貞義の息子の一人である師義は足利将軍家の直属の家来となり佐竹宗家とは別の佐竹家を興した。常陸山入に主な拠点があったため俗に山入家とよばれているが、当家自身は佐竹氏を称し続けた。息子の与義の勢力は佐竹宗家を追い抜き将軍家の京都扶持衆に選ばれ、この与義の子孫が代々この身分を継承した。以降、義郷―祐義―義知―義真―義藤―氏義―義盛と続いたが、義盛のとき佐竹宗家の計略にはまり滅亡した。 歴代当主佐竹宗家
岩崎佐竹家
佐竹義脩家
系譜佐竹氏
配下武将常陸守護職 佐竹家臣団(直臣団)※ 以下、佐竹氏の直臣・陪臣として活躍した武家の一覧[注釈 5]。 陪臣佐竹氏一門 佐竹東家家臣
佐竹氏一門 石塚家家臣
常陸守護代 小野崎氏家臣 常陸守護代 江戸氏家臣
佐竹氏庶流 小野岡氏家臣
佐竹氏庶流・頃藤城主 小川家家臣
羽黒城主 向氏家臣 大橋城主 茅根氏家臣 真壁城主 真壁氏家臣 旧小田城主 小田氏 その他
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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