前島密
前島 密(まえじま ひそか、1835年2月4日〈天保6年1月7日〉 - 1919年〈大正8年〉4月27日)は、日本の官僚、政治家、教育者、華族。位階勲等爵位は正二位勲二等男爵。本姓は上野。幼名は房吾郎。名(諱)は巻退蔵、密。通称は来輔。号は如々山翁鴻爪。 越後国出身。日本の近代郵便制度の主要な創設者の一人であり「日本近代郵便の父」と呼ばれ[1][2]、大蔵省駅逓頭(後の郵政大臣・現総務大臣)、逓信省次官を務めた[3]。今も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。また、東京専門学校及び早稲田大学の建学に深く関わり、早稲田大学第2代校長を務め、校賓の名誉を受けている[4]。 早稲田大学正門横にある「早稲田大学教旨」の碑文は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている[5]。 人物越後国頸城郡下池部村(現・新潟県上越市)の豪農上野助右衛門の二男「房五郎」として生を受ける。母は高田藩士伊藤源之丞の妹で、貞子(ていこ)。生後八か月で父助右衛門が亡くなり、4歳の時母に連れられ高田に移住し、7歳頃、糸魚川藩の藩医を務める叔父相沢文仲の勧めで母とともに糸魚川の相沢家に移り、そこで、患者の取り扱いや薬剤の調合などを見聞きし、医書に接する機会を得ることで医学を志すこととなった。10歳となったとき母の下を離れ下池部にいる兄のもとに身を寄せ、高田城下倉石侗窩(安積艮斎の弟子)の漢学塾に通う。1847年(弘化4年)、12歳の時に、蘭学由来の医学を学ぶべく江戸に旅立つ。当初は一関藩に仕える儒学者都沢亨の塾生となり、その後、幕府の官医添田玄斎、続いて同じく幕府の官医長尾全庵の元に身を寄せ、医学の修行をした。 1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア大統領親書を授受する儀式で応接する役目を担った浦賀奉行井戸弘道の随行員として同行する機会を得、海防・国防の重要性を認識し、医学から海防・国防へと志を転ずる。友人の斡旋により旗本設楽貞晋の屋敷に住むことになった。設楽貞晋の母は大学頭林述斎の娘であり、設楽家には大学頭の蔵書があり、それを閲覧することができた。また設楽貞晋の兄に、後に外国奉行として外国との条約交渉に当たることになる「幕末の三傑」と呼ばれた岩瀬忠震がおり、英語の重要性を諭されるなど啓発を受けた。1856年(安政3年)、海軍学を学ぶために、幕府御船手頭を務める旗本江原桂介の屋敷に移り住み、そこに住む槙徳之進から兵学を学んだ。翌1857年(安政4年)、日本最初の洋式軍艦観光丸が長崎から江戸に回航され、軍艦教授所(後の軍艦操練所)が開設された。同艦の運用長で軍艦教授所の教授となった竹内貞基(卯吉郎)が度々江原邸を訪れたが、竹内は房五郎を大いに励ましたうえで機関学を教授し、観光丸の機械図を与え、房五郎を軍艦教授所の生徒とした。そのうえで観光丸の試運転に規則外の見習生として房五郎を乗船させてくれた。そのような折、箱館の諸術調所で武田斐三郎が同港碇泊の米商船長ボーデッティを招聘し、商船とそれに関する業務を学び、その生徒をも陪席させているとの話を聞きつけ、それに参加すべく1858年(安政5年)3月、箱館行に向かう。このとき遊歴に利ありとして巻退蔵と改名している。箱館では、箱館奉行所の奉行所頭栗本鋤雲を頼り、その紹介で調役山村惣三郎[注釈 1]の子源太郎の家庭教師となり、同家に住み込んで武田斐三郎の塾に入門する機会を待った。そして、翌1859年(安政6年)、退蔵はようやく入塾を許されたが、武田は多忙のため教授する時間がなく、ボーデッティも一年前に去ってしまっていた。そこで退蔵はボーデッティの航海書により測法と測器の用法等を独学で学んだ。1860年(安政7年、万延元年)、時勢がますます不穏となる中、退蔵は函館奉行所の向山栄五郎(黄村)に従って江戸に帰還。同年2月、ロシア軍艦対馬占領事件(ポサドニック号事件)が発生、幕府の水野忠徳、小栗忠順等がその折衝に当たっていたが、8月、外国奉行野々山兼寛、外国奉行組頭となった向山栄五郎が対馬に派遣されることになり、退蔵もこれに随行した。 1862年(文久2年)頃より、退蔵は何礼之の下、長崎で留学生活を始め、チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)やグイド・フルベッキから英学の教えを受けるなどしていた。また、何は長崎奉行所の英語稽古所の学頭であったが、別に家塾を開いており、退蔵はその塾長となっていた。1864年(元治元年)何の協力を得て、苦学生のために瓜生寅と私塾「培社」を崇福寺広福庵に開く[注釈 2][9][10][11][12]。瓜生寅を学長(塾長)として、瓜生震(瓜生寅の弟で海援隊士)、林謙三(のちの安保清康)、高橋賢吉(のちの芳川顕正)、橘恭平(のちの神戸郵便局長)、鮫島誠造(尚信)らと勉学に励む[注釈 3][10][13]。しかしながら、「培社」の運営は財政上厳しいものがあり、その支援のため紀州藩蒸気船の監督者を勤めている間に金銭問題が生じ塾は閉じた[14]。 1865年(慶応元年)、培社の薩摩藩士鮫島誠造から同藩の開成学校の英語教授として鹿児島に来るよう要請され、鹿児島に赴任、開成学校を監督する地位にあったのが大久保利通であった。彼と歓談した際、航海学と機関学とを修めたのなら薩摩藩の海軍士官にならないかと誘われたが、これを断っている[注釈 4]。1年ほど滞在後、城下に反幕の雰囲気が高まる中、退蔵は江戸に戻った。 江戸に戻った退蔵は、旗本平岡凞一[注釈 5]の斡旋により、京都見廻組の役にあって死亡した旗本前島錠次郎の跡目として1866年(慶応2年)3月に前島家に養子に入り家督を継いだ。同年11月10日幕府より公式に相続が認められ幕臣となり、前島来助(来輔)と名乗る。そしてこの頃に来助は幕臣清水與一郎の長女奈可と結婚した。 幕臣となった当初は無役であったが、幕府開成所頭取並松本寿太夫より反訳(翻訳)筆記方に欠員が出たため、出仕の要請があり、退蔵はこれに応じ同所に勤務することになった。「漢字御廃止之議」を建議するのはこの頃である。さらに1867年(慶応3年)5月に、開成所の数学教授となった。 兵庫港開港が近いことを知り、開港地の役人として外交事務に携わるべく、兵庫奉行柴田剛中に懇願し、同奉行手付として出仕することとなった。兵庫では、お雇い外国人から税関や保税倉庫の事務といった港湾事務の教授を受ける機会を得、1868年(慶応4年)正月元日に兵庫奉行支配調役に昇進した。しかし、この時期政局は一変しており、前年10月14日に将軍徳川慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し、12月9日、王政復古の大号令が発せられ、小御所会議にて慶喜に辞官・納地が命じられていた。来助が昇進して間もなくの1月3日鳥羽・伏見の戦いとなり、幕府軍敗北、将軍慶喜が江戸に向かった報が知らされ、兵庫奉行も部下一同を率いて江戸に退去するよう通達され、兵庫奉行は消滅することとなった。 江戸に戻り、平岡凞一の下、勘定役格徒歩目付役となり官軍迎接役として小田原まで出張するが果たせず、勝海舟らとともに慶喜恭順に従い奔走する。敵対する新政府にある旧知の大久保利通に「江戸遷都」を献言したのはこの時期である。 同年閏4月(1868年5月22日)、朝命により徳川宗家の相続が徳川家達にゆるされ、翌5月駿府藩(静岡藩)が成立、来助は、勝海舟などに請われ、家達に仕えるべく静岡に向かった。1869年(明治2年)来助は遠州中泉奉行となり、江戸から移住してくる無禄の士族を収容するため、居住地の整備や授産設備の建設などの職務を担うこととなる。同様の奉行職に渋沢栄一がいる。この時期に、前島は自身を「前島密」と称するようになった。 同年12月20日(旧暦11月18日)、明治政府に、大隈重信が主導して、民部省内に明治政府に必要な制度改革の素案を作成する「改正掛」が設置された。大隈は渋沢を掛長として招聘、1870年1月29日(明治2年12月28日)、前島密もその一員として出仕することとなった。 献策・実施した事項
1866年(慶応2年)に、前島密は「漢字御廃止之議」という建議書を将軍徳川慶喜に提出した[16]。これは「国民の間に学問を広めるためには、難しい漢字の使用をやめるべきだ」という趣旨のもので、日本の国語国字問題について言文一致を提言した歴史的な文献である[17]。前島は青年時代、江戸から帰省したとき、土産の絵草紙と三字経を甥に教えてみて、漢字教育の難しさを痛感し、漢字廃止を思い立ったのに加えて、1862年(文久2年)長崎でチャニング・ウィリアムズから英学の教えを受ける中で、後述の郵便制度に加え、漢字廃止論もウィリアムズから示唆を受けたのである[18]。 前島はその後も、1873年(明治6年)年には全文ひらがなの新聞『まいにちひらがなしんぶんし』を創刊。1899年(明治32年)には帝国教育会の国字改良部長、翌1900年(明治33年)には自ら設立を働きかけた政府の国語調査委員会の会長に就任するなど、この問題に取り組んでいる[16]。郵便制度にも「切手(きって)」「はがき」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」などの和語を導入したが[19]、これは一般に使われていなかった言葉の中から相応しいものを採用した結果である[20]。
明治政府は新しい首都をどこにするか検討している中、1868年(慶応4年)に大久保利通の大阪遷都論を読み、遷都の地は江戸にすべきと大久保に進言した[21]。理由は、大坂は既に商都として成熟しており、遷都する必要性はないが、一方で人口の増えた江戸の経済規模を維持するためには、遷都が必要であること[21]。東国の鎮撫や蝦夷開発の拠点として重要であり、北海道を含めた場合、日本の中心地としては東国が適していること[21]。また、政府・教育機関の建設に大名屋敷の跡地が利用でき、大坂では既に土地が足りないことなどを挙げている[21]。この意見は大久保を動かし、実現することとなる。この年7月に江戸は東京と改められ[22]、9月に天皇は東京へに移動[23]、江戸城は皇居となった[24]。
明治政府に出仕して間もない1870年(明治3年)、前島は上司の大隈重信から、鉄道の建設費と営業収支の見積りを作るよう命じられる。当時日本には、その標準となるような資料は全くなかったが、苦心の末に精密な計画案を作り上げた。のちにこれを見た外国人はその的確さに敬服したという[要出典]。前島はこの案に「鐵道臆測(鉄道憶測)[25]」と名づけた。品川横浜間に鉄道が仮開業したのは1872年(明治5年)5月、新橋横浜間の正式開業は9月のことであった。
1862年(文久2年)、前島は長崎でチャニング・ウィリアムズから英学を学ぶ中で、郵便制度についても学び、後に日本の近代的郵便制度の基礎確立に繋がることとなる。ウィリアムズは、前島に「通信の国家に於けるは、恰も血液の人身に於ける様な者である(中略)通信は即ち血液で、血管は駅逓である(後略)」と説明し、切手の貼られた書状を見せ、切手の持つ役割を教示した[26][27]。かくして、1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、前島密の発議により、東京大阪間で官営の郵便事業が開始される。前島は、大蔵省や内務省の官僚としての仕事をこなしながら、1870年(明治3年)から11年間もの長い間郵政の長として、熱心にこの事業の育成にあたり、その基礎を築いた。そのため「郵便の父」とたたえられている。「郵便」や「郵便切手」などの用語は、彼自身が選択した言葉である[28]。 1875年(明治8年)1月、郵便為替が開始された。前島はイギリスでの経験から郵便創業の翌年、経済拡大には郵便為替の実施が必要だと建議したが運転資金や取り扱い者の技術的な問題もあって採用には至らなかった。しかし前島の熱意により、郵便に遅れることわずか4年でその創始を見ることとなった。同年5月、東京横浜の両地で郵便貯金の取り扱いが開始された。イギリスで郵便貯金が国民の生活や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、日本でもこれを実施することにしたが、当初は中々一般に理解されず、前島は私金を出して、それを貯金発端金として預けさせるなど奨励には苦心している。
前島は欧米社会を見聞して、広く世間の出来事を伝える新聞が必要なことを痛感し、その発達を助けるために、1871年(明治4年)12月新聞雑誌の低料送達の道を開く。その翌年6月には、自ら出版者を勧誘し、太田金右衛門に『郵便報知新聞』(後の『報知新聞』)を創刊させた[29][30]。また、1873年(明治6年)には、記事の収集を容易くするため新聞の原稿を無料で送れるようにした。さらに前述のとおり『まいにちひらがなしんぶんし』を発行して、平仮名のみで世の中の出来事を書けることや、知識を広められることを示した[20][注釈 6]。
江戸時代から陸運業務と併せて信書送達を行なっていた定飛脚問屋(じょうびきゃくどんや)は、郵便事業に強く反対していたが、前島密の説得を受け入れ、1872年(明治5年)6月に日本通運株式会社の前身となる陸運元会社を設立した。この会社は、全国の宿駅に誕生した陸運会社を統合し、郵便輸送を中核として貨物専門の近代的な通運会社として発展した。
海運の大切なことに着眼し、函館では自ら廻送業者の手代に加わって、その実務を体験した。その経験を持って、1872年(明治5年)日本帝国郵便蒸気船会社が生まれたのである。1875年(明治8年)大久保利通は、前島密の建言によって、画期的な海運政策を建て、岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(当時「三菱商会」)を補助して、その政策を進めることとなった。これが今日の日本郵船株式会社の前身である。近代海運はこのときから始まったといわれている。
1876年(明治9年)に視覚障碍者の教育を目指す楽善会に入会した密は、杉浦譲など同志たちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くした。1879年(明治12年)に完成した訓盲院は、その後文部省へ移されたが、前島は引き続き同校の役員として、長くその運営発展に力を注いだ。そのため1917年(大正6年)の皇后行啓の際、前島は特に招かれて玉音を受けている。訓盲院は現在の筑波大学附属視覚特別支援学校の前身である。
維新後、前島密は静岡藩において開業方物産掛として産業振興に取り組んだ経験を持ち、産業奨励に深い関心があった。大久保利通は前島の主張を取り入れ、勧業博覧会を内務省の所管として、1877年(明治10年)、東京上野で第一回勧業博覧会を開催し、審査官長に命じた。この博覧会は日本の産業発達に大きな影響を与えた。
前島密は、1880年(明治13年)、海員の素質の向上とその保護救済などを目的とする日本海員掖済会を発足させ、その後も長くその発展に尽力し、海員の寄宿と乗船の仲介を行ったまた、海員養成、無料職業紹介、診療事業を行ない、殉難職員の遺族に対する慰藉、海員の養老扶助まで事業を拡大した。
1882年(明治15年)、早稲田大学の前身、東京専門学校が創立された。この学校は学問の独立を主張する大隈重信の発意で生まれものだが、密はその創立に参画してこれを助けた。その後、1887年(明治20年)に校長に就任し、財政の独立など経営上の困難な問題の解決にあたり、校長を退いたのちも、長く同校の発展のために尽くした[4]。早稲田大学正門横にある「早稲田大学教旨」の石碑の刻字は、前島密の自筆が原本である[31]。また、長女の不二は、高田早苗の夫人となっている。
1890年(明治23年)12月、東京横浜市内とその相互間で初めて電話の交換業務が開始された。電話事業については、1883年(明治16年)以来官営にするか民営にするか議論されていた。前島密は1888年(明治21年)逓信大臣だった榎本武揚の依頼で逓信次官に就任すると、官営に意見を統一し電話事業を開始した。 年譜![]() ![]()
栄典
その他
切手
日本における近代郵便制度の父として、現行の1円普通切手に前島の肖像が描かれているほか、いくつかの記念切手にも彼の肖像が描かれている。 他の日本の切手が頻繁にデザインを変更している中、前島の肖像が描かれている1円切手だけは昭和22年(1947年)の初発行以来、文字などに若干の調整があるほかは一度も基本のデザインが変更されていない。日本郵便も、1円切手の前島の肖像だけは今後も変更することはないと公式に発表している[47]。 令和3年(2021年)4月14日に日本郵便のマスコットキャラクター「ぽすくま」をデザインした1円切手が1億枚限定で発行されたが、現行の前島1円切手も継続して販売される[48]。 普通切手
記念切手
著作
親族伝記
登場する作品テレビドラマ小説
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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