ゆでたまご
ゆでたまごは、日本の漫画家ユニット。嶋田 隆司(しまだ たかし)と中井 義則(なかい よしのり)の合同ペンネームである。 ともに私立初芝高等学校卒業。10代で『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載デビュー。代表作には、『キン肉マン』『キン肉マンII世』『闘将!!拉麵男』『ゆうれい小僧がやってきた!』などがある[1]。集英社との独占契約で約14年執筆した後、他社の雑誌でも活動している。2011年より『キン肉マン』の新シリーズを集英社のWebサイト『週プレNEWS』上で開始し、2022年現在同作を連載中。 設定の矛盾を気にしない展開と飛びぬけた発想を身上とする。特にプロレス・格闘技を題材としたギャグ漫画がメインである。 プロフィール嶋田隆司原作担当。1960年10月28日生まれ。大阪府大阪市西淀川区出身。1984年頃までは父方姓の金山 隆司(かねやま たかし)だったが、父親の死去を機に母方の「嶋田」に改姓。『キン肉マン』5話には新聞記事に「金山たかし逮捕」という小ネタが挿入されている。左利きであり、ゲスト出演した時代劇『必殺仕事人V』においては投球、食事(箸)も左で行っていた。『キン肉マン』は嶋田が中井に出会う前から大学ノートに描いていたものが元になっている。 映画の試写会などイベントや、インタビューなどメディアへの露出は嶋田のみであることが多い。単行本の著者近影でも遊んでいる写真がよく選ばれるなど、執筆以外の露出が多く、読者からは「仕事しないほうのゆで」などと揶揄されることがある[2]。 少年時代はやんちゃで、幼稚園では女の子にキスをせまるなどませた子供だったが[3]、近所の子供の寄り合いなどは嫌いだったという。その頃から絵を見ただけで作者の名前が分かったり、目をつぶってインクの匂いを嗅いだだけで雑誌名を特定したりと、相当の漫画好きであった。 高校では女の子目当てにデザイン科希望の中井を置いて商業科を希望したが、実際に入ってみると女子の入科は0人であった。そればかりか尖った耳から不良生徒のいじめの対象になり、ある日「宇宙人」と馬鹿にされて喧嘩に発展、電車で拉致されそうになったが、停車の隙に「イエーイ!」と相手を挑発して逃げ帰ったというエピソードがある。報復を恐れて中退しようと一度は思ったが、我慢すれば通い続けられると母に説得されて学業を継続することにした。そうすると割と友達ができ、プロレスが好きな柔道部の友達がいじめから守ってくれるようになった[4]。 テレビ好きで、好きな番組は『プレイガール』。2007年12月8日に15歳年下の女性と結婚した。 好きな超人はラーメンマン。理由は子供たちにとって描きやすいから。ドラえもん、おばけのQ太郎と同じで藤子不二雄の影響だという[5]。 好きなゆでたまごの茹で加減は固茹でで30分茹でる[6]。 2012年末、左太ももにインスタントラーメンをこぼし、火傷を負った。その際に合併症を併発し、全治6か月の重症になった[7]。「火傷を甘く見ていた。引退も考えた」などとSNS上で述べた。 2023年10月、運動のやりすぎで平坦の場所を歩くだけでも激痛を伴う変形性膝関節症となり高位脛骨骨切り術のため入院、復帰まで『キン肉マン』は休載となった[8]。2024年9月3日、高位脛骨骨切り術で右膝に埋め込んだプレートの抜去手術を受けた[9]。 中井義則作画担当。1961年1月11日生まれ。大阪府大阪市浪速区出身[10]。1981年頃までは父方姓を名乗っていたため岩元 義則(いわもと よしのり)だったが、成人したことを機に母方の「中井」に改姓。 ゆでたまごのプロダクション、スタジオ・エッグ代表。出不精であると本人は述べている。 小学校入学前からの熱烈な野球少年で、将来の夢はプロ野球選手だった。また、プロレスラーにもなりたかったという。絵を描くことが好きだったが、漫画は嶋田に出会うまではあまり読んだことがなかった。21歳の時に結婚し、長女・長男・次男の3子がいる[11]。長男の中井光義はお笑い芸人(芸名なまたまご)を経て、プロレスラー、総合格闘家として活動。 デビュー当初はまだ画力に乏しかったため、『キン肉マン』の連載開始からしばらくの間は『ジャンプ』の表紙を飾るキン肉マンの絵をイラストレーターに代行されていた。 長男の光義からは「真面目で前向きな人」と評されており、50歳を過ぎても画力の更なる向上のために正体を隠して絵画教室に通っているという[12]。光義がプロレスラーを目指すことにも、かつて自身が同じ道を進みたかったため好意的だった。 現在はキャラクターの作画・造形にソフトウェアのPoserで制作した3Dモデルを骨組みとして使用しており、『キン肉マン』における超人の筋肉の描写は『ジャンプ』連載時代と比べて写実性が増し、また立体的になっている。顔の輪郭も身体つきとのバランスを重視し『ジャンプ』時代と比べて細長めに描いている。 高校時代は、いじめられっ子だった嶋田とは対照的に番長として一目置かれ、女の子にもモテモテであったという[4]。 ペンネームの由来「どんなペンネームが良いかと考えている際に、嶋田が放屁したらゆで卵のような臭いがしたため、それでいいかと思い決まった」とする中井説と、「ペンネームを考えている時に食べていたものが、ゆで卵だったので『ゆでたまご』になった」とする嶋田説がある。2人とも記憶が曖昧でどちらが正しいのかは不明だが、嶋田は後のインタビュー[13]中に中井説の方を認めている。 赤塚賞の授賞式の際、審査員がペンネームについて尋ねたところ、嶋田が「ゆでたま」で中井が「ご」と説明されたとしている[14]。だが、『週刊少年ジャンプ』の目次の作者コメント欄では嶋田が「ゆで」中井が「たまご」と表記されていた。1982年(昭和57年)9号のグラビアページ企画「作者手相」では「ゆでたま」と「ご」となっている。 来歴小学生時代小学4年生の3学期(1971年)、嶋田の通う大阪市立住之江小学校に中井が転入する。クラスは違ったが同じ団地に住んでおり、通学バスで時々乗り合わせる内に知り合った。小学5年生の時に中井が嶋田の家に遊びに行った際、嶋田の描いた『キン肉マン』を気に入り意気投合した[3]。 中学時代ともに大阪市立南稜中学校に進み、当時『週刊少年チャンピオン』で連載中だった藤子不二雄Aの『まんが道』の影響を受け、漫画の合作を本格的に開始する。最初に描いたのがバトルアクション漫画『野獣の牙』で、これを始めとして野球、空手、純愛など様々なジャンルに挑戦する。当初は、大学ノートにお互いが描き合うという形だった。 中学2年で『ラーメン屋のトンやん』を初めてペンで描き、これが近鉄漫画賞に入賞する。当時のペンネームは2人の名前を合わせた本山たか義(もとやま たかよし)。自作の漫画をクラスメイトに読ませていたが、嶋田が2019年頃にFacebookを通じて約45年ぶりに再会した中学時代の友人は、「漫画の感想を言わないと怒るから、感想を求められるのがプレッシャーだった」と苦笑していたという[4]。 高校時代二人とも勉強は全く力を入れていなかったため、当時落ちこぼれと不良の巣窟であった私立初芝高等学校に揃って進学。漫画家になることを目標に投稿を続けた。この頃から原作を嶋田が、作画を中井がそれぞれ分担し始める。2人とも母子家庭で、高校を卒業すると就職のために漫画を描けなくなるということから、高校卒業までに漫画家になるという目標を持っていた。 16歳の時、赤塚賞に『ゴングですよ』、手塚賞に『マンモス』(共にプロレス漫画)を投稿するも選外、しかし担当編集者がつくこととなった。 『キン肉マン』でデビュー1978年、『キン肉マン』で第9回赤塚賞準入選し、これが『週刊少年ジャンプ』1979年2号(1978年12月)に掲載されデビューとなった。編集部内では稚拙な作品と評判が良くなかったが、当時の編集長・西村繁男は、低年齢向け漫画としての資質があることを見抜いており、担当の中野和雄と大阪まで出向いてスカウトした。 この時、2人は既に就職が決まっていたが、「漫画が続かなかったら就職の世話をする」と西村が2人の親を説得し、東京にアパートまで用意したという。当時は「漫画家は水商売扱い」であり、中井も嶋田も両親が猛反対していたため、西村が説得に成功するまで大変苦労したという[4]。 1979年5月、2人の高校卒業を待って、『キン肉マン』が『週刊少年ジャンプ』で連載開始。初期はプロレスネタを交えたギャグ漫画だったが、途中からバトル重視のプロレス漫画に路線変更、大ヒットとなり、TVアニメーションも展開される。劇場用アニメーション作品も何本か作られた。また、作中に登場する「超人」をかたどった消しゴム人形「キン肉マン消しゴム(キン消し)」集めが子供達の間で流行した。 『闘将!!拉麵男』もヒット1982年に『週刊少年ジャンプ』の別冊『フレッシュジャンプ』で、『キン肉マン』に登場する人気キャラクターのラーメンマンを主人公としたスピンオフ作品『闘将!!拉麵男』を『キン肉マン』との同時進行で連載開始。TVアニメ化もされた。 1985年には吉本新喜劇(当時)の高石太とともに『必殺仕事人V』第9話「主水、キン肉オトコに会う」に仕事人志望の若者(依頼人)役でゲスト出演。ブームの最中ということもあり、中盤過ぎに殺されるまでほぼ出ずっぱりだった。劇中では必殺技を解説するための紙芝居を描いており、バッファローマンが殺される悪人役になっていた。 1985年3月、第30回(昭和59年度)小学館漫画賞受賞(『キン肉マン』)。 『キン肉マン』終了後『キン肉マン』終了後は、格闘漫画以外のジャンルを模索しながらもこれといったヒットが出ない冬の時代が続き、1990年代半ばになると世間からは過去の人と扱われた[15]。『蹴撃手マモル』終了後、都合良く読み切りばかり書かされる状況に中井が飼い殺しを恐れるようになり、集英社との専属契約を解消したが、この頃嶋田は吉祥寺を歩いていたら通行人に「最近面白くねえんだよ!」と罵倒されて頭を叩かれる経験をした[4]。 そんな中、1996年1月に『キン肉マン』の後日談となる読み切り『マッスル・リターンズ』が『格闘エース』に掲載された。角川書店は『キン肉マン』の権利関係から集英社に確認を取ったが、集英社はあっさりと許可した。ただ、ゆでたまごが作品を少年ジャンプで書きたいと申し出ると集英社はその必要はないと断った。悔しさに燃えるゆでたまごであったが『マッスル・リターンズ』への反響は大きく、『キン肉マン』シリーズの続編連載の機運が高まった[4]。 『キン肉マンII世』の連載開始そうして1997年に『週刊プレイボーイ』誌上に『キン肉マン』の続編にあたる『キン肉マンII世』の読切32Pが掲載され、計5回にわたるシリーズ掲載を経た後、翌1998年より連載となる[16]。二度目のヒットとなり、リバイバル漫画ブームの先駆けとなる。 2004年、『キン肉マン』生誕25周年を迎えた。 2007年に日本記念日協会より月を問わず、29日の金曜日を『キン肉マン』の記念日と認定証が発行されている。 2008年には生誕29(ニク)周年を記念し『週刊少年ジャンプ』29号に復活掲載、記念本『肉萬〜キン肉マン萬之書〜』、画集『筋肉画廊』、アニメDVD『キン肉マン コンプリート DVD-BOX』が発売され、イベントも2月に新宿バルト9で『キン肉マン映画祭』、6月に秋葉原の東京アニメセンターイベントギャラリーで『キン肉マン展』、12月にはさいたまスーパーアリーナで開催された『Dynamite!!〜勇気のチカラ2008〜』にキン肉万太郎が出場、ボブ・サップと対戦し、敗れはしたものの瞬間最高視聴率18.1%を記録した。 2009年には生誕30周年を迎え、5月29日にJCBホールでプロレス興行『キン肉マニア2009』を開催。キン肉マンや超人達が実際に試合を見せ話題となる。2010年1月29日には22年振りのジャンプ・コミックス新刊『キン肉マン』37巻が発売された。発売記念のサイン会が紀伊国屋書店で開催され、用意された整理券は30分で配布終了となるなど変わらぬ人気を見せた。 近年の活躍2011年5月9日より、『キン肉マンII世』の連載が『週刊プレイボーイ』誌上から『週刊プレイボーイ』のWebサイト『週プレNEWS』に移る。 2011年11月28日より、『キン肉マン』新シリーズの連載を『週プレNEWS』で開始。 作風ストーリー展開ゆでたまご作品の最大の特徴として、物語や設定の整合性が取れず、数多くの矛盾点を含みながら進むストーリー展開が挙げられる。 これは『キン肉マン』連載デビュー当時、作品作りのイロハを理解しておらず、右も左も分からない状態で執筆していたことが原因であるという。そのため周囲からは破綻が多い、いい加減な作品だと随分非難を受けて、ゆでたまご自身一時期大変落ち込んだことを明かしている。しかし読者からは高い支持を受けていたことと、当時は車田正美など同様の作風の作家がいたことなどを理由に自信を取り戻し、以後ゆでたまごの作風として定着させた[17]。その後はストーリーの統合性などは二の次として、読者の度肝を抜く展開を心がけ、毎週締め切り過ぎまでアイディアを粘るため、原稿が完成するのが連載作家の中で1、2を争うほど遅くなったという。 嶋田はインタビューなどで「細かい設定にこだわっていると、結果としてつまらなくなってしまう[18]」「ツッコミ所が多い方が、読者が親近感を持ってくれる[19]」と述べている。また、誤植や作画のミスに関しても、ゆでたまご自身少年時代に読んだ漫画のあら捜しをして楽しんでいた思い出もあるので、指摘があってもあえて修正していない部分もあると語っている[20]。後付け設定もたくさんあり、後になり整合性が取れていなかったり辻褄が合わなくなることがよくあるが、そういう整合性のない部分を読者があとで、あれこれ議論したり推理する材料になればいいと思っているから、単行本化されるときも、あえて修正したりはしていないと語っている[21]。 これらのこと(例:7人の悪魔超人が8人いた等)をファンからは「ゆで理論」と呼ばれている[22]。 読者参加型代表作の『キン肉マン』を始め、ゆでたまごの作品では登場人物などを読者から募集するのが通例となっている。『キン肉マン』の主要キャラクターであるロビンマスクやラーメンマンなども読者応募によるものであり、中井はファンを「3人目のゆでたまご」であると語っている[23]。 ゆでたまごが『キン肉マン』でデビューして間もない頃、読者からのファンレターが来ても返事を書く余裕がなく、担当編集者の中野和雄の発案で[24][25][26]、読者の考案した怪獣を漫画に登場させ、主人公のキン肉マンと戦わせることで読者に応えようとした。反響は大きく、のちに作品が怪獣退治からプロレス主体になると「超人募集」として企画は継続され、当初数十通だった応募は回を重ねるごとに数百通・数千通と増えていった[26]。2万通というあまりの葉書の量に、当時の嶋田の下宿だったクリーニング屋の2階は床が抜け、引越しを余儀なくされた[27]。 応募作品の選考にあたって、ゆでたまごは極力低年齢の子供のものを採用するようにしたという[25][26][27]。ルービックキューブ(キューブマン)など当時の流行に基づいた超人を採用すると、以降は時事や流行を反映した超人が多く応募されるようになった[27]。 やがて『キン肉マン』は読者参加型の流れが出来上がり[27]、『ゆうれい小僧がやってきた!』の「妖怪募集」、『トータルファイターK』の「カオの対戦相手募集」などに続いていく[23]。この方式はゆでたまごの作風として読者に認知され、募集告知を全くせずに新連載を始めても登場キャラクターの応募が送られてくるほどになった[23]。『キン肉マンII世』の開始にあたって行われた超人募集には10万通以上の応募があったと嶋田は述べる[28]。 超人募集は読者を対象としたもの以外にも、『キン肉マン 77の謎』などのムックで他の漫画家や芸能人・格闘家が新超人を考案する企画が数度行われている。テレビ番組『アメトーーク!』の「キン肉マン芸人」の回では、お笑い芸人たちが新超人を考案し、ゆでたまごに選考してもらう企画が催された。 作品連載各作品の詳細については当該記事を参照。番号は発表順、年は発表年。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌および単行本については以下の略号を用いる。
読切→詳細は「ゆでたまごの読み切り作品一覧」を参照
番号は発表順、年は発表号・年月等。年の列にはソートを正しく行うため便宜的に上付き文字で数字を加えている。掲載誌については以下の略号を用いる。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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