解剖用の遺体が取得できないという問題は、死刑による抑止力を高める狙いもあって、1752年殺人法(英語版)として結実する[8]。法律では、「全ての殺人犯は、処刑後、解剖されるか、鎖に吊されるものとする」と命じている[注釈 4]。解剖は、一般に「死よりも辛い運命」(英: "a fate worse than death")と認識されており[11]、解剖をジベット(さらし柱)(英語版)に代えることができる権限を判事に与えたのは、この恐怖に訴えかける試みだった[12]。解剖学者にとって法律は、以前より多くの遺体を扱うための成文法として働いたが、それでも数は不十分であった。供給を増やすために、外科医の中には刑務所に実費と有罪宣告者の葬儀代を支払う者もいたが、賄賂は絞首台の下で公然と支払われるようになり、ある時には非合法の遺体が解剖用に引き渡されることまであった[13]。
18世紀遅くのロンドンでは、解剖学者たちは墓荒らしの多くを、専門の死体泥棒、通称「死体盗掘人」(英: resurrectionists)に委任していたと考えられている。1795年にはランベスで15人の屈強な男たちが盗掘に関わっていることが暴かれたが、彼らは「名高い8人の外科医と、自称アーティキュレーター」の代理人だったという[注釈 11]。この事件の報告書では、遺体1体当たり2ギニー1クラウン、最初の1フィートに6シリング、またこの長さを超えた場合(英: for all it measures more in length)は1インチごと9ペンスが支払われたとされている[26]。遺体に支払われる金額は固定制ではなく、闇市での値段はかなりばらついていた。1828年に開かれた解剖に関する特別調査委員会(英語版)によれば、外科医のアストリー・クーパーは、以前は2〜14ギニーで手に入れていた遺体が1828年には8ギニーになったと証言しているし、別の人物は1体当たり20ギニーまで支払ったと証言している[27]。当時イーストエンドで働いていた絹織り工の賃金が週5シリング、裕福な家の従僕で週1ギニーだったことを考えると、遺体の取得には多額が必要で、死体盗掘人は高額を稼げる商売だったこともうかがえる[28]。エディンバラのロイヤル・カレッジにいた外科医たちは、地元の死体不足が価格を押し上げている時に特に、死体盗掘人が不当利益に走っていると非難した。ある外科医は特別調査委員会の聴取に対し、死体泥棒たちは自分たちの利益のため市場価格を操作しているが、自分たちの利益のため遺体の価格を操作しようとする解剖学者の集まりである「解剖クラブ」からは、何の批判も出ていない、と証言した[29]。
1831年の段階で、7つもの死体盗掘ギャング団が活動していた。1828年の海防に関する特別調査委員会では、ロンドン中に200人ほどの死体盗掘人がおり、その多くがパートタイム労働だと推測している[47]。1802年から1825年まで活動した「ロンドン・バラ・ギャング」(英: The London Borough Gang)は、最盛期には少なくとも6人の男性で構成されており、リーダーは当初病院で荷物運びをしていたベン・クラウチ(英: Ben Crouch)が務めていたが、後にパトリック・マーフィー(英: Patrick Murphy)という男に引き継がれた。アストリー・クーパーの保護を受け、クラウチのギャング団はロンドン最大の解剖学校のいくつかに遺体を供給していたが、それらの学校との関係はいつも穏やかというわけではなかった。1816年、ギャングたちは、1体当たり2ギニーの代金値上げを求めて、聖トーマス病院医学校(英語版)への遺体供給を停止した。学校はフリーランスの死体盗掘人を使うことでこれに対抗したが、ギャング団のメンバーは解剖室になだれ込み、学生たちを脅かして遺体を損壊した。現場には警察官が呼ばれたが、不都合な噂が広まることを恐れ、学校は襲撃者の保釈金を支払ってギャング団との交渉に乗り出した。ギャングたちはライバルを蹴落とそうと画策し、時には墓を冒涜したり(その後数週間の墓荒しが危険になるため)、またフリーランスの死体盗掘人を警察に密告したり、さらには密告後保釈された死体盗掘人を仲間に引き入れたりした[4]。1811年から1812年までの自分の活動をまとめて "The Diary of a Resurrectionist"(意味:ある死体盗掘人の日記)との本を著したジョシュア・ネイプルズ(英: Joshua Naples)は、そうやって引き込まれた人間のひとりだった[注釈 17]。この本には、彼が荒らした墓、遺体を運び込んだ施設、彼が受け取った代金、そして自分の大酒飲みっぷりが詳細に記述されており、中には満月の夜にはギャングの仕事ができなかったこと、腐敗が疑われる(英: "putrid")死体は売れなかったこと、また天然痘感染の疑いがある遺体はそのまま放置されたことなども書かれている[49]。
死体泥棒に降りかかったのは、暴徒の存在という問題だけではなかった。ネイプルズは「自警団」(英: "patrols")に出くわしたこと、そして「犬が飛びかかってきた」(英: "dogs flew at us")ことについて書き残しているが[49]、これは死体盗掘人の所業に対する防御策の一部でもある。貴族や裕福な人々は、自分たちの遺体を三重の棺や地下納体堂(英語版)、私的教会に納めたり、従僕に警備させたりした。もう少し資産が少ないと、使えるのは二重の棺となり、私有地に深く掘った墓穴に埋められることになった。これよりもっと一般的な防衛策としては、棺の上に重い石を載せたり、墓穴を土ではなく石で埋めてしまうなどの方策が挙げられる。しかしながらこれらの防衛策が無駄骨になることもよくあり、ロンドンには少なくとも1箇所、解剖学者が保有していた墓地が存在したとさえ報告がある。この解剖学者は、「素晴らしい[遺体の]供給を得て[中略]、埋葬料をたっぷり請求した上、自分の学生から8〜12ギニーを受け取って、再び掘り起こさせたのだ!」と記録されている[注釈 18]。さらに手の込んだ発明もあり、例えば "The Patent Coffin"(意味:特許付き棺)では、蓋が梃子で開けられるのを防ぐため、隠されたばね仕掛けを備えていた。また、鉄製の拘束具で遺体を棺に固定したり、棺に金属製のバンドをかけ、その強化用に特別なねじくぎが開発されたりした[51][52]。スコットランドでは、モートセーフと呼ばれる鉄製のケージが作られ、棺をケージに納めたり、頑丈な基礎の上にケージを据えて墓全体を覆ったりという埋葬方式が取られるようになった[注釈 19]。これには、複数の棺を覆う大きさのもの、また鉄格子の形を取って大きな石板の下に据え付けられ、棺と共に埋葬されるものもあった[51][52]。しかしこれでも十分とは言えず、20世紀に入ってからの研究では、アバラワー(英語版)でモートセーフの下から空の棺が見つかったことが報告されている。これについて、「葬儀の次の晩に棺を開け、それから慎重に閉め戻したと考えられ、これにより土の掘り跡は見逃がされたか、本来の埋葬によるものだとみなされた」との見解が出されている[注釈 20]。
その他の方法
死体盗掘人たちは、救貧院(ワークハウス)から遺体を盗み出すため、しばしば嘆き悲しむ親族を演じる女性を雇った。葬儀の代金を節約するため、十分な盗掘防止策を取れない教区も存在した。葬儀前に遺体を安置するデッド・ハウス(英語版)からも、彼らは窃盗を働いた。アストリー・クーパーの従僕は、34ポンド2シリングの値だった遺体3体を、元あったロンドン・ニューイントン(英語版)のデッド・ハウスへ返しに行かされたことすらある。賄賂も横行し、その相手は亡くなったばかりの主人がまだ安置されているような家の使用人が主だったが、埋葬前の遺体は人の目に触れる場所に安置されていることも多く、この方法にはそもそもリスクが大きかった[55]。遺体は通常の家からも公然と盗み出された。1831年の『タイムズ』紙では、バウ・レーン(英: Bow Lane)にある家に「死体盗掘人の一団」(英: "a party of resurrectionists")がなだれ込み、「友人や近所の人によって通夜が営まれていた」[注釈 21]老婦人の遺体を引きずり出すという一件が発生した。盗人たちは、明らかに「不快で不作法な暴挙を働き、通りの泥を抜けて、死に装束に身を包んだ遺体を牽いていった」と記録されている[注釈 22][56]。遺体は、合法的な権限無く、監獄や海軍・陸軍病院からも引き取られていった[57]。
『残酷の4段階』「残酷の報酬」 "The Four Stages of Cruelty: The Reward of Cruelty"(1751年)、ウィリアム・ホガース作[60]。 罪人が外科医によって解剖される様子を描いている。この作品には、人体解剖やイングランドの法律に則った処置に対する、一般の迷信が如実に映し出されている[61]
ロンドンの死刑場は1783年にタイバーンからニューゲート監獄へと移され、民衆の邪魔が入る可能性が減少したほか、当局の囚人管理がより強固になった。しかしながら、世間での解剖に関する見方は明確なままで、公然と晒されるジベット(さらし柱)(英語版)の方がよっぽど好まれた。流罪の刑を終えずに帰ってきたとして1721年に死刑宣告されたマーティン・グレイ(英: Martin Gray)は、「自分の体は死んだ後、少なくとも切られ、裂かれ、ずたずたにされるのだと大変怯え、これを回避するお金を得るために、自分のおじのもとへ妻を送った」と記録されている[62]。1725年に妻殺しで死刑を宣告されたヴィンセント・デイヴィス(英: Vincent Davis)は、解剖されるくらいなら鎖で吊るされたほうがましだと話し、そのために以前の友人全員と知り合いに手紙を送って、団体を作って外科医による解剖を免れられるよう[懇願した]」とある[63]。ショート・ドロップ (Short drop) による絞首刑で絶命しなかった例もあったが、その後の人体解剖は、死を回避する望みを打ち砕くことになった。一般の人々にとって解剖学者は、そしてジェームズ4世やヘンリー8世と結んだ、法律という結びつきの実行者として解剖に興味があるだけなのだと認識していた[6]。医学誌『ランセット』の編集者だったトーマス・ウェイクリー(英: Thomas Wakley)は、これが「民衆の心の中の、[医師という]専門職の品位」(英: "the character of the profession in the public mind")を貶めていると書き残している[64]。また解剖は、遺体となった人々の「死後の暮らし」を認識できなくするとも考えられていた。このため、自分たちが雇った死体盗掘人ほど憎悪されてはいないとしても、解剖学者たち本人が襲撃される危険もあった。1820年に処刑された男の親族は、1人の解剖学者を殺し、もう1人の解剖学者の顔面を撃ち抜いたし[65][66]、1831年には、埋められた人肉と解剖された3体の遺体が見つかったことを契機に、暴徒がアバディーンの解剖劇場になだれ込むという事件が発生した。劇場の所有者だったアンドルー・モイア(英: Andrew Moir)は窓から逃走したが、彼の生徒2人が通り中追いかけ回されたと記録されている[67]。
解剖に対する一般の認識を傍証するものとして、ウィリアム・ホガースの連作『残酷の4段階』の最終作、「残酷の報酬」 が挙げられるが、この連作では重罪犯が解剖劇場で辿る運命が版画で描かれている[68]。外科医長(ジョン・フレーク(英語版))[69]が執政官として登場し、彼は外科医たち(英: The Company of Surgeons)によって殺人犯トム・ネロ(英: Tom Nero)が検分される様子を観ている。フィオナ・ハスラム(英: Fiona Haslam)によれば、このシーンは、外科医が「概して不評で、人の苦しみに鈍感であり、犯罪者の餌食とされた人々に降りかかったのと同じ方法で人々を痛めつけようとしている」という一般の認識を反映したものだという[注釈 23]。またホガースの絵からは、外科医は解剖される遺体に対する敬意が欠落しており、そのため臓肉になっても気にしないのだろうという一般の誤解を窺い知ることができる。実際のところ、死体泥棒は遺体を粗雑に扱っていたし、運ばれる先でも同様だったことは想像に難くない。解剖学者のジョシュア・ブルックスは大袋に入った遺体を蹴飛ばして階段を転がしたと認めているし[71]、ロバート・クリスティソンは、男性講師が女性の遺体の解剖実演を行った時、「ふさわしい知力も無いような不作法さに驚いた」(英: "shocking indecency without any qualifying wit")と述べている[72]。悪ふざけもしばしばであり、ロンドンではある学生が切断した脚を家の煙突から落とし、これがシチュー鍋に入って暴動が起きたという事件もあった[73]。
1832年解剖法 (Anatomy Act 1832)
『ヘンリー・ウォーバトン』 Henry Warburton(1833年)、ジョージ・ヘイター作。ウォーバトンは1828年の解剖に関する特別調査委員会報告書を執筆し、2通の嘆願書を国会に提出したが、2通目は1832年解剖法(英語版)として結実した
1828年3月のリヴァプールで、ウォリントンに埋葬されていた遺体1体を、共謀して不法に調達し受け取った罪で告訴された3人の被告人が、無罪放免となる一件が起きた。裁判長は判決文の中で、「解剖用に死体を掘り起こすことは、罪を受けるだけの法的責任があることだ」(英: "the disinterment of bodies for dissection was an offence liable to punishment")とし、議会に1828年解剖に関する特別調査委員会設立を促した[74][注釈 24]。委員会は40人の証人から証言を取ったが、その内訳は医学専門職25名、公職者12名、匿名の死体盗掘人3名であった[75]。議論されたのは解剖の重要性、解剖用遺体の調達、また解剖学者と死体盗掘人の関係性であった。委員会は人体解剖学研究に解剖は重要だと結論付け、解剖学者が貧困者の遺体を用いられるようにすべきだと推奨した[76]。
^初期近代英語:"Good frend for Iesvs sake forbeare, To digg the dvst encloased heare. Bleste be ye man yt spares thes stones, And cvrst be he yt moves my bones." これを現在使われるような英語に直すと、"Good friend, for Jesus' sake forbeare, To dig the dust enclosed here. Blessed be the man that spares these stones, And cursed be he that moves my bones" となる[16]。
^原文:"The Corporation of Corpse-stealers, I am told, support themselves and Families very comfortably; and that no one should be surpriz'd at the Name of such a Society, the late Resurrections in St. Saviour's, St. Giles's, and St. Pancras's Churchyards, are memorable Instances of this laudable Profession."
^原文:"a man may make a good living at it, if he is a sober man, and acts with judgement, and supplies the schools".[25]
^原文:"To restore order, and discover the offenders if possible, a large reward was offered, and the committee aforesaid appointed; by whose enquiries, it was found that the Grave Digger, and three other persons were the robbers, and that the bodies had been conveyed away in a coach to different people for various purposes, as was made appear to them by informations upon oath; the material parts of one of which informations being now read, showed, that within the knowledge of the informant, eight surgeons of public repute, and a man who calls himself an Articulator (and by hand-bills openly avows the trade, exclusive of others of less note) are in the constant habit of buying stolen dead bodies, during the winter half year; in whose service the following fifteen persons are generally employed, namely, Samuel Arnot, alias Harding; John Gilmore, Thomas Gilmore, Thomas Pain, Peter McIntire, alias Mc Intosh, James Profit, Jeremiah Keese, Moris Hogarty, — White, a man called Long John the Coachman, John Butler, John Howison, Samuel Hatton, John Parker; and Henry Wheeler, whose depredations have extended to thirty Burial Grounds that the informant knows of; and that grave diggers, and those intrusted with the care of Burial Grounds, are frequently accessory to the robberies, and receive five shillings per Corpse for every one, that with their privily is carried off, by which means many hundreds are taken from their grave annually."[26]
^原文:"Resurrection was one of the most covert underworld activities of the day, and tantalisingly little about it has ever come to light".
^原文:A "volley of bullets, slugs, and swan-shot from the resurrectionists" prompted a "discharge of fire-arms from the defenders".
^原文:to "prevent their prisoners being sacrificed by the indignant multitude, which was most anxious to inflict such punishment upon them as it thought they deserved."[46]
^原文:"[The Anatomist] obtained a famous supply [of cadavers] ... and he could charge pretty handsomely for burying a body there, and afterwards get from his pupils from eight to twelve guineas for taking it up again!"[50]
^オックスフォード英語辞典では、モートセーフの歴史的定義について、"an iron frame placed over a coffin or at the entrance to a grave as a protection against resurrectionists in Scotland."(意味:棺の上または墓穴の入口に掛けられた鉄製の枠格子で、スコットランドの死体盗掘人からこれらを守る目的で設置された)と述べている[53]。
^原文:[It had probably been] "opened during the night succeeding the funeral, and carefully closed again, so that the disturbance of the soil had escaped notice or had been attributed to the original burial."[54]
^原文:[being] "'waked' by her friends and neighbours"
^原文:The thieves apparently "acted with the most revolting indecency, dragging the corpse in its death clothes after them through the mud in the street".
^原文:[Surgeons were] "on the whole, disreputable, insensitive to human suffering and prone to victimis[ing] people in the same way that criminals victimised their prey.[70]
^“Old Bailey Online”, Ordinary's Account (oldbaileyonline.org): pp. 5–6, (30 April 1725), http://www.oldbaileyonline.org/browse.jsp?path=ordinarysAccounts%2FOA17250430.xml2013年1月17日閲覧, "[he would rather be] "hang'd in Chains" [than] "anatomiz'd" [—中略— and to that effect had] "sent many Letters to all his former Friends and Acquaintance to form a Company, and prevent the Surgeons in their Designs upon his Body"."