ウディ・アレン会見
『ウディ・アレン会見』(-かいけん、Meetin' WA)は、ジャン=リュック・ゴダール監督による、1986年製作のフランスの短篇ビデオ映画である。ウディ・アレンへのゴダールによるインタビューを収録したドキュメンタリーである。 概要1985年の第38回カンヌ国際映画祭の期間中、イスラエルからハリウッドに進出して気を吐く映画プロデューサーメナヘム・ゴーランとランチをとったゴダールは、100万ドルで、作家のノーマン・メイラーをリア王に、ウディ・アレンを道化にしたシェークスピアの『リア王』の映画化を了承する。即座にレストランのナプキンにサインされ、契約は締結される。この時点で、トム・ラディが『ゴダールのリア王』(1987年)のプロデューサーとして雇われる。 当時、アレンは翌1986年の第39回カンヌ国際映画祭で新作『ハンナとその姉妹』がプレミア上映されることが決まっており、ここ数年カンヌに行っていないことからナーヴァスになっていた。ラディがゴダールにサジェスチョンしたのは、『ゴダールのリア王』の製作開始を延期しているあいだに、アレンに対しゴダールが新作についてのインタビューをし、それを映画祭でサプライズ上映すること。このアイデアをゴダールも、アレンも、カンヌのディレクターのジル・ジャコブも気に入り、映画祭サイドとスイスのテレビ局から製作資金を得た。このドキュメンタリーは、たんなるインタビューよりもクリエイティヴなものに仕上がった[1]。 撮影のクリスチャン・シモンピエトリは写真家である。ピエール・バンジェリは、ゴダールのグルノーブル時代のテレビシリーズ『二人の子どもフランス漫遊記』(1977年 - 1978年)で撮影監督ウィリアム・リュプチャンスキーの助手につき、また、本作ののち、オムニバス映画『パリ・ストーリー Les Français vus par...』のゴダール篇『最後の言葉』(1988年)で撮影監督をつとめる。アネット・インスドルフは作品末尾では「ジャーナリスト」とクレジットされている。 本作は、黒味画面に大文字で「MEETIN' WA」の白抜き文字で始まり、ゴダールの声が聞こえる。カメラが引くと、それがゴダールの背中であることがわかる。そこはニューヨークのアレンのオフィス。窓から外を見下ろす彼の背中に彼の顔のイラストがオーバーラップする。アレンもゴダールも好きなサイレント映画で多用されたアイリスで、インタビューが始まり、アレンが紹介される。インタビューの進行に従い、「NORMAL MAN(ノーマルな男)」、「STRUGGLE(闘争)」、「TITLE(題名)」、「HANNAH KARENINE(ハンナ・カレーニナ)」[2]、「FLASH GORDON(フラッシュ・ゴードン)」[3]、「THE ANXIETY OF THE MAN IN THE BOOTH(ブースの中の男の不安)」、「SUMMER IN NEW-YORK(ニューヨークの夏)」、「AUTUM CHILL(秋の凍え)」[4]、「THE BIG LEAP(大いなる跳躍)」[5]、「LUCKY I RAN INTO YOU(あなたにあえてわたしはラッキーだ)」といった文字がインサートされる。オーソン・ウェルズ、エリザベス・テーラー、後半からは『インテリア』(1978年)、『マンハッタン』(1979年)ほかアレンの数々のフィルムがインサートされる。 この作品の発案者であるトム・ラディは、かつて「政治の時代」に踏み出したばかりのゴダールとD・A・ペネベイカーの共同監督作『ワン・アメリカン・ムービー』(1968年 - 1972年)に出演しており、1983年には、かつてゴダールにオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』(1967年)への参加を呼びかけたクリス・マルケル監督の『サン・ソレイユ』でマルケルの撮影助手をつとめた人物で、1987年には、かつてエリック・ロメールと「レ・フィルム・デュ・ローザンジュ」を共同設立したバルベ・シュレデールのハリウッドでの監督作『バーフライ』をメナハム・ゴーランの出資のもとプロデュースしている。ちなみにカンヌでの伝説の「ナプキン」をラディが最後に観たのは、ゴーランのオフィスで、ナプキンは額に入れて飾ってあったと語っている[1]。 作品データカラー作品(ビデオ) / 上映時間 26分 / 上映サイズ1:1.37(スタンダード・サイズ) スタッフ・キャスト
註
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