エディ・ジョーダン
エドムンド・パトリック・''エディ''・ジョーダン(Edmund Patrick "Eddie" Jordan OBE、1948年3月30日 - 2025年3月20日)は、アイルランド出身の元レーシングドライバーで、F1コンストラクター「ジョーダン・グランプリ」の創設者。 F1では新興の同チームを指揮しグランプリ通算4勝の実績を残した。2005年にF1を勇退し、その後はマスメディア業界に転身していた。愛称は「EJ」。2012年3月、 大英帝国勲章を叙勲[1]。 経歴レーシングドライバー1948年にアイルランド・ダブリンで生まれる。彼は歯科医になるつもりで学んだが、学校を卒業した後アイルランド銀行に就職した。ダブリンでストライキが行われている時にジャージー島を訪れ、そこで初めてカートレースを目撃しその虜となる。ダブリンへ戻るとレーシングカートを購入し、レースに参加し始める。最初のレースはジャージー島のボーレイ湾で1970年に行われたものであった。1971年のアイルランド・カート選手権に参加し優勝した。 1974年にはフォーミュラ・フォードにステップアップ。同クラスに2年間参加したが、事故で両脚を骨折し、1976年シーズンへの参加を断念する。傷が癒えるとフォーミュラ・アトランティックに参戦、1977年に3勝し、1978年にはアイルランド選手権を制する。ステファン・ヨハンソンをチームメイトに1979年のイギリスF3で戦い、彼らは自身を「チーム・アイルランド」と呼んだ。同年にはF2の1戦にスポット参加し、マクラーレンのテストドライブも行った。 チームオーナー1979年の終わりに最初のプライベートチーム「エディ・ジョーダン・レーシング」(EJR)を設立。ドライバーはデヴィッド・レズリーとデヴィッド・シアーズで、1981年にイギリス近辺の複数のレースに参加した。1982年にはジェームス・ウィーバーをエースドライバーとしたが、1983年にウィーバーがヨーロッパF3に参加したため、前年ランキング4位のマーティン・ブランドルを新たに起用[2]。ブランドルはイギリスF3でアイルトン・セナと選手権を争い、シリーズ2位を獲得するとF1に昇格した。チームは1987年にジョニー・ハーバートを採用し、イギリスF3を制覇した。 EJRはハーバート、マーティン・ドネリー、そしてシャーシーメーカーのレイナードとともに国際F3000へステップアップして参戦開始。その緒戦となる1988年開幕戦でハーバートがチームのF3000初レース・初勝利を飾った。これはレイナードシャーシにとってもF3000初戦での勝利という快挙であった。この勝利を交渉に生かしたジョーダンはR.J.レイノルズとの契約を成立させ、たばこブランド「キャメル」をタイトルスポンサーとして獲得する手腕を見せた。1989年にはジャン・アレジを擁して国際F3000チャンピオンを獲得した。1990年になるとジョーダンはF1進出の準備に動きはじめ、ゲイリー・アンダーソンやイアン・フィリップスなど後の主要スタッフにF1参戦構想を打ち明け、搭載エンジン獲得交渉などを開始していた[3]。 1991年に「ジョーダン・グランプリ」を設立してF1に参戦。交渉手腕を活かしてワークス(型落ち)のフォードHBエンジンを獲得し、初年度からコンストラクターズ5位を獲得した。その後ヤマハ、ハート、プジョー、無限ホンダとエンジンメーカーを乗り換えながらチーム力を拡充し、1998年にF1初優勝を達成した。1999年にはコンストラクターズ3位を獲得するが、これを頂点に成績は下降線を辿り、チーム組織も弱体化していった。この背景は2000年シーズン中のマイク・ガスコインの他チームへの移籍表明をきっかけにエンジニアが年々離脱していき、その穴埋めができず開発体制は弱体化。チーム規模を拡大してきたことによる相対的な資金不足にも見舞われた点が挙げられる 2004年末の資金難で翌年に、ロシア系カナダ人ビジネスマン、アレックス・シュナイダーにチームを売却。2006年からMF1レーシングと改名する。その後また人手に渡り、スパイカーF1→フォース・インディア→レーシング・ポイントと変遷を繰り返し、2022年現在はアストンマーティンF1となっている。 解説者![]() オーナー業から退いた後は『F1 Racing』誌にコラムを寄稿するなど、マスメディア側に転身する。2009年よりイギリスBBCのF1中継番組のコメンテーター陣に加わり、マーティン・ブランドル、デビッド・クルサードらと共に軽妙な解説を行っている。 また、2024年までレッドブル・レーシングのテクニカルオフィサーを務めたエイドリアン・ニューウェイのマネージメントも担当している。 慈善活動とモータースポーツへの貢献を認められ、2012年に大英帝国勲章OBEの叙勲を受けた[4]。2016年にはBBCの自動車番組『トップ・ギア』の司会者陣に加わったが[5]、短期間で降板した。 死去2024年12月、がんに侵され闘病中であることを明らかにした。本人によれば、同年3 - 4月にかけて「膀胱がんと前立腺がんが見つかり、その後、がんが脊椎と骨盤に転移した」という[6]。翌2025年3月20日の早朝、ケープタウンで家族に見守られながら亡くなった[7][8]。76歳没[9]。 レース戦績B.R.D.C. / British Racing Drivers Club フォーミュラ3選手権 (Vandervellシリーズ)
イギリス・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
ル・マン24時間レース
エピソード
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脚注出典
関連項目 |
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