2004年のF1世界選手権
![]() 2004年のF1世界選手権(2004ねんのエフワンせかいせんしゅけん)は、FIAフォーミュラ1世界選手権の第55回大会である。2004年3月7日にオーストラリアで開幕し、10月24日にブラジルで開催される最終戦まで、全18戦で争われた。 概要![]() ![]() 初開催となるバーレーングランプリと中国グランプリがカレンダーに追加されたことで、(当時)過去最多となる18レースで行われるシーズンとなった。日本人ドライバーの佐藤琢磨がアメリカグランプリで自身初、日本人としても1990年日本グランプリにおける鈴木亜久里以来の3位表彰台を獲得した。また、ミナルディが2年ぶりにポイントを獲得した。 ミハエル・シューマッハが自身7度目のチャンピオンをベルギーGPにて5年連続で獲得した。2002年に自身が達成した年間最多勝利を11から13に伸ばし、2022年にマックス・フェルスタッペンが破るまで(2013年のセバスチャン・ベッテルと共に)記録を保持し続けた。また、フェラーリが6年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得し、2年ぶりにフェラーリドライバーでチャンピオンシップの1位と2位を独占した。 レギュレーションの変更2004年シーズンでの変更点を以下に示す。 金曜テストを廃止し、フリー走行に前シーズントップ4以外のチームは金曜のフリー走行に3台目のマシンを走行させられる。ただしドライバーはスーパーライセンスを保持していることや過去の出走数規定などがあり、誰でも走れるというわけではない。例えばミナルディはバス・ラインダースを金曜日の走行に起用しようとしたが、ライセンスの発給問題で出走はマレーシア以降となった。 1GP1エンジン。ドライバー一人につき、1GPで1エンジンしか使用できない[1]。(エンジンの使用台数削減によるコスト削減が狙い) リヤウイングのエレメント数を最大3枚から2枚に規制強化。 リヤウイング翼端板とエンジンカバーを側面から見たときの最低面積を規定 (広告スペースを確保するため) ローンチ・コントロールは禁止。 シーズン終了後から翌年にかけてジャガーはレッドブルに買収され、翌シーズンはレッドブル・レーシングとして参戦となる(チーム代表に当時31歳の若さでクリスチャン・ホーナーが就任)。これによりレッドブルは長年タイトルスポンサーとなっていたザウバーから撤退。 ジョーダンは翌年1月にロシア資本のミッドランド・グループに買収された。ただし2005年チームはジョーダン名義で参戦、2006年からはミッドランドF1として参戦する。 タイヤ戦争昨年9勝と7勝と、拮抗していたタイヤ戦争ではあったが、2004年はモナコ、ベルギー、ブラジルグランプリの3レースでミシュランタイヤが制したほかはすべてのレースでブリヂストンタイヤを使用するフェラーリが優勝した。昨年はミシュランが表彰台を独占するレースもあったが、この年はフェラーリが全てのレースで表彰台に立った。 B・A・Rはこのシーズンからミシュランタイヤを使用した。シーズン終了後には、ブリヂストンタイヤの耐久性をいかした戦略でポイントを稼いだザウバーがミシュランタイヤ陣営に移った。 このシーズンはタイヤのトラブルが相次いだ。アメリカGPではタイヤのトラブルでラルフ・シューマッハが事故をおこし、病院に搬送された。その後ラルフは6戦を欠場する。同レースではラルフの事故の前にアロンソも大事故を起こしていた。ベルギーGPではフリー走行中にライアン・ブリスコーがタイヤの問題で事故を起こし、レースでもデビッド・クルサード、ジェンソン・バトン、ファン・パブロ・モントーヤがタイヤのトラブルでリタイヤ、または優勝争いから脱落している。 エントリーリスト
エントリー名変更
ドライバー変更
※ 3rdドライバーの変更
結果ドライバーズ・ワールド・チャンピオンシップ(選手部門)1位から8位までが入賞。獲得ポイントは、1位から順に10,8,6,5,4,3,2,1点である。
† リタイアしたがレース距離の90%以上を走行していたため完走扱い コンストラクターズ・ワールド・チャンピオンシップ(製造者部門)
開催地及び勝者
新たに追加された選手権の行事
開催されなくなった選手権の行事
脚注
外部リンク
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