1995年のF1世界選手権
![]() 1995年のF1世界選手権(1995ねんのエフワンせかいせんしゅけん)は、FIAF1世界選手権の第46回大会である。1995年3月26日にブラジルで開幕し、11月12日にオーストラリアで開催される最終戦まで、全17戦で争われた。 シーズン概要ベネトンから参戦したミハエル・シューマッハが2年連続でワールドチャンピオンに戴冠したシーズンである。この年からベネトンのエンジンは1987年から使用していたフォード・コスワース系列のエンジンからルノーに変更された。チャンピオン争いは前年に引き続きウィリアムズのデイモン・ヒルとの間で争われたものの、最終戦を1ポイント差で迎えた前年とはうって変わり、最終的には30ポイント以上離して全17戦中の第15戦パシフィックGPにてチャンピオンを決定させている。コンストラクターズチャンピオンシップも3連覇中のウィリアムズを抑えてベネトンが参戦以来初の戴冠を果たした。また、ルノーエンジンにとっては前年までのウィリアムズでの3連覇と併せて4連覇達成となっている。ドライバーではフェラーリのジャン・アレジがカナダGPでキャリア初優勝を遂げており、この勝利はルノーエンジンのシーズン全勝を阻む優勝にもなった。また、マクラーレンから参戦したナイジェル・マンセルはスペインGPを以ってチームを離脱することとなり、結果としてはそのまま引退となっている。 ベネトン対ウィリアムズ![]() ベネトンは前年中盤にチーム代表のフラビオ・ブリアトーレがリジェチームを買収。リジェが使用していたルノーエンジンのベネトンへの供給を引き出すことに成功し、このシーズンからライバルであるウィリアムズが使用しているのと同じエンジンで戦うことになった。ドライバーはミハエル・シューマッハと前年の日本GPからチームに加わったジョニー・ハーバートのコンビとなっている。この年の新車B195は開幕直後はフォード・コスワース・ZETEC-Rエンジンからルノーエンジンに変更した影響もあって、ドライバビリティの安定性を欠いた面を見せていたものの、すぐさま大改良を施して第4戦スペインGPではシューマッハが優勝しハーバートが2位となるワンツーフィニッシュを達成。以後は予選こそウィリアムズ勢に先を越されることが多かったものの、高い信頼性と前年に引き続いてのピット戦略を武器にシューマッハは勝利を重ね、1992年のナイジェル・マンセルに並ぶシーズン9勝を記録[1]。第15戦パシフィックGPにてシューマッハが優勝し、ヒルが3位に終わったことで、ドライバーズタイトルの連覇を達成。ハーバートもチャンピオン争いをしていたシューマッハとヒルが共倒れとなった地元イギリスGPにてF1初優勝を遂げると、同じく共倒れとなったイタリアGPでも優勝する活躍を見せ、ドライバーズランキングでも4位に入り、ベネトンのコンストラクターズ初タイトルに大きく貢献した。 その一方でウィリアムズは、デイモン・ヒルと前年セナ亡き後にデビューしたデビッド・クルサードがレギュラードライバーとして起用。ドライバーズチャンピオンシップではヒルがシューマッハのライバルとなったものの、シューマッハを脅かすような存在とまではなれなかった。また、フル参戦初年度となったクルサードは、第2戦アルゼンチンGPにてキャリア初PPも含めシーズン4度のPPを獲得したものの、優勝は第13戦ポルトガルGPでの初優勝1回に留まっている。これはこの年のウィリアムズ・FW17はPP(ポールポジション)の獲得数も含め、予選こそウィリアムズ勢がベネトンを上回る成績を記録するも、決勝ではマシンの信頼性に起因するマシントラブルによるリタイア、二人ともドライビングミスによるポイントを取りこぼしてしまい、これらが結果的にタイトル争いに影響することとなった。ウィリアムズのシーズンの成績としてはヒルとクルサードの二人で12PPを獲得したが、優勝は5勝(ヒル4勝、クルサード1勝)に留まり、コンストラクターズ4連覇を逃してしまっている。 ところが、シーズン中の8月10日に、フィアットの会長からシューマッハの翌シーズンのフェラーリ移籍が発表されるという事態が起きる。また、チームのタイトル獲得に貢献したハーバートも、シューマッハによる絶対的なナンバーワン体制を構築したベネトンチームに対して不満を示し、移籍を希望することとなり、結局ザウバーへと移籍をすることになってしまうなど、ベネトンはチーム初のコンストラクターズ戴冠を達成したものの、2人のドライバーが共に移籍をすることとなってしまった。また、ウィリアムズの方も第13戦ポルトガルGPを前にした9月20日、往年のF1ドライバーのジル・ヴィルヌーヴの息子であり、1995年のアメリカインディ選手権にてチャンピオンになったばかりのジャック・ヴィルヌーヴの翌1996年のウィリアムズへの加入が発表。クルサードは1995年で契約満了となる予定であったため、そのままチームを離脱しマクラーレンへ移籍した。 ジャン・アレジの優勝![]() フェラーリはジャン・アレジとゲルハルト・ベルガーのコンビで3年目のシーズンを迎えた。この年のフェラーリは度々ウィリアムズとベネトンの2強の間に割って入る活躍を見せ、特に第6戦カナダGPではアレジがデビューから92戦目で自身の唯一の優勝を成し遂げており、この勝利は結果としてルノーエンジンのシーズン全勝を阻むものとなっている。しかし、フロントローを独占した第11戦ベルギーGPやレース終盤までワンツー体制を築いた地元イタリアGPなど、トップを奪うことはあったもののマシンの信頼性が課題と勝利を加算できず、チームとしての優勝は前述のアレジの1勝に留まった。そんななか、翌年に向け、ドライバーの変更が行われる結果となり、前述のとおり、シーズン中の8月には翌シーズンのシューマッハの加入が発表され、終盤のヨーロッパGPではジョーダンのエディ・アーバインを契約ごと買い取りを実施。それによりアレジとベルガーは共にベネトンへ移籍することとなった。 低迷が目立つマクラーレンマクラーレンはこの年からメルセデスベンツのワークス供給を受けることとなった。ドライバーはミカ・ハッキネンと前年ウィリアムズに復帰していたナイジェル・マンセルのラインナップにて開幕を迎えている。しかし、マンセルはチーム代表のロン・デニスとは以前から犬猿の仲であることは有名だったので、マンセルのマクラーレン加入は驚きを以って伝えられた。これはセナの事故死やプロストの引退によるF1人気の低下を危惧したメインスポンサーのマールボロや、FIA会長のバーニー・エクレストンらの意向による政治的な背景があったとされ、周囲の懸念の通りマンセルはコックピットの狭さを訴えシーズン開幕から2戦を欠場。その後、第3戦サンマリノGPと第4戦スペインGPを出走するものの、マシンに不満を訴え、スペインGPがリタイアで終わると同時にチームを離脱した。マンセル離脱で空いたシートには、マンセルが欠場した開幕2戦も出走したテストドライバーのマーク・ブランデルが座ることとなった。マシンの戦闘力向上のため、シーズン途中に改良型を投入したものの、ハッキネンが2位2回を獲得するにとどまり、前年に続き未勝利にてシーズンを終了している。また、ハッキネンは最終戦のオーストラリアGPにてタイヤのパンクによる重大なる事故を体験。事故の衝撃で自らの舌を噛み切ってしまう重傷で、オフのテスト期間は治療に専念することとなった。 その他のチーム
日本人ドライバーの概要この年は前年に引き続き、多数の日本人ドライバーが参戦をしている。 鈴木亜久里前年F1浪人をした(第2戦パシフィックGPにてジョーダンから1戦のみスポット参戦をした)鈴木亜久里は無限ホンダの後押しもあって、無限エンジンを搭載することになったリジェと契約した。亜久里自身は全戦契約のつもりでいたが、チームが発表した契約は共同オーナーのトム・ウォーキンショーが推すマーティン・ブランドルとのシートシェアという変則的なものであった。当初参戦数は半々という話しであったが、シートはブランドルの出走が優先され、シーズン全体でも全17戦中、亜久里は5戦の出場に留まっている。それでも第9戦ドイツGPにて実に4年ぶり(1991年アメリカグランプリ以来)の6位入賞を果たしている。また、第16戦日本GPの予選終了後に引退会見を行い、正式にF1引退を発表しようとしたのだが、予選中のクラッシュによって負傷をしてしまい、決勝には出走できず、そのまま引退する形となった。 片山右京前年飛躍のシーズンを過ごし、大きく期待された片山右京であったが、開幕から投入された新車ティレル・023は、開発した新装備のハイドロリックサスペンションを実装したものの、期待通りの性能を発揮できず戦闘力が不足していた。片山自身も新しいチームメイトのミカ・サロの後塵を拝すことが多く、第13戦ポルトガルGPのスタート直後に壮絶なクラッシュも経験。左後輪が後方のミナルディのルカ・バドエルの右側前輪に乗り上げでしまい、マシンは7回転半の錐揉み回転にてコースに叩きつけられ、原型を留めない姿にて逆さに停止した。最悪の事態も想定されたが、幸いにも片山は大事には至らずに翌14戦のヨーロッパGPを1戦欠場したのみで復帰を果たしている。成績の面では、入賞なしにてシーズンを終了した。 井上隆智穂前年の日本GPにてシムテックからF1デビューした井上隆智穂は、この年フットワークからレギュラー参戦を果たし、中嶋悟、鈴木亜久里、片山右京に続き4人目の日本人レギュラードライバーとなった。非力なハートエンジンと資金不足のチームという組み合わせであったこともあり、成績自体は入賞といった記録は残せなかったものの(最高位:予選18位、決勝8位)、それまでの日本人ドライバーと違い自動車メーカーの支援を一切受けずに、自ら見つけたスポンサーを頼りにF1参戦を果たした点は結果的に異色の存在であった。井上は1996年シーズンもミナルディにシートを確保したものの、肝心のスポンサーフィーが約束の期限に支払われない事態が発生してしまい、結局シートを失ってしまいF1参戦は1シーズンに留まっている。 その他の日本人この年は前年ラルースからスポット参戦を果たした野田英樹もシムテックチームから参戦をすることが決まっていたが、阪神淡路大震災の影響により、野田のスポンサーからの支払われるはずのスポンサーフィーが遅れることが濃厚となったため、第6戦カナダGPからの参戦と決定していた。しかし、第5戦のモナコGPが終わった時点でチームの資金難が明るみになり、野田参戦前にチームが撤退することになってしまい、1995年シーズンの参戦は実現しなかった。結局、野田は以後F1に出走する機会を得ることができず、前年のラルースからの出走がキャリアで唯一のF1出走ということになってしまった。 また、パシフィックが日本で開催されるパシフィックGPと日本GPに山本勝巳を起用しようとしたが、スーパーライセンスが発給されずに断念している。 トピック
レギュレーション変更
開催地及び勝者備考当初4月に第2戦として予定されていたパシフィックグランプリは、同年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の影響を受け、第15戦へ変更された。その結果、鈴鹿サーキットでの第16戦日本グランプリとあわせて、1国2週連続開催となった。 エントリーリスト
ドライバー変更
1995年のドライバーズランキング
† リタイアしたがレース距離の90%以上を走行していたため完走扱い 1995年のコンストラクターズランキング![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
参考
外部リンク
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